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伊藤博文の生涯(1841~1909)
山口県熊毛郡束荷村(現:光市)に林十蔵、琴子の長男として生まれた。幼名を利助。 萩に引っ越した後、父が伊藤家の養子となったため伊藤姓を名乗り、長じて俊輔、博文と称した。 来原良蔵の紹介で吉田松陰の松下村塾に学び、桂小五郎、高杉晋作らとともに尊王攘夷運動に奔走。 しかし、文久3年(1863年)イギリスに留学したのをきっかけに、開国・倒幕に論を転じた。 明治維新後に頭角をあらわし、 維新の三傑(西郷、大久保、木戸)亡き後は明治政府の中心人物として活躍、 大日本帝国憲法の制定や国会の開設に力を注ぎ、日本近代化の礎を築いた。 明治18年(1885年)初代内閣総理大臣に任じられ、名実とも明治政府の第一人者となった。 第二次伊藤内閣では日清戦争を遂行、戦後は、全権大使として下関で日清講和条約を締結した。 明治33年(1900年)には立憲政友会壮総裁として第四次伊藤内閣を組閣。 日露戦争後は初代韓国統監となり、公爵となったが、ハルビン駅で暗殺された。 旧伊藤博文邸(山口県指定有形文化財) 明治42(1909)年、博文は遠祖・林淡路守通起の没後300年の法要を行うための 別邸をこの地に建設するように命じ、同年10月14日に満州(現在の中国東北地区) へと出発しました。 しかし、同年10月26日にハルピンで狙撃を受けて死亡し、完成した別邸を見ること はできませんでした。その別邸が、現在「旧伊藤博文邸」として保存されています。 ・木造モルタル2階建 293.08㎡ ・総工費 21,291円38銭(現在の貨幣価値で約 7,500万円) ・基本設計は伊藤公 ・施工は下関の清水組(現在の㈱清水建設) 伊藤博文生家(復元) 伊藤博文公(幼名・林利助)が6才まで過ごした家を復元しています。 伊藤公は、天保12(1841)年9月2日林十蔵・琴子の長男として、 この茅葺の家で生まれました。 家の裏には、産湯に使ったとされる井戸や、幼年期に遊んだイチョウの木が現在も 残っています。 続く・・・ 生家内部 一家団欒 産湯の井戸
by kfujiken2
| 2007-03-07 14:19
| 歴史
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Comments(1)
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