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【21世紀フラワーファーム】

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~



カテゴリ:歴史( 199 )

明治維新に於ける歴史の変遷

大河ドラマ【西郷どん(せごどん)】も最終回の放送日が12/16(日)だそうですが、いよいよ西郷隆盛が立ち上がり『西南戦争』に突入と佳境に入って来ました。

時代区分が切り替わる時こそが歴史的転換点で、決定的な変革や戦いが行われています。都を移すという大変革で始まった奈良や平安時代、奥州合戦を経て全国統治を開始した鎌倉時代、桶狭間の戦いを経て政権を確立した安土桃山時代、関ヶ原の戦いを経て全国統治を開始した江戸時代など歴史的転換点は下剋上で成される。
歴史的転換点とは、歴史が大きく変わるターニングポイントとなる時期や出来事を指します。



【序論】

大政奉還が成立し王政復古が実行され、廃藩置県が断行され版籍奉還の実施が行われて、明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定した政治の流れの中で、西郷隆盛と大久保利通の対立が明治初期の明暗を分けた。
明治初期の政治に大きく影響を及ぼしたのが征韓論であり、征韓論をめぐって明治政府内で賛成派と反対派の遣韓論との論争が沸き起こったのが、大久保利通の強い反対にあって西郷隆盛の朝鮮派遣が中止になり、征韓論派・西郷隆盛と遣韓論(内治優先派)・大久保利通の軋轢(あつれき)が生じ始めた。


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「二条城での大政奉還図 邨田丹陵」



【明治維新に於ける歴史の詳細】


右大臣・岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、
伊藤博文、山口尚芳を副使とした総勢107名の岩倉使節団は、条約改正と海外視察を目的に1871(明治4)年、横浜港を出港。これはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、イタリア、ドイツの各国を訪問するという地球をぐるりと一周する大規模な渡航です。帰国するのは1年10カ月後になります。

そんな使節団の留守を守ったのは参議の西郷隆盛(薩摩)、大隈重信(肥前)、板垣退助(土佐)です。使節団は日本を出発する際、西郷隆盛を中心とする留守政府との間で「使節団が帰国するまでは極力、新しい政策は行わない」という取り決めをしていました。


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全権大使・岩倉具視と副使・大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳の 「岩倉使節団」の主要メンバー


【征韓論政変】

留守政府はそうした約束をあっさり破り、制度改革の面では四民平等を原則とした身分制度の改革、税制度を抜本的に改革する地租改正、義務教育を原則とした学制の公布、太陽暦の採用、徴兵令の制定など外遊組との約束とは完全に真逆のことをしました。外交面においても留守政府は朝鮮王国に開国要求のために外交を持ちかけることを計画します。日本はたびたび朝鮮政府に対し、外交を求めます。しかし、朝鮮王国はこの要求を拒絶します。日本政府は、言う事を聞かない朝鮮を武力で懲らしめ、力ずくで開国させようとする意見が出ます。幕末から新政府樹立に大きく貢献した大久保利通と西郷隆盛が対立する要因となったのが征韓論です。そしてその亀裂は修復されることなく、結果としては西南戦争が起きることにつながります。

元来日本と朝鮮は、徳川幕府の時代から親しく交際を続けていた間柄でしたが、幕府がペリーの来航を始めとする諸外国の外圧に屈し、和親条約や通商条約を結んだことにより、日本と朝鮮の関係は悪化し、事実上国交が無くなりました。その頃の朝鮮は、以前の日本がそうであったように外国との交際を一切断ち切り、鎖国政策を取っていたからです。


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征韓議論図 鈴木年基作。西郷隆盛は中央に着席


【結論】

明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、そんな中、外遊組がぞくぞくと帰国。岩倉具視や大久保利通、木戸孝允は「今は他国と戦争をしている場合ではない。富国強兵や殖産興業など内治を優先するべきだ」と建前論を主張するが、本音は留守政府が取り決めを破ったことに対し、大久保利通は切れたのではないかと解釈しています。強い反対にあって挫折し、西郷隆盛は政府を飛び出し帰郷します。
西郷に近い征韓論派の板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らが続いて下野した。この事件が俗にいう「明治六年の政変」です。
 不平士族の明治政府に対する不満は爆発し、佐賀の乱を発端に神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き、士族反乱の最大で最後の西南戦争を勃発し、国会開設運動,自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となり、大久保利通が自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り政権が確立する結果となった。



※ 佐賀の乱 : 1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。
佐賀の七賢人、維新の十傑と称される江藤新平は、近代日本の司法を整備した第一人者であり、その考え方や行動は正義に溢れ、尊敬の念を抱きます。

※ 神風連の乱 : 1876年(明治9年)に熊本市で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって廃刀令に反対して起こされた反乱。

※ 秋月の乱 : 明治9年(1876)10月、旧秋月藩士、宮崎車之助らが起こした不平士族の反乱。

※ 萩の乱 : 熊本県で起こった神風連の乱と、福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、前原一誠らが1876年(明治9年)に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

※ 西南戦争 : 1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である。



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by kfujiken2 | 2018-12-06 10:38 | 歴史 | Comments(0)

やまぐちを知ろう 【やまぐちの歴史】



長州藩の財政改革・藩政改革をした2人の救世主・毛利重就と村田清風。
毛利重就は「撫育方(ぶいくかた)」という長州藩の別途会計担当部局を設け、
村田清風は撫育方資金の運用増殖を狙って「越荷方(こしにかた)」という、倉庫業・金融業を行う役所を下関に設置した。
つまり、この2人によって長州藩の莫大な隠し財産がつくられ、幕末の政治工作資金や軍資金になった。
もし、この2人が居なかったら、長州藩の倒幕は無かったか倒幕運動に加担していなかったでしょう!明治維新を見ることはなかったか、明治維新が遅れたのではないでしょうか?



※ 余り講演会等で語られなかった、撫育方と越荷方という長州藩で行われた財政改革・藩政改革を詳しく説明しましょう。


◆ 長州藩の設立から財政改革・藩政改革までの経緯


戦国時代に112万石(実高は200万石超)あった長州藩は、毛利輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将として責任を取らされ36万9千石に減封され、4分の1に減った総石高では家臣たちを養うことさえ困難でした。土地を失い国を離れる者、農民へと転身するものが続出します。おまけに幕府の手伝い普請が追い打ちをかけます。
伏見城の復旧、江戸城の普請・・・莫大な費用が必要でした。
さらに天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政難のどん底からスタートした藩でした。長年の疲弊生活を強いられていた民衆は、1831年には、10万人を超える農民が参加した「天保一揆」が勃発。各地で百姓一揆が起こるなか、1833年には「天保の大飢饉」も起こり、さらに困窮しました。民衆の間では女子供を奉公という形で売ってしまうこともあったそうです。
上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。



◆ 第7代藩主毛利重就の財政改革

長州藩の中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就(しげたか)が、藩主に就き「宝暦の改革」を断行し藩政改革の足がかりをつくりました。
宝暦の検地を執り行い、4万石の税の増収を得ました。この収入を藩財政には組み込まず、「撫育方(ぶいくかた)」という別途会計担当部局を設け、こちらの資金として充て干拓や塩田の開発や中関の整備などを行いました。しかも撫育方の収入は、現在で言う一般会計ではなくて、特別会計でした。すなわち、藩の通常の予算、支出、あるいは、収入ということで財政処理するのではなくて、特別会計として藩の手元金として、使わずに手元に置いておきました。まさにいざというときに使うために、蓄積されたのです。長州藩のこの隠し財産の積み重ね「撫育金」は、次第に大きなものになっていきました。


第7代藩主毛利重就の肖像画と室積の撫育方跡地の石碑
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◆ 村田清風の藩政改革 


村田清風は第9代藩主毛利斉房(なりふさ)から第10代藩主斉熙(なりひろ)・第11代藩主斉元(なりもと)・第12代藩主斉広(なりとう)・第13代藩主敬親(たかちか)までの5代藩主に仕え、慢性的な借財に苦しんでいた第13代藩主毛利敬親の信任の下で長州藩の財政改革(天保の改革)に取り組んだ。
第7代藩主毛利重就が設け蓄積された撫育方資金の運用増殖を狙って、倉庫業・金融業を行う役所・「越荷方(こしにかた)」下関に設置した。下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。北前船の越荷(他国から入ってきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。これらの政策が成功して銀8万5千貫(現在の価値でおよそ約1400億円)もあった赤字は解消し、長州藩の財政は再建されていった。村田清風は藩政改革の途中で中風に倒れ、その後、坪井九右衛門、周布政之助に引き継がれた。



村田清風の肖像画
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by kfujiken2 | 2018-11-11 10:14 | 歴史 | Comments(0)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part3

オレンジ色の道路が萩往還で、(緑の円で囲んだ部分)が中ノ町です。Part 1で説明しました【御客屋】跡地(萩往還ふれあい塾」のコーナーから、佐々並川の間を中ノ町といいます。

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◆【中ノ町の町並み】の成り立ち


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中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,薬種商等の各種の商売を営まれており、商業の機能を担っていた。


それでは主な各町家をご案内致します。


◆【はやしや旅館】

幕末には吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允たかよし、坂本龍馬など、維新の志士達が萩往還を通り、佐々並市で休泊しました。
萩藩主などが「ささなみとうふ」を好んで食べたことから、佐々並宿の豆腐の味として有名になりました「はやし屋」のとうふ料理は、伝統のある手づくりのささなみ豆腐を使った、素朴な味で皆様に喜ばれています。



はやしや旅館の新館と主屋

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「1階が食堂」でささなみ豆腐の料理が名物で、「2階が大広間」

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◆【旧小林家住宅】<(萩往還おもてなし茶屋)


江戸時代に人馬や駕篭の調達を行った「目代所」があり、現在は佐々並のご案内処になっている。明治40年に隣地から移築された主屋と、大正期に建てられた土蔵、昭和10年代に増築された離れからなります。かつては旅館を営んでいたことから、主屋の一階の主座敷に加え、二階には萩往還を望む表座敷、佐々並川や周囲の田園を望む奥座敷など、佐々並の魅力を十分に楽しめる建物です。


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※ 目代所 : 古代においては国守の代理として留守所に派遣された私設の代官を指した。近世以降、目代はもっぱら駅逓の事をつかさどる地下役として宰判内各駅に目代各一人が置かれ(目代所を設る場合もあった)、人馬駕篭などの準備や用達をなし、その賃銭の徴収するなどの任にあたった。

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主屋の一階の主座敷と当時の大福帳

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※ 大福帳とは江戸時代・明治時代の商家で使われていた帳簿の一種。
当時の商業取引の前提として「掛売り」が基本であったらしく、盆・正月の支払いだったらしい・・・


【旧小林家住宅】の見取り図

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◆ 【旧椿家住宅】 

江戸期から住み、米・砂糖・塩などを扱い、薬種商を経て、その他雑貨等も扱うようになった。

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by kfujiken2 | 2018-10-15 10:29 | 歴史 | Comments(3)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪  Part 2



萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1に於いて、【上ノ町の町並みの様子】のコンテンツで【御茶屋】と【御客屋】を説明致しましたので、Part 2・Part 3では【上ノ町の町並み】【中ノ町の町並み】の各町家を紹介致します。


◆ 【上ノ町の町並み】の成り立ち

上ノ町は江戸時代には各町家が商業や農業を営みながら,御茶屋及びその予備的施設(木村家・井本家)である御客屋を有していた。

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オレンジ色の道路が萩往還で、(赤の楕円で囲んだ部分)が上ノ町です。
上ノ町は多少傾斜のある道で、上ノ町を北に進み(左から右方向に)突き当たりに御茶屋が角にあり、ここから急カーブして萩往還のアイストップとなる象徴的なところに位置しておる。(イラスト画像のブルー楕円で囲んだ部分)


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※ 萩往還の説明を少々・・・


萩往還は、慶長9年(1604)萩城築城後、殿様の「お成り道」として開かれました。城下町萩(萩市)と瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長はおよそ53Kmです。
もとは殿様の参勤交代道として整備された道でしたが、江戸時代の庶民にとっても山陰と山陽を結び陰陽連絡道として重要な交通路となりました。
また、幕末には、維新の志士たちが往来しており、歴史の上で重要な役割を果たしました。


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それでは説明できる各町家をご案内致します。


◆  佐々木家

江戸時代から代々「鍛冶屋」として馬の蹄鉄製造業を営んでいた佐々木家。

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◆  石田理髪店


江戸時代、「御客家の井本家」が屋敷を構えた敷地の一角にあたり、理髪店「浅川家」を経て現在に至っている。

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◆  大野家 

佐々並の戦の火災後、江戸時代末期に建築と推定されている大野家、二代前までは、畳屋だった。

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◆ 三浦家


「土山酒造」と号して明治34年の創業以来酒造業を営んできた土山家から、大正2年に「三浦酒造」が譲り受け現在に至っている。

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【中ノ町の町並み】は後日にご案内致します。

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by kfujiken2 | 2018-10-12 10:39 | 歴史 | Comments(0)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1



平成23年6月20日重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

佐々並市・重要伝統的建造物群保存地区をご案内致します。

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◆ 【佐々並市の概要】

佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。  佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。

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佐々並市は,「御茶屋」から萩方面に向かって,上ノ町,中ノ町,久年という3つの町で構成され,江戸時代に各町家は農業を営みながらも,上ノ町は御茶屋及びその予備的施設である御客屋を有し,中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,鋳物屋,鍛冶屋等の商工業を担い,久年は,人馬を提供する駅の役目を果たしてきました。
当時のこの集落は、総家62軒からなる町並みだったようで、そのうちの15軒が商人、47軒が宿人夫馬持ちで農業をしながら暮らしていた。


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◆ 【上ノ町の町並みの様子】

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慶応元年(1865)の1月、長州藩政府軍と高杉晋作が率いる緒隊が現在の美祢市にある大田・絵堂で10日間の戦いをやり、ここはその脇戦の地になり(佐々並の戦)、12軒が焼失していて、その時に建て替えられたそうです。

◆ 【御茶屋】

御茶屋の図面、「旧小林家住宅(目代所跡)休憩所に展示」
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萩往還沿いの最も大きい施設の一つとして御茶屋(藩主の旧泊施設)があった。慶長9年、毛利輝元が山口から萩城へ移るとき、旧佐々並使用学校(現佐々並農協木材部)の敷地内にあった長松寺の前身である長松庵で休息したといわれる。それにちなんでこの地に御茶屋が建てられたと伝えられている。670㎡の敷地に本館、長屋門、御蔵、御共中腰掛、馬建、番所があった。

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【御茶屋】の跡地

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◆ 【御客屋】

後年、往来の通行がひんぱんになると、上級武士が休息・宿泊施設 として御客屋が設けられ、にあった木村作兵衛宅、井本弥八宅があてられた。
広々とした土地に1917(大6)年に佐々並村役場がこの地に置かれ、現在は「萩往還ふれあい塾」になっております。


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【上ノ町の町並み】は後日に・・・ ご期待あれ!!!
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by kfujiken2 | 2018-10-10 12:13 | 歴史 | Comments(2)

山上の要害・岩国城 



周防大島へドライブ遊覧のフィナーレとして、以前から歴史的に興味のあった岩国城に行きました。脊椎管狭窄症の手術の後、リハビリを兼ねウオーキングをしてまいりましたが、今まではコルセットの装着をしての歩行でしたが、果たしてコルセットを外してどの位歩けるか、坂道が歩けるか不安でしたが、頑張ってみることにしました。

【岩国城の歴史】

岩国城は、初代岩国領主吉川広家によって慶長13(1608)年に横山山頂に築かれた山城で、眼下を流れる錦川を天然の外堀にし、標高約200メートルの城山に位置していました。
初代の岩国城は複合式望楼型4重6階の立派な天守も備えていおり「横山城」と呼ばれていたが、築城後7年で幕府の一国一城制により取り壊されました。
山陽道の動静も山上からひと目で分かるように、江戸時代に築城された城郭の多くは平城で、山頂に城郭を築き、防衛を主体とした空堀を築造したものは全国でも珍しいそうです。現在の天守は、三層四階の桃山風南蛮造りで昭和37(1962)年に再建されたものです。


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長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領を支藩とする届けを出しておらず、 吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。
その一方で幕府からは6万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。



【不思議な形の岩国城】

岩国城の変わっているところは、建物の上部と下部の作りが異なっていて、下の階より上の階が張りだしていることで、これは「南蛮造」や「唐造」と呼ばれています。上階をその下階より大きく造り、その間の屋根を省略した様式です。
張り出している部分が目立つ「白」のカラーリングであることからより目立ち、さらに不思議な形に思えてくるのです。


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【旧天守台】

発掘復元された旧天守台は、現在の天守の裏手にあります。
下1/4ほどが地中に埋まって残っていたことから復元できたという。どこまでが遺構でどこからが復元かは、石を見た目では分からない。


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【岩国城展望台から見た錦帯橋と周囲に広がる城下町】

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【からくり時計】

ロープウェイ乗り場前の広場にあり、さりげなく吉川家の家紋「九曜紋(くようもん)」が描いてある。数字板も漢数字だ。

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by kfujiken2 | 2018-09-27 10:18 | 歴史 | Comments(0)

「陸奥記念館」は恒久平和の殿堂



子供心をくすぐる「なぎさ水族館」から向きを変え、
厳粛な気持ちになる「陸奥記念館」へ足を向けました。


◆ ピースシンボルタワー
陸奥とともに命をともにした1121人全員の氏名が記されています。
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全長200メートル超、全幅約29メートル。1921年に完成したが、第2次大戦中は温存され前線への出陣はほぼなかったという。当時では世界最大規模の戦艦だった。
大正10(1921)年、長門型戦艦2番艦として完成。当時、ワシントン軍縮会議開催中で、米英に廃棄を迫られる中で誕生した。「長門」とともに世界初の40センチ砲を搭載し、両艦は連合艦隊の旗艦を務めた。戦前の教科書にも掲載されるなど知名度抜群で、日本海軍の象徴でもあった。
1943年6月、山口県岩国市の沖合に停泊していたところ、突然爆発、艦体は海中深くに沈んだ。乗組員約1400人のうち1121人が死亡した。爆発の原因はいまも分かっていない。原因は現在も分かっていないが、3番砲塔付近から煙が上がり爆発、一瞬で船体が真っ二つに折れ、死者のほとんどが溺死ではなく爆死だったほどの大惨事だった。



◆ 戦艦陸奥模型

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◆ 館内の様子・・・
館内には引き揚げられた遺品が展示されています。
艦長の軍服や破損した士官の短剣など多くの遺品を見ると、爆発による人の死が実感され、遺品を撮影する気にはなれなかった。


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当初陸奥の爆発要因は米潜水艦の雷撃によるものだとされたようですがその後撤回されています。原因は諸説あり未だわからないままになっています。ちょうど山本五十六元帥の戦死やアッツ島玉砕など、暗いニュースが続いていた時期と重なり陸奥爆沈のニュースには緘口令が敷かれたために多くの国民がその事実を知ったのは終戦後のことだったといわれています。

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by kfujiken2 | 2018-09-24 16:28 | 歴史 | Comments(0)

近世の名筆:明月上人

明月上人は享保12年(1727)周防大島屋代島願行寺生まれ、法名・明逸、字は曇寧、中秋の名月の夜に生まれたので明月のほか解脱隠居・化物園主人などと号したという。15歳のとき来松(四国松山)して円光寺義空に師事、のち京・大坂・江戸に遊学して、服部南郭らとの交友を通じて古文辞学(徂徠学)を学んだあと帰郷して宇佐美淡斎・杉山熊台などを指導、松山におけるけん園学派の先駆者となった。また泉州堺の佐太郎(名は宜周、号南山人)に寄寓して書を習い、南山人から王義之・顔真卿など唐の書風を学び、特に草書に巧みで、越後の良寛、備中の寂巌(じゃくごん)とともに三緇(さんし)と称えられた。34歳、帰松して円光寺住職就任。翌年、藩の反対を押し切って同寺に唐風の楼門(普照楼)を建てた。また、詩文にも秀で、著作に『扶桑樹伝』『通機図解』『西遊記』『明月什』などがあり、ことに扶桑樹伝は光格天皇乙夜の覧に供され、のち唐人町茶屋吉蔵によって開板されると明月の名が高くなった。漢詩に「道後温泉詩」八首などがある。寛政9年(1797)、同寺で没。

※ 佐太郎 : 参勤途上の紀州侯の家臣たちを冷や飯でもてなした堺の豪家
※ けん園学派:荻生徂徠の門に学んだ人たちによって形成された儒学上の一学派
※ 三緇 : 三人の僧
※ 乙夜(いつや): およそ今の午後9時ないし10時から2時間をいう
※ 乙夜の覧 : 中国で、天子は昼間政務で忙しいので乙夜になってから読書をした
※ 開板(かいはん): 書物を新しく出版すること

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冬さびぬ蔵沢の竹明月の書   正岡子規
ふゆさびぬぞうたくのたけめいげつのしょ

前書きに「草庵」とあり、子規庵の室内を詠んだもの。
「蔵沢」は吉田蔵沢のことで、松山生まれの南画家、晩年は画材を竹に絞り、竹の蔵沢として知られていた。「明月」とは円光寺の7代前の住職明月上人。
2人とも名筆で、子規庵に書があり、 明月の書は、虚子の結婚記念に虚子に贈ったとされている。蔵沢の竹の画は子規が晩年に「私の宝物」といい床の間の正面に飾っていた。


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風呂吹を喰ひに浮世へ百年目    子規
ふろふきをくひにうきよへひゃくねんめ

「風呂吹」とは圓光寺伝統の精進料理「ふろふき大根」のことである。


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by kfujiken2 | 2018-09-17 11:24 | 歴史 | Comments(0)

長岡外史を語るとき・・・誕生の秘話

長岡外史は10才のとき、萩藩士・長岡南陽の養子となり、
明倫館を経て陸軍士官学校(旧2期)卒。明治18年(1885年)に陸軍大学校を一期生として卒業してから、陸軍軍人、政治家として活躍されたことは皆さんご存知と思います。


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しかし、いずれの講演や書物に於いても、生い立ちが明らかにされていない???
何故、暗黙にされているのか図書館に行って調べてみました。
「航空とスキーの先駆者 人間 長岡外史」という冊子の中に、面白い記述を見付けました。


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安政元年に起きた江戸の大地震は、ペリー来冦以上に衝撃を人々に与えた。世は騒然としていた。このような時代に長岡外史が19歳の娘・堀 時の胎内に宿った。父親は隣り村の栗屋村(周南市櫛浜町)の庄屋温品家の二男謙吉である。母の堀 時は都濃郡末武北村(下松市末武)の大庄屋堀三右衛門の妹である。
2人は相思相愛の仲であった。謙吉はのちに山口県上関町室津の小方家に養子に行き謙九郎と名を変え、第二奇兵隊の参謀として活躍する。明治維新後に上関町室津に戻り回漕業や汽船宿を営んで、現在は国の重要文化財に指定されている
四階楼(しかいろう)建てた人物である。


そんな相思相愛の仲であった堀 時と温品謙吉が結婚しなかった、いや結婚出来なかったのは、明治以前の婚姻の形態に理由があったようです。

①.嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。
  
②.2人の住まいは末武北村と栗屋村で隣り村の農村のコミュニティではあるが、部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。


当時の婚姻の形態を風俗的見解ではなく、歴史的見解で少し説明しましょう・・・

当時はほとんどが嫁方の家で、婚姻生活のもたれる「婿入婚」の形式がとられていた。一般的にいって婿入婚に終生的なものの二種があり、それらは婿が嫁方に住み込むものと、婿が妻問いする通い式の二つの形式に分かれる。
それは貴族社会に限らず、庶民の間でも支配的に行われた。日本では古くは男女が性的交渉をもってから共同生活を始めるまでの間に、相当の期間が存在し、その場合男が女の家に通うのが通例であった。

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古典時代の結婚生活の形態は、女はただひたすら男の訪問を待つだけの受動的立場であり、授かった子種をこの世に産み落とすまでは自分の仕事だが、我が子を育てる役割は「乳母(めのと)」に委ねることが多かったし、最初の頃に通ってきてくれたきりで、以後すっかり御無沙汰になってしまう夫も、世の中には多かった・・・なにせ、「妻」は、彼女一人だけとは限らないのだから・・・古典的文物に「待つ身の女の辛さ」を嘆くものが多いのも、むべなるかな、である。

農村の婚姻の形態がこのようなものだったとすると、長岡外史の両親・温品謙吉と堀 時の間柄も同様であったと思われます。2人の家は同じような大庄屋の家柄であったし、距離的にいって末武川をまたいで2~3キロの距離にあった。当人同士は許し合い、それを当然のこととしていても、親と世間が認めなければ、正式の婚姻とはみなされなかった。


本来求婚することを『よばう』(呼ぶの意)といい、若者が夜ひそかに娘の家へ通うことを『よばい』といっている。これに『夜這い』などの字をあて、明治以降は封建的弊風のようにみられてきたが、この風習はほとんど全国の農村にわたっており、それを当然とした時代が久しかった。
当時にとっては、このようなことが唯一の娯楽であり、また恋愛の場でもあった。こうした場を通して相手を知り、意気投合すると、娘の家へ夜這いに通い、やがて結婚へと進むのが通例であった。そして、このような男女交際は若連組の承認の上でおこなわれ、親が反対しても、若連の力で推進することさえあった。昔はこうしたケースが多かったために村内結婚が主である。 部落意識の強かった明治以前は、村外結婚を好まなかった。村の娘が他村へ嫁ぐ場合、若衆が嫁入の行列に向って石を投げたり、水をかけたりしてじゃまをする風習があった。若者組のきずなのきびしい村落共同体においては、若者頭の承認がなければ他の村へ嫁入することができない地方さえあった。

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by kfujiken2 | 2018-09-03 09:04 | 歴史 | Comments(0)

袖解橋(そでときばし)のいわれ

今から六百年ばかり前、山口で大内氏が栄えていたころ、秋穂街道は秋穂の港から山口に通じる主要街道でした。この道は別名御上使道(ごじょうしみち)とも呼ばれ、秋穂渡瀬(あいわたせ)をわたって此処から山口の町に入りました。全国各地から山口に登城した侍たちは、ここまでくると狩衣(かりぎぬ)、直垂(したたれ)の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをして山口に入りました。そこでこの橋の名を袖解橋(そでときばし)というようになりました。

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碑の歌は、明治時代の歌人田辺玄齢のものです。
「旅日地の橋の名におう袖ときて 水に姿をうつしてやみし」 (現地の説明板による)


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大内時代の山口の道路網が、どんなになっていたか詳しく知りませんが、橋といっても見受けられるモノは無く、川にかかっていたものだとは思うが!!!

※ 御上使道とは : 江戸幕府の巡見上使が通った道
※ 秋穂街道とは : 大内氏時代には舟で秋穂に着いた旅人は、秋穂浦にあった橋「髪解橋」でまず髪を解き(整え)、服装はまだ旅姿のままでこの秋穂街道を歩き始め、約5時間ほどの歩き旅で山口の入口である袖解橋に着くと、狩衣や直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをし、愈々山口の大内氏館へ向かったということらしい。

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by kfujiken2 | 2018-08-30 08:26 | 歴史 | Comments(0)




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