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飛鳥時代(7世紀)の代表的な遺跡【大日古墳】


防府市高井大日の佐波川右岸、西目山山麓の標高約25mの丘陵上にある古墳時代の前方後円墳。全長約45m、前方部の幅約20m、後円部の径約19m。後円部に横穴式石室がある。
石室は花崗岩の割石で作られ、棺を納めておく玄室と、玄室と外部をつなぐ通路に当たる長さ約9.3mの羨道(せんどう)とからなる。玄室は奥行き3.6m、幅2.1m、高さ2.5mで、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式屋形石棺が据えられている。その形状から、7世紀中葉の終末期古墳の一つと考えられている。山口県で出土した家形石棺は例が少なく、考古学上も貴重である。
1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。江戸時代に発掘されたが、すでに副葬品は残っていなかったという。被葬者については、大内氏の祖とされる琳聖太子(りんしょうたいし)の墓とする伝承や、当地の県主(あがたぬし)であった土師連猪手(はじのむらじいて)とする説があるが、定かではない。


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所在地・・・防府市高井大日の佐波川右岸

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公道から古墳までの通路

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古墳の入口


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玄室(棺を納めておく室)と外部をつなぐ通路(約9.3mの羨道(せんどう))


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県内で唯一の刳抜(くりぬき)式家形石棺


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◆ 琳聖太子 : 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は周防で最有力の実力者となり、大内介と名乗り以降歴代の当主もこれを世襲した。しかし 琳聖太子という人物名が 、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く 、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり 真偽は謎である。
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている 。



◆ 土師連猪手 : 飛鳥時代の人物。埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。周防国府の役人の中にも名前が見られ、松崎天神をつくったのも土師氏です。
by kfujiken2 | 2019-01-22 09:24 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その3


石段を登り切ると正面に防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門があり、下を潜ると拝殿が目の前に現れます。拝殿に参拝し左手に進むと、たくさんの絵馬が飾られてある奉納所があります。ひとつひとつ見てみると、多くが志望校への合格祈願です。これから受験シーズンにかけて、多くの受験生が学問の神さま・道真公のもとに合格祈願にやってきます。
さらに左に「春風楼」がある。一見能楽堂か展望台のように見えますが、神事をする際の待合所というか、参拝客が休憩する場所のようなもので、古くは「通夜堂」といい、「参籠所」「お籠堂」とも呼ばれた。
客殿背後の園に7代藩主毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑があります。


◆ 防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門

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◆ 合格祈願の絵馬
1年間に奉納された絵馬は約4万枚位あるらしいです。12月25日の「絵馬焼納神事」で焼かれるそうです。

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◆ 春風楼

十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始の儀を行ったが、資金調達中、天保二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。


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春風楼足元・・・五重塔の基礎部分
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◆ 7代藩主毛利重就(しげたか)公像
萩藩の歴代藩主の中で、最も防府と結びつきが大きいのが、7代藩主の毛利重就です。又、輝元・第13代藩主の敬親と同様に名君と言われた一人でもありました。
ふくれあがった財政赤字を立て直すために、まず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させた。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。


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◆ 野村望東尼(ぼうとうに)の碑
野村望東尼は、福岡藩士の三女として生まれ勤王活動に身を投じる。福岡の平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
高杉晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。高杉晋作の末期の水を取った人とも言われています。


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by kfujiken2 | 2019-01-20 09:43 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その2

長い石段を上っていく途中、左手にあるのが大専坊(だいせんぼう)跡といって毛利の時代には本陣になった所です。右手に茶室芳松庵と暁天楼があります。たかが57段の石段が、運動不足の我々にはされど57段の石段でキツいです。


◆ 毛利元就の参謀本部だった ~大専坊跡~

運良く特別公開される日に巡りあい、大専坊を観ることが出来ました。
明治元年(1868)まで大専坊・円楽坊(えんらくぼう)など9つの社坊(しゃぼう)が参道をはさんで並んでおり、酒垂山満福寺(さかたりさんまんぷくじ)と総称されていた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であった。また、防府天満宮の神事を主宰するなど神社経営にも大きな役割を果たしてきた。
しかし、明治元年の神仏分離令によってすべての社坊が廃され、民間に払い下げられた。この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となりました。また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となりました。昭和63年(1988)に県指定の史跡となりました。


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先ずは入門から見て頂きましょう

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門から見た建物の玄関

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玄関を上がり左側の間取りです

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東側にガラス戸があり、昔は廊下だったのであろう??? 
幅が一間あります


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廊下の欄間になるのでしょうか? 大内氏の家紋の菊大内菱が彫刻されています


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一番奥の間です

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◆ 維新の志士たちの息づかいが感じられる場所 ~暁天楼(ぎょうてんろう)~


二階建ての古めかしい建物を「暁天楼」といいます。もとは天満宮門前宮市にあった宿「藤村屋」の離れだったもので、藤村屋の廃業にあたり天満宮に寄贈され、のち老朽化に伴い解体されましたが、昭和59年(1984)に藤村屋の子孫のかたにより現在の場所に絵図面にしたがって復元されました。
当主は勤皇の志が篤く、また宿のもてなしがよかったためか、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、維新の志士たちもしばしば利用したそうです。
建物の1階は漬物小屋として使われていたため土間で、2階(通常は閉鎖)は6畳間が2間あり、板張りの広縁が2間を囲む形で2方向に巡らされています。この2階に上がる階段は実は隠し階段になっており、維新の志士たちが、いざという場合には息をひそめて隠れていることのできるこの場所で密談をしたのだろうという想像が現実味を帯びてきます。
復元前の2階の床柱には刀傷がついていたそうですし、戸袋には墨で勢いよく書かれた落書きがあり、これは坂本龍馬の手によると言われています。また、「暁天楼」の名前は、旧来「適義楼」と呼ばれていたものを、訪れた山県有朋らが改めたといいます。

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「暁天楼」の全景です

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隠し階段が見える東側からの光景です

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◆ 毛利の戦いや幕末の志士達を目撃した証人 ~防府天満宮御神木~

巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
樹齢が推定800年、幹周が5.6m 高さ27.5m 葉張36mの巨木です。
境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が三本ありますが、その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広げる太枝は大地を覆い、根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。


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話が長くなるので「今日は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門をくぐり、拝殿に参拝を済ませ左手にある「春風楼」から説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-17 11:16 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮

防府天満宮の暁天楼(ぎょうてんろう)と大専坊跡(だいせんぼうあと)が見たく、初詣を兼ねて参拝に行って来ました。何度も訪れている防府天満宮ですが、何時もは神社の裏側の駐車場を利用するので、表参道の石段を登って参拝したことがありませんでした。今回は初詣の時期が少しずれているので、多少空いていると思い表参道から参拝しました。

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まちの駅「うめてらす」を左に見ながら、表参道の石鳥居をくぐり萩狛犬さまの横を通り過ぎると、表参道の中段でチェーンソーアートのえと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」が迎えてくれました。

表参道の石鳥居

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寛永六年(一六二九)に初代藩主毛利秀就の寄進により建立したもので、奉納年が刻まれたものでは県下最古の鳥居。柱は太く、転びが少なく円柱状で、上部においてややすぼんでいる。形式としては明神鳥居であるが、柱脚には礎盤がなく、堀立て柱形式をとる。

豪華な台座に座している萩狛犬といわれる萩で造られた狛犬

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チェーンソーアート
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えと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」

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「今宵は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は今回の探訪の本命「暁天楼と大専坊跡」を説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-15 14:16 | 歴史 | Comments(0)

降松神社と鷲頭寺の関連・・・下松の地名のルーツ



降松神社と鷲頭寺の説明に入る前に、下松に立ち寄られ下松の地名のルーツになり、鷲頭寺を開かれたとされといわれている琳聖太子について、少し説明しましょう。。。

◆ 下松の地名のルーツ

下松は昔、青柳浦と呼ばれていました。
「大内氏実録」の下松妙見縁起によると・・・
「推古天皇(女帝)の3年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、7日7夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをする人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より3年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。


◆ 降松神社と鷲頭寺の関連


大内氏の祖、琳聖太子によって開かれたとされる古刹が妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐうじゅとうじ)です。 大内氏の氏神として栄えるとともに妙見信仰発祥の宮寺といわれています。


595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山(現在の茶臼山)に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して鷲頭山(下松市河内)に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治12年維新政府の神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一別当閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当閼伽井坊だった。明治12年にあの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社(下松市吉原)から現在地(下松市中市)に移転した。ただ、興味深いのは妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆(しんぶつこんこう)形態を維持している寺社があることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。
日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。


お寺なのですが、鳥居があり民家にのめり込んでいる!  摩訶 不思議???
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仁王門に通じる参道
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「わらじ」への願い
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【わらじの功徳】
仁王様に威徳公大にして息災延命
を授け、足の弱い方、悪い方、亦腰の悪い
方は、年令と姓名を記入の上お供へ下さ
い。御利益を受けられます。

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妙見宮鷲頭寺の由来


妙見宮の略縁起

 当山妙見宮は百済国、王子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり
本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御持来の尊像にして、三国(印度、支那、
朝鮮)伝承と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代三年九月十八日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我れは北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後百済国、王子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を
修む可し、その由を国王に告げ朝廷に奏せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇五年丁己春三月二日百司百官を倶に
して周防佐波郡鞠生の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮
州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御持来の尊像を納め星祭供養
を奉修された。これが日本に於ける星祭の濫觴であります。
星霜千有余年を経、其の間幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変
り明治十二年十二月朔日。大星降臨の古蹟、現在の地 中市に尊像妙見菩薩
をはじめ多くの仏像を奉戴して遷し祀り、北辰降臨の日、十八日を縁日とし
て今日に至ったのであります。


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お寺なのですが、狛犬「阿像」と狛犬「吽像」
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種田 山頭火の句碑


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by kfujiken2 | 2019-01-10 13:28 | 歴史 | Comments(0)

明治維新に於ける歴史の変遷

大河ドラマ【西郷どん(せごどん)】も最終回の放送日が12/16(日)だそうですが、いよいよ西郷隆盛が立ち上がり『西南戦争』に突入と佳境に入って来ました。

時代区分が切り替わる時こそが歴史的転換点で、決定的な変革や戦いが行われています。都を移すという大変革で始まった奈良や平安時代、奥州合戦を経て全国統治を開始した鎌倉時代、桶狭間の戦いを経て政権を確立した安土桃山時代、関ヶ原の戦いを経て全国統治を開始した江戸時代など歴史的転換点は下剋上で成される。
歴史的転換点とは、歴史が大きく変わるターニングポイントとなる時期や出来事を指します。



【序論】

大政奉還が成立し王政復古が実行され、廃藩置県が断行され版籍奉還の実施が行われて、明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定した政治の流れの中で、西郷隆盛と大久保利通の対立が明治初期の明暗を分けた。
明治初期の政治に大きく影響を及ぼしたのが征韓論であり、征韓論をめぐって明治政府内で賛成派と反対派の遣韓論との論争が沸き起こったのが、大久保利通の強い反対にあって西郷隆盛の朝鮮派遣が中止になり、征韓論派・西郷隆盛と遣韓論(内治優先派)・大久保利通の軋轢(あつれき)が生じ始めた。


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「二条城での大政奉還図 邨田丹陵」



【明治維新に於ける歴史の詳細】


右大臣・岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、
伊藤博文、山口尚芳を副使とした総勢107名の岩倉使節団は、条約改正と海外視察を目的に1871(明治4)年、横浜港を出港。これはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、イタリア、ドイツの各国を訪問するという地球をぐるりと一周する大規模な渡航です。帰国するのは1年10カ月後になります。

そんな使節団の留守を守ったのは参議の西郷隆盛(薩摩)、大隈重信(肥前)、板垣退助(土佐)です。使節団は日本を出発する際、西郷隆盛を中心とする留守政府との間で「使節団が帰国するまでは極力、新しい政策は行わない」という取り決めをしていました。


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全権大使・岩倉具視と副使・大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳の 「岩倉使節団」の主要メンバー


【征韓論政変】

留守政府はそうした約束をあっさり破り、制度改革の面では四民平等を原則とした身分制度の改革、税制度を抜本的に改革する地租改正、義務教育を原則とした学制の公布、太陽暦の採用、徴兵令の制定など外遊組との約束とは完全に真逆のことをしました。外交面においても留守政府は朝鮮王国に開国要求のために外交を持ちかけることを計画します。日本はたびたび朝鮮政府に対し、外交を求めます。しかし、朝鮮王国はこの要求を拒絶します。日本政府は、言う事を聞かない朝鮮を武力で懲らしめ、力ずくで開国させようとする意見が出ます。幕末から新政府樹立に大きく貢献した大久保利通と西郷隆盛が対立する要因となったのが征韓論です。そしてその亀裂は修復されることなく、結果としては西南戦争が起きることにつながります。

元来日本と朝鮮は、徳川幕府の時代から親しく交際を続けていた間柄でしたが、幕府がペリーの来航を始めとする諸外国の外圧に屈し、和親条約や通商条約を結んだことにより、日本と朝鮮の関係は悪化し、事実上国交が無くなりました。その頃の朝鮮は、以前の日本がそうであったように外国との交際を一切断ち切り、鎖国政策を取っていたからです。


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征韓議論図 鈴木年基作。西郷隆盛は中央に着席


【結論】

明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、そんな中、外遊組がぞくぞくと帰国。岩倉具視や大久保利通、木戸孝允は「今は他国と戦争をしている場合ではない。富国強兵や殖産興業など内治を優先するべきだ」と建前論を主張するが、本音は留守政府が取り決めを破ったことに対し、大久保利通は切れたのではないかと解釈しています。強い反対にあって挫折し、西郷隆盛は政府を飛び出し帰郷します。
西郷に近い征韓論派の板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らが続いて下野した。この事件が俗にいう「明治六年の政変」です。
 不平士族の明治政府に対する不満は爆発し、佐賀の乱を発端に神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き、士族反乱の最大で最後の西南戦争を勃発し、国会開設運動,自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となり、大久保利通が自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り政権が確立する結果となった。



※ 佐賀の乱 : 1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。
佐賀の七賢人、維新の十傑と称される江藤新平は、近代日本の司法を整備した第一人者であり、その考え方や行動は正義に溢れ、尊敬の念を抱きます。

※ 神風連の乱 : 1876年(明治9年)に熊本市で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって廃刀令に反対して起こされた反乱。

※ 秋月の乱 : 明治9年(1876)10月、旧秋月藩士、宮崎車之助らが起こした不平士族の反乱。

※ 萩の乱 : 熊本県で起こった神風連の乱と、福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、前原一誠らが1876年(明治9年)に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

※ 西南戦争 : 1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である。



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by kfujiken2 | 2018-12-06 10:38 | 歴史 | Comments(2)

やまぐちを知ろう 【やまぐちの歴史】



長州藩の財政改革・藩政改革をした2人の救世主・毛利重就と村田清風。
毛利重就は「撫育方(ぶいくかた)」という長州藩の別途会計担当部局を設け、
村田清風は撫育方資金の運用増殖を狙って「越荷方(こしにかた)」という、倉庫業・金融業を行う役所を下関に設置した。
つまり、この2人によって長州藩の莫大な隠し財産がつくられ、幕末の政治工作資金や軍資金になった。
もし、この2人が居なかったら、長州藩の倒幕は無かったか倒幕運動に加担していなかったでしょう!明治維新を見ることはなかったか、明治維新が遅れたのではないでしょうか?



※ 余り講演会等で語られなかった、撫育方と越荷方という長州藩で行われた財政改革・藩政改革を詳しく説明しましょう。


◆ 長州藩の設立から財政改革・藩政改革までの経緯


戦国時代に112万石(実高は200万石超)あった長州藩は、毛利輝元が関ヶ原の戦いで西軍の総大将として責任を取らされ36万9千石に減封され、4分の1に減った総石高では家臣たちを養うことさえ困難でした。土地を失い国を離れる者、農民へと転身するものが続出します。おまけに幕府の手伝い普請が追い打ちをかけます。
伏見城の復旧、江戸城の普請・・・莫大な費用が必要でした。
さらに天災による米の不作、藩商品の販売不振などにより収入が減少し、財政難のどん底からスタートした藩でした。長年の疲弊生活を強いられていた民衆は、1831年には、10万人を超える農民が参加した「天保一揆」が勃発。各地で百姓一揆が起こるなか、1833年には「天保の大飢饉」も起こり、さらに困窮しました。民衆の間では女子供を奉公という形で売ってしまうこともあったそうです。
上述のような経緯もあり、長州藩では倒幕が国是であるとの噂があった。巷説の一つに、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立て、藩主が「時期尚早」と答える習わしがあったとの俗話が知られる。



◆ 第7代藩主毛利重就の財政改革

長州藩の中興の祖といわれる第7代藩主毛利重就(しげたか)が、藩主に就き「宝暦の改革」を断行し藩政改革の足がかりをつくりました。
宝暦の検地を執り行い、4万石の税の増収を得ました。この収入を藩財政には組み込まず、「撫育方(ぶいくかた)」という別途会計担当部局を設け、こちらの資金として充て干拓や塩田の開発や中関の整備などを行いました。しかも撫育方の収入は、現在で言う一般会計ではなくて、特別会計でした。すなわち、藩の通常の予算、支出、あるいは、収入ということで財政処理するのではなくて、特別会計として藩の手元金として、使わずに手元に置いておきました。まさにいざというときに使うために、蓄積されたのです。長州藩のこの隠し財産の積み重ね「撫育金」は、次第に大きなものになっていきました。


第7代藩主毛利重就の肖像画と室積の撫育方跡地の石碑
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◆ 村田清風の藩政改革 


村田清風は第9代藩主毛利斉房(なりふさ)から第10代藩主斉熙(なりひろ)・第11代藩主斉元(なりもと)・第12代藩主斉広(なりとう)・第13代藩主敬親(たかちか)までの5代藩主に仕え、慢性的な借財に苦しんでいた第13代藩主毛利敬親の信任の下で長州藩の財政改革(天保の改革)に取り組んだ。
第7代藩主毛利重就が設け蓄積された撫育方資金の運用増殖を狙って、倉庫業・金融業を行う役所・「越荷方(こしにかた)」下関に設置した。下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。北前船の越荷(他国から入ってきた荷物)を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。これらの政策が成功して銀8万5千貫(現在の価値でおよそ約1400億円)もあった赤字は解消し、長州藩の財政は再建されていった。村田清風は藩政改革の途中で中風に倒れ、その後、坪井九右衛門、周布政之助に引き継がれた。



村田清風の肖像画
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by kfujiken2 | 2018-11-11 10:14 | 歴史 | Comments(0)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part3

オレンジ色の道路が萩往還で、(緑の円で囲んだ部分)が中ノ町です。Part 1で説明しました【御客屋】跡地(萩往還ふれあい塾」のコーナーから、佐々並川の間を中ノ町といいます。

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◆【中ノ町の町並み】の成り立ち


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中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,薬種商等の各種の商売を営まれており、商業の機能を担っていた。


それでは主な各町家をご案内致します。


◆【はやしや旅館】

幕末には吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允たかよし、坂本龍馬など、維新の志士達が萩往還を通り、佐々並市で休泊しました。
萩藩主などが「ささなみとうふ」を好んで食べたことから、佐々並宿の豆腐の味として有名になりました「はやし屋」のとうふ料理は、伝統のある手づくりのささなみ豆腐を使った、素朴な味で皆様に喜ばれています。



はやしや旅館の新館と主屋

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「1階が食堂」でささなみ豆腐の料理が名物で、「2階が大広間」

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◆【旧小林家住宅】<(萩往還おもてなし茶屋)


江戸時代に人馬や駕篭の調達を行った「目代所」があり、現在は佐々並のご案内処になっている。明治40年に隣地から移築された主屋と、大正期に建てられた土蔵、昭和10年代に増築された離れからなります。かつては旅館を営んでいたことから、主屋の一階の主座敷に加え、二階には萩往還を望む表座敷、佐々並川や周囲の田園を望む奥座敷など、佐々並の魅力を十分に楽しめる建物です。


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※ 目代所 : 古代においては国守の代理として留守所に派遣された私設の代官を指した。近世以降、目代はもっぱら駅逓の事をつかさどる地下役として宰判内各駅に目代各一人が置かれ(目代所を設る場合もあった)、人馬駕篭などの準備や用達をなし、その賃銭の徴収するなどの任にあたった。

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主屋の一階の主座敷と当時の大福帳

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※ 大福帳とは江戸時代・明治時代の商家で使われていた帳簿の一種。
当時の商業取引の前提として「掛売り」が基本であったらしく、盆・正月の支払いだったらしい・・・


【旧小林家住宅】の見取り図

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◆ 【旧椿家住宅】 

江戸期から住み、米・砂糖・塩などを扱い、薬種商を経て、その他雑貨等も扱うようになった。

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by kfujiken2 | 2018-10-15 10:29 | 歴史 | Comments(3)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪  Part 2



萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1に於いて、【上ノ町の町並みの様子】のコンテンツで【御茶屋】と【御客屋】を説明致しましたので、Part 2・Part 3では【上ノ町の町並み】【中ノ町の町並み】の各町家を紹介致します。


◆ 【上ノ町の町並み】の成り立ち

上ノ町は江戸時代には各町家が商業や農業を営みながら,御茶屋及びその予備的施設(木村家・井本家)である御客屋を有していた。

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オレンジ色の道路が萩往還で、(赤の楕円で囲んだ部分)が上ノ町です。
上ノ町は多少傾斜のある道で、上ノ町を北に進み(左から右方向に)突き当たりに御茶屋が角にあり、ここから急カーブして萩往還のアイストップとなる象徴的なところに位置しておる。(イラスト画像のブルー楕円で囲んだ部分)


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※ 萩往還の説明を少々・・・


萩往還は、慶長9年(1604)萩城築城後、殿様の「お成り道」として開かれました。城下町萩(萩市)と瀬戸内の港三田尻(防府市)をほぼ直線で結んでおり全長はおよそ53Kmです。
もとは殿様の参勤交代道として整備された道でしたが、江戸時代の庶民にとっても山陰と山陽を結び陰陽連絡道として重要な交通路となりました。
また、幕末には、維新の志士たちが往来しており、歴史の上で重要な役割を果たしました。


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それでは説明できる各町家をご案内致します。


◆  佐々木家

江戸時代から代々「鍛冶屋」として馬の蹄鉄製造業を営んでいた佐々木家。

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◆  石田理髪店


江戸時代、「御客家の井本家」が屋敷を構えた敷地の一角にあたり、理髪店「浅川家」を経て現在に至っている。

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◆  大野家 

佐々並の戦の火災後、江戸時代末期に建築と推定されている大野家、二代前までは、畳屋だった。

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◆ 三浦家


「土山酒造」と号して明治34年の創業以来酒造業を営んできた土山家から、大正2年に「三浦酒造」が譲り受け現在に至っている。

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【中ノ町の町並み】は後日にご案内致します。

by kfujiken2 | 2018-10-12 10:39 | 歴史 | Comments(0)

萩往還の宿場町佐々並市を探訪 Part 1



平成23年6月20日重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。

佐々並市・重要伝統的建造物群保存地区をご案内致します。

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◆ 【佐々並市の概要】

佐々並市は、萩市の南部を占める旧旭村の南縁に位置する農村集落で、かつての萩城下町と三田尻(防府市)を結ぶ萩往還の中間点に位置することから、参勤交替の際などに藩主が休息する御茶屋を中心とした、宿駅機能を有する集落として栄えました。  佐々並市の町並みは、江戸初期に農業を基盤としつつ、萩往還の整備に伴って宿駅機能を備えた町並みとして成立し、近年に至るまで町並みの地割に大きな変化はなく、かつこの町並みの特徴を示す建築物や工作物、環境物件が現在まで数多く残っています。

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佐々並市は,「御茶屋」から萩方面に向かって,上ノ町,中ノ町,久年という3つの町で構成され,江戸時代に各町家は農業を営みながらも,上ノ町は御茶屋及びその予備的施設である御客屋を有し,中ノ町では造酒屋,油屋,酢醤油屋,肴豆腐屋,穀物屋,鋳物屋,鍛冶屋等の商工業を担い,久年は,人馬を提供する駅の役目を果たしてきました。
当時のこの集落は、総家62軒からなる町並みだったようで、そのうちの15軒が商人、47軒が宿人夫馬持ちで農業をしながら暮らしていた。


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◆ 【上ノ町の町並みの様子】

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慶応元年(1865)の1月、長州藩政府軍と高杉晋作が率いる緒隊が現在の美祢市にある大田・絵堂で10日間の戦いをやり、ここはその脇戦の地になり(佐々並の戦)、12軒が焼失していて、その時に建て替えられたそうです。

◆ 【御茶屋】

御茶屋の図面、「旧小林家住宅(目代所跡)休憩所に展示」
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萩往還沿いの最も大きい施設の一つとして御茶屋(藩主の旧泊施設)があった。慶長9年、毛利輝元が山口から萩城へ移るとき、旧佐々並使用学校(現佐々並農協木材部)の敷地内にあった長松寺の前身である長松庵で休息したといわれる。それにちなんでこの地に御茶屋が建てられたと伝えられている。670㎡の敷地に本館、長屋門、御蔵、御共中腰掛、馬建、番所があった。

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【御茶屋】の跡地

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◆ 【御客屋】

後年、往来の通行がひんぱんになると、上級武士が休息・宿泊施設 として御客屋が設けられ、にあった木村作兵衛宅、井本弥八宅があてられた。
広々とした土地に1917(大6)年に佐々並村役場がこの地に置かれ、現在は「萩往還ふれあい塾」になっております。


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【上ノ町の町並み】は後日に・・・ ご期待あれ!!!
by kfujiken2 | 2018-10-10 12:13 | 歴史 | Comments(2)


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