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カテゴリ:歴史( 218 )

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑥(last)


歴史と文化の町 玖珂

玖珂町は山に囲まれた小さい町だが、歴史は古く縄文時代には、既に原始人が住み始めており、町の中心部を東西に横切る旧山陽道は、古代から近世にかけて都と九州を結ぶ陸路の幹線として栄えた。
戦国時代には毛利元就の鞍掛城攻めや豊臣秀吉の九州征伐、江戸時代には参勤交代に伴う大名行列がこの山陽道を往来した。町内には往時を偲ぶ史跡が随所に残されている。



【玖珂町の旧山陽道沿いの寺社】

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※ 杉家の祥雲寺


戦国時代において谷津ケ浴にあって杉家(領主、杉治郎大輔隆康)菩提寺として敷地二千坪 末寺二十四坊を有する大きな寺院であった。弘治元年(1555年)鞍掛合戦により毛利一族に敗れ 杉隆父子は壮烈な討ち死にを果たした。祥雲寺もこの時消失したが、毛利氏一族の岩国吉川家に よって慶安年間に野口に城泉寺として再建され、元禄14年(1701年)現在地に移し、元文4年(1739年) 寺号祥雲寺が復活した。


【薬師堂までの参道】


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【祥雲寺の説明板】


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【鞍懸城主杉隆泰・父宗珊墓碑】

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※ 児玉家の大福寺


鞍掛城主・杉隆泰の家老児玉筑前守(戦死)の嫡男児玉佐渡守が出家して、亦了(えきりょう)と改名し、建立したとされる。
境内にある自然石碑境内は江戸時代中期本町下の狂歌人「柳門四世栗陰軒貞六翁之塚」がある。嘉永四年(1851)に九十四才で没したが門人たちによって建立されたものである。碑の右脇には彼の辞世の歌が刻まれている。「花にくらし 月にあかして  楽しみに  こころのこらずきゆる  雪の世」



【大福寺の参道】

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【大福寺の山門】

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【柳門四世栗陰軒貞六翁之塚】


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※ 岡家の浄光寺


養老五年(717)野口の里より玖の玉、珂の玉出現し、これを当山の霊泉で磨いたという故事にちなんで山号を清玖山、院号を宝珠院という。「玖珂町史」に「辞書に玖は黒岩の玉をいい、珂とは瑪瑠潔白にして雪の如しとあり、『清玖山上古記』に玖を以って南浦般若寺(平生町)に収め、珂を以って二井寺に納むとあり、さらに玖珂地名の起源となったと書いている。」とあり、玖西では二井寺(後述)に次ぐ歴史を有する。前述のとおり浄光寺と杉隆泰末裔岡氏とは菩提寺と檀家の関係にある。


【浄光寺の参道】


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【浄光寺の本堂】

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※ 宇野家の萬久寺

鞍懸合戦の後、杉氏の家老宇野筑後守正常の次子・西念の開基した寺で、境内に自然石の宇野築後墓があるが、名をはばかり「守」の字が無い。
境内には明治時代子弟の教育に尽くした前住職第十一世・宇野泰信上人の頌徳碑があります。


【萬久寺の山門】

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【宇野泰信上人の頌徳碑】

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【宇野築後の墓】


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※ 菅原神社 (玖珂天満宮)

杉氏の末裔でもある岡氏が、天災や疫病が続くのは弘治元年(1555年)の鞍掛合戦で非業の死を遂げた、杉隆泰父子一族郎党の祟りではないかと思い、岡家邸内に防府天満宮から分霊を勧請して天満宮を祀ったという。

【旧山陽道から見た菅原神社】

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【鳥居から拝殿までの参道】

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【菅原道真の家紋「梅鉢紋」】


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by kfujiken2 | 2019-07-19 09:14 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑤

厳島合戦後の鞍掛合戦

安芸国の戦国大名毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)が弘治元年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日まで行われた。戦国時代末期、大内氏三家老の一人である杉治部大輔隆泰は鞍掛城主として周防国東部を固めていた。
厳島の戦いで陶晴賢に大勝利した毛利元就 は、その勢いで岩国に進出し、周防東部を治める大内家の武将杉氏の鞍掛城(現岩国市玖珂町)や土豪の椙杜(すぎもり)の蓮華山城・小方に降伏するように書状を送りつけた。
これに対し椙杜・小方両氏は、毛利方に味方したが、鞍掛城の杉隆泰は毛利元就の防長進出はどうしてもくい止める必要がある為、毛利には人質を送り一方では大内義長に忠誠を尽くす考えでいた。弘治元年(1555年)11月10日~14日(10月27日説もある)毛利が7千の軍勢をもって 周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。 杉方は2千6百の兵をもって鞍掛城と旧山陽道の南北に布陣し、毛利軍を迎え討つ。毛利の軍勢が、椙杜・小方の在郷武士の手引きにて午前2時頃出陣し4時頃鞍掛へ到着し、午前5時~7時頃にかけて一度におし寄せ杉隆泰陣の寝込みを襲撃した。不意をつかれた鞍掛方は、城主・杉隆泰をはじめ、家老 柳井若狭守、宇野築後、児玉筑前、有永備中、侍大将 三浦助衛門など、鞍掛側の戦死者370名が谷津ヶ原にて戦死。侍大将や足軽大将など多くの家臣が水無川に沿って南西の方面の二井寺に逃れ最後迄戦を行ったが敢え無く敗れた。



あざやかな奇襲!!「厳島の戦い」   クリックしてみて下さい。youtube 動画が観られます。


※ 防長経略 : 安芸国の戦国大名・毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦です。毛利元就が陶晴賢の残党や杉氏を玖珂から長門まで侵略を行った。陶晴賢と不和であった大内氏三家老の杉氏と内藤氏は「厳島の戦い」に参戦しなかったのに、防長経略のターゲットになったのは、この混乱に乗じ周防に勢力を広げていく防長経略の煽りをくい、攻撃を受けることになる。元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。杉氏は「鞍掛合戦」で討たれたが、内藤氏はどうしたんだろうという疑問が出て来ます。内藤氏(内藤隆世)は戦わずして長門に逃亡した。毛利軍も長門に進軍したが内藤隆世の切腹で決着した。家臣まで制裁をしなかったのは、内藤隆世の叔母尾崎局が毛利隆元の正室であった外戚関係だったから徹底的に制裁しなかったのでしょう・・・


例年11月の第3日曜日に行われるお祭りです 昨年のポスターです「鞍掛城まつり」

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by kfujiken2 | 2019-07-12 09:01 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ④


西国の山城: 鞍掛山城

標高240mの鞍掛山の尾根に築かれた実戦的な山城である。築城年代は不明。大内氏の家臣・杉氏の居城。近隣には、すぐ北に椙杜氏の蓮華山城、南側には小方氏の瀬田城がある。弘治元年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった杉隆泰は、毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。


【鞍掛山城跡(鞍掛山山頂)】『ウィキペディアより』

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父の杉宗珊とともに籠城した隆泰がよく抗戦したため、毛利軍主力は山口方面に侵攻すると見せかけて蓮華山城へ兵を入れ、早朝に城の背後から奇襲を仕掛けた。 不意を突かれた鞍掛城籠城軍は、混乱に陥って壊滅。毛利氏に降って城攻めに加わっていた瀬田城城主・小方元康の手で隆泰も討ち取られ、鞍掛山城は落城した(鞍掛合戦)。 その後、鞍掛山城は廃城となった。 毎年11月には「鞍掛城まつり」が催されている。また城下には討死した者を弔った千人塚があり、そこには宇野千代の句碑が立っている。


【鞍掛山城跡の場所】

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史跡鞍掛合戦千人塚 


今から約450年前、弘治元(1555)年11月14日守護大名大内氏の家臣杉隆泰・公宗珊一族郎党2600人は、戦国大名毛利元就・吉川元春・小早川隆景一族郎党7000人を迎え撃ち戦いました。しかし、多勢の無勢、杉氏一族は奮戦むなしく無念にも討ち死にし、鞍掛山城は落城しました。城主父子の墓は祥雲寺にあり、部下将兵 一同はここに千人塚として合葬されている。
当時、領主杉隆泰は、玖珂盆地周辺に3万石を有していました。この谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。昭和8(1933)年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石塚の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。昭和63(1988)年、南端の1基について、玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。



【史跡 鞍掛戦死者之碑(鞍掛合戦千人塚)】

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【鞍掛合戦千人塚の説明板】


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【宇野千代女史の「史蹟 千人塚に想ふ」と題した追悼碑】


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【千人塚背後の積石塚】


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by kfujiken2 | 2019-06-29 06:56 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ③


杉氏 改 柳井氏先祖由来の中で、前回は杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)を紹介しましたので、今回は次男・亀若丸を説明致します。



次男・亀若丸・5歳(後裔の柳井氏 宇部市在)は鞍掛合戦前、野口の緒方源内に預けれ、緒方源内の妻が乳母となり養育されて成人します。
(緒方源内は豊後国木付之城主緒方惟栄(おがた これよし)之末子で杉家と親族関係でもあり、天文13年(1544)鞍掛合戦11年前に杉家をたよって玖珂の野口村に移住する)、源内の娘を嫁としたが死別、杉隆泰の家老・柳井若狭守の娘を嫁とし柳井源治郎と称する。大日如来の信仰厚く、合戦27年後の天正12年(1584)に大日堂(寺)を創建し、杉家以来柳井家の霊を弔う。現在も野口上の中央病院の国道2号線沿いの丘に連綿としてその堂宇が残っている。この大日寺の裏山には亀若丸の墓も苔むしている。



【柳井氏関係の地図】

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【一之迫の柳井氏屋敷跡】

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次男亀若丸(のちに柳井源次郎と称す)創建の大日堂(寺)は今は荒れ、小さな堂と土塀の一部を残すのみだが、大日寺領域は広く、国道二号線や県道(欽明路道路)によって分断されている。大日堂の西側には杉氏末裔服部氏一族の墓、東側には寺域内に点在していたとおもわれる八十八か所観世音菩薩像を一箇所にまとめている。


【小さな堂】


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【当時に建てられた堂宇かどうか分かりません】


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【八十八か所観世音菩薩像】

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※ 柳井家家系の起源


柳井家は、起源を人皇(神武天皇以後の天皇)第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王の第一子・大枝本主(おおえ もとたか)に始まり、大枝本主の嫡男大江音人(おおえ おとんど)の時、姓を大枝を改め大江と為す。
大江氏といえば鎌倉幕府政所別当を務めた大江広元が存在しましたが、大江広元は安芸毛利氏の始祖と言われています。(大江氏の本家筋ではないが、元就・輝元に繋がっています)
つまり、柳井家と毛利家は遠戚関係にあるのですが、戦国時代は群雄割拠して天下をうかがう戦国の世で、豪族間も領土の拡張百姓の確保懐柔に、外交上は遠交近攻、武力にて弱肉強食、女性を犠牲にして政略結婚など秘術を尽くし、下剋上、近親相剋、昨日の友も今日は敵となる浅ましい世相であった。

by kfujiken2 | 2019-06-24 10:45 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ②


杉氏 改 柳井氏先祖由来


杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるようです。杉隆泰の長男・鎮頼(専千代丸)と嶋寿丸伊房が同一人物か別人かという部分が分かりません。その上、鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるのに思いあぐねます。一説は帰農して岡氏と名乗り、二説は大友宗麟の家臣として仕えたと記述があります。もし二説が真実ならば、惣庄屋の岡氏は誰の後裔なのかと言う疑問が湧いてきます。


一説は、嶋寿丸伊房(これふさ)は鞍掛合戦時に、母と共に山口杉屋敷在6歳、後に杉助三郎と改姓する。嫡男嶋寿丸は山口で百ケ日法要をいとなんだ後、元就山口攻めの風聞に接し、近習三十余人とともに豊前松山城主(現・福岡県京都郡苅田町)杉重吉(母方の叔父)を頼ったが、ここも大友氏との関係が緊迫していたため、母と女中を預け置き、伊予に渡り三ケ年浪々と過ごしている。永禄元年秋安芸厳島に参詣したが、座主は杉家に由緒ある者で、近習十三人のうち二名を留めおき残り十一人は金銀を配分して浪人となし離散させた。嶋寿丸は座主の思召しを以って毛利七郎兵衛を頼み、元就へ相談した。元就は、その請をいれ玖珂の荘官末岡土佐に預けられた後、瀬田丸山の領主小方元康の言によって杉助三郎と改称し、後柳井清左衛門の養子となり、その家にて死んだと言われる。四代目故あって岡姓と称する。(岡氏 京都市在)
 二説は、鞍掛合戦後、豊後国の戦国大名・大友宗麟の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。



【丈六寺跡と岡家墓地の場所】


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【丈六寺跡の石組みと思われる】

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【岡家の墓地】

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(注)杉鎮頼(専千代丸)は嶋寿丸伊房とは別人で、のちに大友義統から豊前国田川郡の内、仲元寺の地を知行、島津氏と耳川の戦いに於いて死し終末をとげている鎮頼(専千代丸)の方が正統と思われる。



次男・亀若丸は柳井家と改姓しているので、次回の説明とします。
by kfujiken2 | 2019-06-18 08:18 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ①

大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550年)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)と称す。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。
晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
 隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。
嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、
天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。
※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


※ 杉隆泰家の略系図

[重運]――[第一代 杉重明]――[第二代 杉重茂]――[第三代 杉頼明]――[第四代 杉弘依]――[第五代 杉興頼]――「第六代 杉隆泰]――[第七代 杉鎭頼]――[某 専千代]



【杉治部大輔隆泰と父の杉土佐守貞泰の墓】


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古戦場のまち 「玖 く が 珂」のマップ

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by kfujiken2 | 2019-06-14 10:39 | 歴史 | Comments(0)

周防大内氏第16代当主・大内義隆を支えた、3人の家老の一人・玖珂の鞍懸城主・杉隆泰


縁あってこの杉隆泰と鞍掛城のことを知り、調べてみる経緯となった次第です。
先週玖珂町の図書館・教育委員会に行き資料を調べて来ましたが、史跡の撮影をする時間がありませんでしたので、近日中に史跡の撮影に行って来ます。


山口の基礎を築いた大内氏は、南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。百済聖明(くだらせいめい)王の第3子琳聖太子の子孫と称し,聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。弘世(ひろよ)の時,足利氏に従って戦功を立て,山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は6ヵ国の守護を兼ねた。応永の乱で一時衰えたが再興し,日明貿易の独占で富強を誇る。最後の当主・義隆の時,家臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭って(大寧寺の変)で滅ぼされた。
大内政権は、主君を中心に周防守護代・陶氏、豊前守護代・杉氏、長門守護代・内藤氏の重臣(大内氏奉行三家老家)が、いわば内閣として中枢部を構成していたが、陶氏が筆頭の地位にあった。

陶氏は富田若山城、内藤氏は長府勝山城、杉氏は玖珂鞍掛城と居城を持ち活躍した。
陶氏は(大寧寺の変)後、毛利元就と戦った(厳島の戦い)で破れ、毛利元就は大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)を行い、杉治部大輔隆泰が鞍掛城主の周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。



鞍掛城まつり実行委員会より、昨年のポスターをお借りしました。

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◆ 大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡3万石を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。
なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。

晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。
天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。

嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。


※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


「鞍掛城まつり(11月)」の マスコットキャラクター「鞍隆くん」

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by kfujiken2 | 2019-06-09 13:41 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その③・・・財満家の館跡


◆ 財満家関係者の墓が集められ建立されている財満苑です。二の丸様の顕彰碑の横で今も守っているように感じました。


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◆ 毛利輝元の重鎮、山本市左衛門は二の丸様が財満家に預けられた時にお目付け役として広島から派遣されました。毛利秀就が生まれた後には献身的な功をなしたとされています。輝元から広島に帰るように勧められるも辞退し、亡くなるまで当地で庄屋などを務めたとされます。


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◆ 大内氏の家臣であった財満家であるが財満宗因軍は毛利元就に攻められ全滅する。津室弥左衛門に連れだされて養育された財満宗因の子忠久は毛利元就に見出され初代小野村領主となった。


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◆ 毛利秀就公誕生に関わる数々の史跡を総合して、この地を「史跡の杜」と命名した。


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『郷土を伝える』
私たちの先祖は      
 喜びの時も 苦難の時も   
天を仰ぎ 神を敬い         
 仏に感謝し     
見えない存在に
  神仏を感じてきた
大きな災害や 危機の時も
自らの努力で 
乗り越えてきた
先人たちは
その心を土台にして
この郷土を継承している

この喜びを後世に伝えたい
伝えることの大切さを
この「史跡の杜」に
伝えてほしい

by kfujiken2 | 2019-05-29 17:31 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その②・・・財満家の館跡


説明がその①と重複している所があるかも知れませんが、その点はお含みおきながらお読み下さい。


◆ 毛利秀就公出生の秘話と二の丸様の苦悩と悲哀



通説では秀就は文禄4年(1595年)に広島で生まれたとされているが、異説として天正19年(1591年)に長門厚東郡四ケ小野村(現在の宇部市小野地区)で出生したとの説がある。これは、宇部市小野地区に残る古文書に「秀就は小野村で生まれた」との記述があることから小野郷土史懇話会の会員が調査したもので、厚東郡小野村の領主であった財満家の文書や伝承から、財満忠久・就久父子の屋敷が出生地であると結論づけた。この説によると、輝元の正室・南の方を非常に恐れていた側室の二の丸殿は、懐妊が発覚すると秘密裏に財満家に匿われて、そのまま密かに出産したとされる。

輝元が二の丸様を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。 数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。

また、出生後の処置について小早川隆景に相談した記録も発見された(財満家文書)。財満屋敷跡がある同地には、秀就の誕生時に使われたという「産湯の池」や暗殺を逃れるための「穴蔵」などが残るほか、村人たちが秀就の成長を高良神社で祈願したとの伝承も残っている。


毛利秀就公出生の地の案内板と説明石碑

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毛利秀就の誕生に縁起する財満家と毛利輝元側室の二の丸様の苦悩と悲哀について書かれた説明看板です。


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二の丸様の顕彰碑

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二の丸様の戒名

快楽院栄誉周慶大姉
慶長九年八月一日没
行年 三十二歳





二の丸様の石造

子供の頃から美人の誉れ高かったそうですが、何をモデルに造られたのでしょうか?

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二の丸様の心情を詠まれた 【二の丸悲愁 中尾岳奨作】


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馬乗り石

幼い頃の秀就は、この台石の上から馬の鞍に乗せてもらい、乗馬を楽しんでいたと考えられる。その後、この石は縄や草履などを作る時の「藁打ち台」に利用したとか。


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「産湯の池」


この池は出産に用いられた「産湯の池」とされている。

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若宮神社

敷地内に秀就の御胞衣を祀るとされる若宮神社がある。


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by kfujiken2 | 2019-05-25 10:48 | 歴史 | Comments(0)

宇部市小野に歴史上新事実が見つかる その①・・・財満家の館跡

長州藩初代藩主・毛利秀就( ひでなり)誕生の真実
毛利秀就誕生地は広島ではなく山口県宇部市であった!




財満家館の跡の石碑

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所在地: 山口県宇部市小野2707(宇部市小野東阿武瀬) 

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長州藩初代藩主・毛利秀就誕生地が山口県宇部市であったという真実を、
宇部市や宇部市近郊の人は多少はご存知かと思いますが、果たして山口県の
県民がどの位ご存知でしょうか? いや通説では秀就は広島で生まれたとされているが、この異説を信じるでしょうか!!!

歴史教科書に載ったことが真実か、学校の歴史教育が年々劣化している気がします。作家や学者が歴史を変える、歴史を捏造しているのではないでしょうか!武家時代に生活していた人が、現在生きている証人はいない。確かに古文書に書かれた資料はあったでしょう、しかしそれは紙に書かれた物で紛失した物もあるでしょう又、焼失した物もあるのではないか・・・ 誰かの手によって書き換えらたものは多々あるでしょう。
ある歴史研究家が話していましたが、皆の前で挙手して自説を述べるとそれが定説となると、つまり、歴史が語るのではなく歴史を語るということです。



長州藩初代藩主・毛利秀就誕生を語る前に、父親・毛利輝元と母親・側室二の丸様の関わりをご理解頂かないと、毛利秀就誕生の経緯を説明しても流れが分からないと思いますので、関わりを先に説明します。


◆ 毛利輝元と周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)の関わり

毛利輝元は毛利氏家臣児玉元良の娘周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)を一目惚れするが元良はこれを断り、許婚の野上庄(徳山)の杉本元宣に嫁がす。天正16年(1588)秋、夫の元宣が小早川隆景の家来として筑前の戦いで不在のとき、輝元は重臣佐世石見守の手配で杉山土佐元澄に命じ周姫を広島に拉致。このとき船を出したのが毛利水軍の相嶋仁右衛門兄弟。周姫は側室になることを拒否し続けたため、輝元は実家である児玉氏の安芸賀茂郡福富竹仁の阿良井城の領地を没収し、家族は離散の制裁をうけることになる。一方、小早川隆景は天正17年正月夫の元宣にこれを伝え許すよう伝えるが、元宣は妻を奪還するため数名の部下を連れ戦場を離脱し、天正17年3月6日野上の館から広島へ向かおうとして船出するが、海が荒れ航行できず徳山湾先の船隠しという所で隆景家来の追手に9名の部下とともに海に切り捨てられる。
その元宣と家来の墓は徳山の万徳山興元寺の墓地に、父親元相の墓とともにある。
これらを知った周姫が輝元の側室となることを認めるのは天正17年春のころであるが、これにより輝元は周姫の長兄児玉元兼に安芸佐西郡己斐・草津一帯3000石を与え、さらには輝元直属の五奉行に加えられる。周姫は新たに築城された広島城二の丸に住むことになり「二の丸様」と呼ばれることになった。また、この天正17年7月2日に、輝元は三番目の兄児玉景唯に、長門厚東郡小野村の直ぐ北隣の美祢郡綾木村3000石の領地を与え、そこに住まわせている。
不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受け、長男:秀就を出産後、長女: 竹姫・次男: 就隆(徳山藩初代藩主)を出産。



二の丸様顕彰碑正面・華表と玉垣


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二の丸様の功績

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毛利秀就の実父・毛利輝元像

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by kfujiken2 | 2019-05-23 09:45 | 歴史 | Comments(0)


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