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カテゴリ:歴史( 221 )

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その④


◆ 天樹院墓所

中国地方の雄・毛利元就の孫で長州藩祖である毛利輝元の墓所である。ここは輝元生前時には輝元の隠居所・四本松邸のあった場所で、その死後天樹院(輝元の法号)が菩提寺として建てられた。しかし、明治2年(1869)に廃寺となり墓所のみが残った。

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入口に唐門があり、長さ64mの参道が続く

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毛利輝元公と夫人の墓

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長男: 毛利秀就(1595-1651) - 長州藩初代藩主
長女: 竹姫(1600-1644) - 吉川広正室
次男: 毛利就隆(1602-1679) - 徳山藩初代藩主


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by kfujiken2 | 2019-09-10 09:26 | 歴史 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その③



◆ 長州藩の牢獄は「野山獄」と「岩倉獄」

野山獄は、長州藩の士分(武士関連)の者を収容する上牢。
野山獄は、6房が中庭を挟んで向かい合っており、12室の独居房となっていた。
独居は3畳ほどの大きさで、食器などの生活用品・寝具、小さい机や筆記用具なども置けた。野山獄は部屋の出入りや差し入れも自由であったが、毎日何もやる事が無く、獄中生活は退屈であったと言う。



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◇ 野山獄と岩倉獄の概要


野山獄は、正保2年(1645)9月17日、酒に酔った大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛が、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷するという事件が起こった。藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処したが、喧嘩両成敗ということで両家は取り潰し、屋敷は没収された。後に藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄とした。

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岩倉獄は、士分以外の者(長州藩内の町民・農民といった藩籍を持たない庶民)を収容する下牢ということもあり、 野山獄ように個室ではなく、3つある大部屋に収監され入牢した者への扱いもひどく、 萩への移送の途中で体調を崩した金子重之輔も十分な手当ても受けられず獄死している。 重之輔の死に松陰はひどく悲しんだという。

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◇ 「野山獄」に関わるエピソード



野山獄に、安政元年(1854)海外密航に失敗した吉田松陰が投じられ、岩倉獄には従者だった金子重之助が投じられました。松陰は、そこで仲間の囚人たちに孟子の講義をするとともに自らも俳諧や書を学びました。また獄吏でさえも廊下で松陰の講義に耳を傾けたといわれており、前例のない教育活動を行いました。
松陰が入牢した時、野山獄には十一人(うち女性一人)の獄囚がいたが、明らかな罪人としての入牢は二人、他はさまざまな理由で世に入れられず、「借牢」という形で、軟禁状態に置かれた人々であった。彼らは罪人ではありませんが、刑期はなく、親族の許可がなければ出獄することはできませんでした。11人の中にはすでに49年も獄中生活を送っている者さえいました。そのため、野山獄に入ると一生出ることはできないという噂がたっていたのです。



大深虎之允   76歳 在獄49年
弘中勝之進   48歳 在獄19年  
岡田一廸    43歳 在獄16年
井上喜左衛門 38歳 在獄9年
河野数馬     44歳 在獄9年
粟屋與七     不明  在獄8年 
吉村善作     49歳 在獄7年
志道又三郎   52歳 在獄6年
高須久子    39歳 在獄4年  ※吉田松陰、生涯一度の獄中の恋
冨永弥兵衛   36歳 在獄4年 ※富永 有隣 松下村塾の教育を支え、鋭武隊を指揮した
平川梅太郎   44歳 入獄3次・通算3年



牢獄の役人が松陰に好感を抱くようになり、牢獄内の勉強会が行いやすくなるよう、ろうそくを用意するなどの便宜を図ってくれました。
松陰はこの役人に頼んで書物を揃えてもらい、「孟子」の購読会を開催します。
このことが、松陰の思想を大きく発展させることにつながっていきました。

by kfujiken2 | 2019-09-05 11:45 | 歴史 | Comments(0)

北浦の奇岩・ホルンフェルスと萩市の文化史跡・遺跡 その②


◆ 恵美須ヶ鼻造船所跡

【世界遺産登録】 洋式軍艦の建造に先駆的な役割をはたした造船所


恵美須ヶ鼻造船所跡 見取り図

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嘉永6年(1853)、幕府は各藩の軍備・海防力の強化を目的に大船建造を解禁し、のちに萩藩に対しても大船の建造を要請しました。安政3年(1856)、萩藩は洋式造船技術と運転技術習得のため、幕府が西洋式帆船の君沢型(スクーナー船)を製造した伊豆戸田村に船大工棟梁の尾崎小右衛門を派遣します。尾崎は戸田村でスクーナー船建造にあたった高崎伝蔵らとともに萩に帰り、近海を視察、萩市小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を建設することを決定しました。同年12月には萩藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」(全長25m、排水量47t、スクーナー船)が、また万延元年(1860)には2隻目の洋式軍艦「庚申丸」(全長43m)が進水します。現在も当時の規模の大きな防波堤が残っています。


「今浦波戸」: 現存する石造防波堤

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2隻の洋式軍艦の建造に関わったのは、楫取素彦の兄・松島 剛蔵です。
長崎に赴き勝海舟らと共に長崎海軍伝習所でオランダ人に航海術を3年間学び、帰藩して洋学所・軍艦教授所を創立する。軍艦教授所の門下生には高杉晋作らがいた。長州藩初の西洋式軍艦製造にともない、初代長州藩海軍総督となり、丙辰丸艦長に就任する。



■ 丙辰丸【へいしんまる】
長州藩が初めて建造した洋式軍艦。安政3年(1856)起工。
木製帆船で、全長約25メートル。
万延元年(1860)、艦長・松島剛蔵のもと、江戸への遠洋航海が行われる。
高杉晋作も乗船しており、数か月日記に記している。
江戸では長州藩士と水戸藩士の交流があり、丙辰丸の船内で「成破の盟約(丙辰丸盟約)」が交わされた。
その後は、第二次長州征伐や戊辰戦争に参加。維新後の明治3年(1870)、商人に貸し渡された。


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■ 庚申丸【こうしんまる】
長州藩が丙辰丸の次に建造した洋式軍艦。万延元年(1860)進水。
木製帆船で、全長約25メートル(あるいは35メートル)、30斤砲6門を備えていた。 文久3年(1863)、関門海峡にて攘夷戦を始めるが、アメリカ軍艦に砲撃され沈没。その後引き揚げて修復され、第二次長州征伐で幕府軍と戦った。


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by kfujiken2 | 2019-08-31 17:31 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑥(last)


歴史と文化の町 玖珂

玖珂町は山に囲まれた小さい町だが、歴史は古く縄文時代には、既に原始人が住み始めており、町の中心部を東西に横切る旧山陽道は、古代から近世にかけて都と九州を結ぶ陸路の幹線として栄えた。
戦国時代には毛利元就の鞍掛城攻めや豊臣秀吉の九州征伐、江戸時代には参勤交代に伴う大名行列がこの山陽道を往来した。町内には往時を偲ぶ史跡が随所に残されている。



【玖珂町の旧山陽道沿いの寺社】

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※ 杉家の祥雲寺


戦国時代において谷津ケ浴にあって杉家(領主、杉治郎大輔隆康)菩提寺として敷地二千坪 末寺二十四坊を有する大きな寺院であった。弘治元年(1555年)鞍掛合戦により毛利一族に敗れ 杉隆父子は壮烈な討ち死にを果たした。祥雲寺もこの時消失したが、毛利氏一族の岩国吉川家に よって慶安年間に野口に城泉寺として再建され、元禄14年(1701年)現在地に移し、元文4年(1739年) 寺号祥雲寺が復活した。


【薬師堂までの参道】


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【祥雲寺の説明板】


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【鞍懸城主杉隆泰・父宗珊墓碑】

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※ 児玉家の大福寺


鞍掛城主・杉隆泰の家老児玉筑前守(戦死)の嫡男児玉佐渡守が出家して、亦了(えきりょう)と改名し、建立したとされる。
境内にある自然石碑境内は江戸時代中期本町下の狂歌人「柳門四世栗陰軒貞六翁之塚」がある。嘉永四年(1851)に九十四才で没したが門人たちによって建立されたものである。碑の右脇には彼の辞世の歌が刻まれている。「花にくらし 月にあかして  楽しみに  こころのこらずきゆる  雪の世」



【大福寺の参道】

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【大福寺の山門】

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【柳門四世栗陰軒貞六翁之塚】


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※ 岡家の浄光寺


養老五年(717)野口の里より玖の玉、珂の玉出現し、これを当山の霊泉で磨いたという故事にちなんで山号を清玖山、院号を宝珠院という。「玖珂町史」に「辞書に玖は黒岩の玉をいい、珂とは瑪瑠潔白にして雪の如しとあり、『清玖山上古記』に玖を以って南浦般若寺(平生町)に収め、珂を以って二井寺に納むとあり、さらに玖珂地名の起源となったと書いている。」とあり、玖西では二井寺(後述)に次ぐ歴史を有する。前述のとおり浄光寺と杉隆泰末裔岡氏とは菩提寺と檀家の関係にある。


【浄光寺の参道】


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【浄光寺の本堂】

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※ 宇野家の萬久寺

鞍懸合戦の後、杉氏の家老宇野筑後守正常の次子・西念の開基した寺で、境内に自然石の宇野築後墓があるが、名をはばかり「守」の字が無い。
境内には明治時代子弟の教育に尽くした前住職第十一世・宇野泰信上人の頌徳碑があります。


【萬久寺の山門】

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【宇野泰信上人の頌徳碑】

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【宇野築後の墓】


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※ 菅原神社 (玖珂天満宮)

杉氏の末裔でもある岡氏が、天災や疫病が続くのは弘治元年(1555年)の鞍掛合戦で非業の死を遂げた、杉隆泰父子一族郎党の祟りではないかと思い、岡家邸内に防府天満宮から分霊を勧請して天満宮を祀ったという。

【旧山陽道から見た菅原神社】

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【鳥居から拝殿までの参道】

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【菅原道真の家紋「梅鉢紋」】


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by kfujiken2 | 2019-07-19 09:14 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ⑤

厳島合戦後の鞍掛合戦

安芸国の戦国大名毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)が弘治元年(1555年)10月12日から弘治3年(1557年)4月3日まで行われた。戦国時代末期、大内氏三家老の一人である杉治部大輔隆泰は鞍掛城主として周防国東部を固めていた。
厳島の戦いで陶晴賢に大勝利した毛利元就 は、その勢いで岩国に進出し、周防東部を治める大内家の武将杉氏の鞍掛城(現岩国市玖珂町)や土豪の椙杜(すぎもり)の蓮華山城・小方に降伏するように書状を送りつけた。
これに対し椙杜・小方両氏は、毛利方に味方したが、鞍掛城の杉隆泰は毛利元就の防長進出はどうしてもくい止める必要がある為、毛利には人質を送り一方では大内義長に忠誠を尽くす考えでいた。弘治元年(1555年)11月10日~14日(10月27日説もある)毛利が7千の軍勢をもって 周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。 杉方は2千6百の兵をもって鞍掛城と旧山陽道の南北に布陣し、毛利軍を迎え討つ。毛利の軍勢が、椙杜・小方の在郷武士の手引きにて午前2時頃出陣し4時頃鞍掛へ到着し、午前5時~7時頃にかけて一度におし寄せ杉隆泰陣の寝込みを襲撃した。不意をつかれた鞍掛方は、城主・杉隆泰をはじめ、家老 柳井若狭守、宇野築後、児玉筑前、有永備中、侍大将 三浦助衛門など、鞍掛側の戦死者370名が谷津ヶ原にて戦死。侍大将や足軽大将など多くの家臣が水無川に沿って南西の方面の二井寺に逃れ最後迄戦を行ったが敢え無く敗れた。



あざやかな奇襲!!「厳島の戦い」   クリックしてみて下さい。youtube 動画が観られます。


※ 防長経略 : 安芸国の戦国大名・毛利元就の大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦です。毛利元就が陶晴賢の残党や杉氏を玖珂から長門まで侵略を行った。陶晴賢と不和であった大内氏三家老の杉氏と内藤氏は「厳島の戦い」に参戦しなかったのに、防長経略のターゲットになったのは、この混乱に乗じ周防に勢力を広げていく防長経略の煽りをくい、攻撃を受けることになる。元就はまず調略で、大内陣営内部に揺さぶりをかけた。毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。杉氏は「鞍掛合戦」で討たれたが、内藤氏はどうしたんだろうという疑問が出て来ます。内藤氏(内藤隆世)は戦わずして長門に逃亡した。毛利軍も長門に進軍したが内藤隆世の切腹で決着した。家臣まで制裁をしなかったのは、内藤隆世の叔母尾崎局が毛利隆元の正室であった外戚関係だったから徹底的に制裁しなかったのでしょう・・・


例年11月の第3日曜日に行われるお祭りです 昨年のポスターです「鞍掛城まつり」

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by kfujiken2 | 2019-07-12 09:01 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ④


西国の山城: 鞍掛山城

標高240mの鞍掛山の尾根に築かれた実戦的な山城である。築城年代は不明。大内氏の家臣・杉氏の居城。近隣には、すぐ北に椙杜氏の蓮華山城、南側には小方氏の瀬田城がある。弘治元年(1555年)に、陶晴賢が厳島の戦いで討死し、同年より毛利氏が周防・長門国への侵攻を開始した(防長経略)。その際に城主であった杉隆泰は、毛利元就の勧告に従い降伏。しかし、蓮華山城の椙杜隆康が、大内氏と杉隆泰の内通を元就に訴えたため、毛利軍は鞍掛山城を攻めた。


【鞍掛山城跡(鞍掛山山頂)】『ウィキペディアより』

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父の杉宗珊とともに籠城した隆泰がよく抗戦したため、毛利軍主力は山口方面に侵攻すると見せかけて蓮華山城へ兵を入れ、早朝に城の背後から奇襲を仕掛けた。 不意を突かれた鞍掛城籠城軍は、混乱に陥って壊滅。毛利氏に降って城攻めに加わっていた瀬田城城主・小方元康の手で隆泰も討ち取られ、鞍掛山城は落城した(鞍掛合戦)。 その後、鞍掛山城は廃城となった。 毎年11月には「鞍掛城まつり」が催されている。また城下には討死した者を弔った千人塚があり、そこには宇野千代の句碑が立っている。


【鞍掛山城跡の場所】

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史跡鞍掛合戦千人塚 


今から約450年前、弘治元(1555)年11月14日守護大名大内氏の家臣杉隆泰・公宗珊一族郎党2600人は、戦国大名毛利元就・吉川元春・小早川隆景一族郎党7000人を迎え撃ち戦いました。しかし、多勢の無勢、杉氏一族は奮戦むなしく無念にも討ち死にし、鞍掛山城は落城しました。城主父子の墓は祥雲寺にあり、部下将兵 一同はここに千人塚として合葬されている。
当時、領主杉隆泰は、玖珂盆地周辺に3万石を有していました。この谷津の地には、合戦の後、戦死者を弔うための積み石塚がいくつか造営されました。昭和8(1933)年3月14日、玖珂町が残存状態の比較的よい積み石塚の3基を改修して、花崗岩製の墓柱を建立しています。昭和63(1988)年、南端の1基について、玖珂ライオンズクラブが積み石塚を覆う基壇を設置する改修工事を実施しています。



【史跡 鞍掛戦死者之碑(鞍掛合戦千人塚)】

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【鞍掛合戦千人塚の説明板】


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【宇野千代女史の「史蹟 千人塚に想ふ」と題した追悼碑】


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【千人塚背後の積石塚】


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by kfujiken2 | 2019-06-29 06:56 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ③


杉氏 改 柳井氏先祖由来の中で、前回は杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)を紹介しましたので、今回は次男・亀若丸を説明致します。



次男・亀若丸・5歳(後裔の柳井氏 宇部市在)は鞍掛合戦前、野口の緒方源内に預けれ、緒方源内の妻が乳母となり養育されて成人します。
(緒方源内は豊後国木付之城主緒方惟栄(おがた これよし)之末子で杉家と親族関係でもあり、天文13年(1544)鞍掛合戦11年前に杉家をたよって玖珂の野口村に移住する)、源内の娘を嫁としたが死別、杉隆泰の家老・柳井若狭守の娘を嫁とし柳井源治郎と称する。大日如来の信仰厚く、合戦27年後の天正12年(1584)に大日堂(寺)を創建し、杉家以来柳井家の霊を弔う。現在も野口上の中央病院の国道2号線沿いの丘に連綿としてその堂宇が残っている。この大日寺の裏山には亀若丸の墓も苔むしている。



【柳井氏関係の地図】

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【一之迫の柳井氏屋敷跡】

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次男亀若丸(のちに柳井源次郎と称す)創建の大日堂(寺)は今は荒れ、小さな堂と土塀の一部を残すのみだが、大日寺領域は広く、国道二号線や県道(欽明路道路)によって分断されている。大日堂の西側には杉氏末裔服部氏一族の墓、東側には寺域内に点在していたとおもわれる八十八か所観世音菩薩像を一箇所にまとめている。


【小さな堂】


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【当時に建てられた堂宇かどうか分かりません】


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【八十八か所観世音菩薩像】

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※ 柳井家家系の起源


柳井家は、起源を人皇(神武天皇以後の天皇)第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保(あぼ)親王の第一子・大枝本主(おおえ もとたか)に始まり、大枝本主の嫡男大江音人(おおえ おとんど)の時、姓を大枝を改め大江と為す。
大江氏といえば鎌倉幕府政所別当を務めた大江広元が存在しましたが、大江広元は安芸毛利氏の始祖と言われています。(大江氏の本家筋ではないが、元就・輝元に繋がっています)
つまり、柳井家と毛利家は遠戚関係にあるのですが、戦国時代は群雄割拠して天下をうかがう戦国の世で、豪族間も領土の拡張百姓の確保懐柔に、外交上は遠交近攻、武力にて弱肉強食、女性を犠牲にして政略結婚など秘術を尽くし、下剋上、近親相剋、昨日の友も今日は敵となる浅ましい世相であった。

by kfujiken2 | 2019-06-24 10:45 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ②


杉氏 改 柳井氏先祖由来


杉隆泰長男・鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるようです。杉隆泰の長男・鎮頼(専千代丸)と嶋寿丸伊房が同一人物か別人かという部分が分かりません。その上、鎮頼(専千代丸)の生涯に二説あるのに思いあぐねます。一説は帰農して岡氏と名乗り、二説は大友宗麟の家臣として仕えたと記述があります。もし二説が真実ならば、惣庄屋の岡氏は誰の後裔なのかと言う疑問が湧いてきます。


一説は、嶋寿丸伊房(これふさ)は鞍掛合戦時に、母と共に山口杉屋敷在6歳、後に杉助三郎と改姓する。嫡男嶋寿丸は山口で百ケ日法要をいとなんだ後、元就山口攻めの風聞に接し、近習三十余人とともに豊前松山城主(現・福岡県京都郡苅田町)杉重吉(母方の叔父)を頼ったが、ここも大友氏との関係が緊迫していたため、母と女中を預け置き、伊予に渡り三ケ年浪々と過ごしている。永禄元年秋安芸厳島に参詣したが、座主は杉家に由緒ある者で、近習十三人のうち二名を留めおき残り十一人は金銀を配分して浪人となし離散させた。嶋寿丸は座主の思召しを以って毛利七郎兵衛を頼み、元就へ相談した。元就は、その請をいれ玖珂の荘官末岡土佐に預けられた後、瀬田丸山の領主小方元康の言によって杉助三郎と改称し、後柳井清左衛門の養子となり、その家にて死んだと言われる。四代目故あって岡姓と称する。(岡氏 京都市在)
 二説は、鞍掛合戦後、豊後国の戦国大名・大友宗麟の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。



【丈六寺跡と岡家墓地の場所】


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【丈六寺跡の石組みと思われる】

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【岡家の墓地】

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(注)杉鎮頼(専千代丸)は嶋寿丸伊房とは別人で、のちに大友義統から豊前国田川郡の内、仲元寺の地を知行、島津氏と耳川の戦いに於いて死し終末をとげている鎮頼(専千代丸)の方が正統と思われる。



次男・亀若丸は柳井家と改姓しているので、次回の説明とします。
by kfujiken2 | 2019-06-18 08:18 | 歴史 | Comments(0)

玖珂の鞍懸城主・杉隆泰の系譜と武功 ①

大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550年)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)と称す。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。
晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
 隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。
嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼(すぎ しげより)と名乗り、
天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。
※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


※ 杉隆泰家の略系図

[重運]――[第一代 杉重明]――[第二代 杉重茂]――[第三代 杉頼明]――[第四代 杉弘依]――[第五代 杉興頼]――「第六代 杉隆泰]――[第七代 杉鎭頼]――[某 専千代]



【杉治部大輔隆泰と父の杉土佐守貞泰の墓】


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古戦場のまち 「玖 く が 珂」のマップ

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by kfujiken2 | 2019-06-14 10:39 | 歴史 | Comments(0)

周防大内氏第16代当主・大内義隆を支えた、3人の家老の一人・玖珂の鞍懸城主・杉隆泰


縁あってこの杉隆泰と鞍掛城のことを知り、調べてみる経緯となった次第です。
先週玖珂町の図書館・教育委員会に行き資料を調べて来ましたが、史跡の撮影をする時間がありませんでしたので、近日中に史跡の撮影に行って来ます。


山口の基礎を築いた大内氏は、南北朝〜戦国時代に中国地方に勢力をふるった豪族。百済聖明(くだらせいめい)王の第3子琳聖太子の子孫と称し,聖徳太子より多々良の姓を与えられたと伝える。弘世(ひろよ)の時,足利氏に従って戦功を立て,山口を本拠として勢力を拡大した。その子義弘は6ヵ国の守護を兼ねた。応永の乱で一時衰えたが再興し,日明貿易の独占で富強を誇る。最後の当主・義隆の時,家臣陶晴賢(すえはるかた)の謀反に遭って(大寧寺の変)で滅ぼされた。
大内政権は、主君を中心に周防守護代・陶氏、豊前守護代・杉氏、長門守護代・内藤氏の重臣(大内氏奉行三家老家)が、いわば内閣として中枢部を構成していたが、陶氏が筆頭の地位にあった。

陶氏は富田若山城、内藤氏は長府勝山城、杉氏は玖珂鞍掛城と居城を持ち活躍した。
陶氏は(大寧寺の変)後、毛利元就と戦った(厳島の戦い)で破れ、毛利元就は大内氏領土周防国・長門国侵攻作戦の防長経略(ぼうちょうけいりゃく)を行い、杉治部大輔隆泰が鞍掛城主の周防国に攻め込んできた最初の合戦が鞍掛合戦であった。



鞍掛城まつり実行委員会より、昨年のポスターをお借りしました。

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◆ 大内氏の重臣杉隆泰

杉治部大輔隆泰(すぎじぶたいゆうたかやす)は、戦国時代の武将で周防国鞍掛山城主。大内義隆に仕え天文19年(1550)、従五位下に叙し、以後治部大夫と称する。父は杉貞泰(法名は土佐入道宋珊・とさにゅうどうそうさん)、子に杉鎮頼(すぎしげより)。
鞍掛杉氏は応永6年(1399年)に足利将軍家と大内氏から、周防国玖珂郡3万石を拝領した一族であった。杉隆泰は、平時は山口に出仕して大内氏の領国統治に従事し、所領の玖珂郡は影響下の国人衆に統治を委任していた。
なお、諱の「隆」の字は主君の大内義隆から偏諱を賜ったものである。

晴賢の謀叛により大内氏31代義隆が自刃した後は、晴賢が大内氏の当主としてたてた大内義長(大友宗麟の異母弟)に仕えました。
天文24年(1555年、弘治元年)の厳島の戦いの後、毛利元就が周防国東部へ進出し、玖珂郡への侵攻を開始すると、隆泰はその矢面に立たされた。最初は毛利氏に臣従したものの、近隣の蓮華山城主椙杜隆康(すぎもり たかやす)との関係もあり、毛利氏の攻撃を受けた。
隆泰は居城の鞍掛山城に籠っていた際に奇襲に遭い、防戦に努めるも、ついに鞍掛山城は落城。隆泰は父の宗珊と共に討死した(鞍掛合戦)。
享年31。法名は鐵真院殿享安元樹大居士。墓所は鞍掛山城の麓にある祥雲寺。

嫡子の専千代丸は、豊後国の戦国大名・大友義鎮(宗麟、大内義長の実兄)の許へ逃亡。一字を拝領して杉鎮頼と名乗り、天正6年(1578年)の耳川の戦いで戦死するまで、大友氏家臣として仕えた。


※ 耳川(みみかわ)の戦い : 九州制覇を狙う豊後国の大友宗麟と薩摩国の島津義久が、日向高城川原(宮崎県木城町)を主戦場として激突した合戦。


「鞍掛城まつり(11月)」の マスコットキャラクター「鞍隆くん」

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by kfujiken2 | 2019-06-09 13:41 | 歴史 | Comments(0)


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