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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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明智光秀は産婦人科医!? だった - 転換期の医術と戦国武将 ー

先日テレビで 歴史秘話ヒストリア「あらためて知りたい 明智光秀」を観て、明智光秀とは、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件(本能寺の変)くらいの知識しかありませんでしたが、明智光秀の前半生が謎に包まれてることが多いことに興味を持ち調べてみました。

明智光秀は清和源氏の末裔土岐氏支流である明智氏に生まれとあるが、父母の名前も分からない、生年は信頼性の高い同時代史料からは判明せず不詳である。
明智光秀が表舞台に登場するのは織田信長に仕える頃からなので全てが不明瞭なのです。
主君を斎藤道三の家臣から35歳の時朝倉家に仕え、41歳で足利義昭に仕え44歳の時織田信長に仕える。


【明智光秀】


明智光秀は産婦人科医!? だった - 転換期の医術と戦国武将 ー_d0061579_833711.jpg



明智光秀の青年期は、斎藤道三とその嫡男・斎藤義龍との間で美濃国(岐阜県)の長良川にて行われた合戦(長良川の戦い)で、光秀は斎藤道三方であったために斎藤義龍に明智城を攻められ、一族が離散したとされる。その後、光秀は越前国の朝倉義景を頼り10年間仕えたとも言われ、越前国(福井県坂井市の長崎)にある「称念寺」の門前に、10年くらい住んでいたとされています。
日本医学り中興の祖で、光秀のことも治療した「医聖」曲直瀬道三(まなせ・どうざん)は、丹波攻めで疲弊、退却し病を患った明智光秀を治療しています。その治療は二ヶ月におよび、曲直瀬道三は針を打ち続けたとも伝わります。光秀が師事したのは曲直瀬道三でしょう。



※ 曲直瀬道三は永正13年(1516年)、五山文学の中心である京都の相国寺に入って喝食となり、詩文や書を学ぶ。この頃、姓を曲直瀬とする。享禄元年(1528年)、関東へ下って足利学校に学ぶ。ここで医学に興味を抱いたと言われる。名医として知られた田代三喜斎と出会い医学を志す。入門して李朱医学(当時明からもたらされた最新の漢方医学)を修める。なお李朱医学とは便宜的造語で、当流医学が実情に則した実際の学派名である。当流は道三が創り出したとする説があるが、これは明らかな誤りで田代三喜から相伝されたものである。天文15年(1546年)、再び京都へ上ると、還俗して医業に専念。将軍・足利義藤(後の足利義輝)を診察し、その後の京都政界を左右した細川晴元、三好長慶などの武将にも診療を行い、松永久秀には性技指南書である『黄素妙論(こうそみょうろん)』を伝授するなどして、名声を高め京都に啓迪院(けいてきいん)と称する医学校を創建した。
それまでの観念的な治療方法を改め、道三流医道を完成させ、実証的な臨床医学の端緒を開き、四知(神・聖・功・巧)の方を生み出した。
天文15年、将軍足利義輝に謁見している。以後、皇室や幕府へ出仕している事実から察すると、侍医として招聘されたものと考えられる。


【曲直瀬道三】

明智光秀は産婦人科医!? だった - 転換期の医術と戦国武将 ー_d0061579_8115797.jpg



明智光秀に関するもっとも古い史料「米田文書」が発見されています。
その「米田文書」の中に光秀が近江・高嶋田中城に籠城していた際、沼田勘解由左衛門尉(ぬまたかげゆざえもん)に口伝され、米田貞能が近江坂本(大津市)で写した『針薬方(しんやくほう)』という江戸時代の医学書に、明智光秀が医学の知識を持っていたことをうかがわせる記述があります。
「針薬方」は熊本藩細川家の家臣で医者だった米田貞能(こめださだかず)の子孫の自宅で発見されました。その後、調査が進められた結果、明智光秀が若き日に語った医学的知識を、人づてに聞いた米田がまとめたものだとみられることが分かり、光秀の活動を示す、最も古い史料とされています。、6年前に発見された医学書です。この古文書には、産婦人科に関する記述が多くあり、光秀が産婦人科医として活動していたことを伺わせるのです。



【針薬方】

明智光秀は産婦人科医!? だった - 転換期の医術と戦国武将 ー_d0061579_8291910.jpg



(原文)
右一部明智十兵衛尉高嶋田中
籠城之時口伝也      本ノ奥書如此
此一部より沼田勘解由左衛門尉殿大事
相伝於江州坂本写之
  永禄九 拾 廿日   貞能(花押)
  ニキリクタシ     留度時
 一、ハヅ 一、イワウ       水ニテ手ヲヒヤシ
 一、カンキャウ 一、カンセウ   カンセウヲセン
                  ジテ手ヲアラ
                  ウ也

(書き下し文)
右一部、明智十兵衛尉、高嶋田中
籠城の時口伝なり、      本の奥書かくのごとし、
この一部より、沼田勘解由左衛門尉殿大事に
相伝し、江州坂本においてこれを写す、
  永禄九 拾 廿日   貞能(花押)
  ニギリ下しとめたき時
 一、ハヅ 一、硫黄       
 一、カンキャウ 一、甘草   
 水にて手を冷やし、甘草を煎じて手を洗うなり

by kfujiken2 | 2020-04-02 08:33 | 歴史 | Comments(1)
Commented by kyotoshiryo at 2023-05-11 20:47 x
2023-5-11 拝見しました。
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