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カテゴリ:歴史( 208 )

古墳時代の『後井古墳(ごいこふん)』

後井古墳は山陽本線田布施駅から西北西約2㎞・ 山口県熊毛郡田布施町宿井 の、標高約62mの丘陵にある。6世紀末から7世紀初頭に造られたとみられる、円墳の1号墳とほぼ同時期に造られたとみられる前方後円墳の2号墳の他、少し離れた場所に3号墳があり、どれも片袖型横穴式石室を持っており、山口県下最大規模で当時の首長墓とされています。見学は保存状態の良い1号墳のみ可能となっており、玄室内にある社は火の神様である秋葉様が祀られています。秋葉古墳とも呼ばれることがあり、山口県の史跡に指定されています。

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◆ 後井古墳は誰の墓か?


かつて田布施町には「王国」があった。このあたりは熊毛王国と呼ばれていました。熊毛地方(田布施を含む近隣地域のこと)は、かつて瀬戸内海の要所であり、人や文化の集積地点として栄えました。3世紀末から7世紀にかけて山口県熊毛郡の古柳井水道(古熊毛水道)付近に熊毛王と呼ばれる複数の豪族の治める熊毛王国と呼ばれる連合国家があった。
大和朝廷が完成するまで、人口が集中する地域は独自の小国家をつくった。町内に古墳が多いことも田布施の特徴だ。現在、確認されている古墳の数は85基あるそうです。


※ 古柳井水道(古熊毛水道) : 山口県の室津半島と本州は分離しており、間に古柳井水道(古熊毛水道)と呼ばれた海峡があった。

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古墳なのに石鳥居がある

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途中の石段ですが、長年の風雨で石の周りの土が削られ流されたのだろうか? 一段の石が50cmくらいあり石段を登って行くのが大変なので、両サイドの溝を登って行きました。

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やっと古墳の入り口が見えてきました。

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◆ 後井古墳の概要

入口の幅はあるが天井の低い羨道(羨道長5.9m、幅1.6m、高さ1.8m)の先に玄室(玄室長6m、幅3.5m、高さ3.55m)で県内最大クラスの石室、奥壁鏡石と天井石が特に巨大です。よほどこの地に縁深い有力者のものなのでしょう。社などが建てられるでもなく墳墓そのものが御神体となっている珍しいものでした。

後井古墳の入口です。

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羨道と玄室です

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巨大な天井石です。 どこから運んできたのか、どの様に石組みをしたのか不思議です。

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by kfujiken2 | 2019-03-12 10:50 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②



本堂の左手に「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」と岩国市教育委員会の解説版があり、その後方に「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱があります。更にその後方が遊撃隊総督邸跡地だったようです。


上記の記載の順に沿って画像をアップします。

◆  「高杉晋作 遊撃隊(遊撃軍)激励の詩石碑」 

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殱賊興正非我功   幸隋驥尾全斯躬
豊公事業君無怪   一片機心今古同
訪遊撃軍諸君即吟
              
                東洋一狂生東行



◆ 岩国市教育委員会の解説版


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訳:賊を打ち破り、正道を興すは我が功績に非ず
幸いにも先達を見習って行動したことで、成し遂げただけである
豊臣秀吉公も偉大な事業を成し遂げたが、何も不思議な事はない
昔も今も成し遂げようとする人の心は同じである
遊撃軍諸君を訪問してこの詩を即興で吟じる




◆ 「遊撃軍陣営遺跡保存基金芳名」の寄進者芳名柱

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「毛利家」、「子爵 河瀬 眞」、「吉川家」、「江木千之」の芳名が刻まれている
建立年月日が刻まれていないが、通化寺本堂背後の「遊撃軍記念碑」篆額に大正10年書、 「遊撃軍招魂碑」陰刻に大正15年建立とあるので、この頃の寄進と思われる。



★「金參百圓 毛利家」 :遊撃隊総督の吉敷毛利氏世嗣幾之進の吉敷毛利氏と思ったが、「毛利家」とあるので右代表として、毛利本家ではなかろうか。
★ 「金參百圓 子爵 河瀬 眞」 :再建遊撃隊総督河瀬安四郎(石川小五郎 ・真孝:まさたか)の三男「眞(まこと)」。
★ 「金貮百圓 吉川家」 :岩国吉川氏。
★ 「金壹百圓 江木千之(かずゆき)」 :岩国藩士江木俊敬(としたか)の長男で、大正13年文部大臣に就任。晩年は枢密顧問官を務めた。



◆ 遊撃隊総督邸跡地


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入り口の看板に「檀家が24軒で、維持して行くのが大変厳しい。来られた方のご寄付をぜひお願いしたい」旨の記事が大きく書かれています。そのせいかどうか、本堂の屋根はシートで覆われたまま。
本堂内部の柱の金箔も剥げ、傷みが酷いのが一目で分かりますが、岩国市が本格的に力入れ、檀家の寄付では修復は無理だと思います。
弘法大師が創建し幕末から明治維新にかけ、長州藩の遊撃隊の本陣がおかれたという歴史ある名刹を放置するのは残念ですよね~


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寺の背後の庭は、巨石を配置した「雪舟」の作とのこと。
案内柱があるので雪舟庭園には違いないのだろうが、残念なことに荒れ放題で、何処までが庭園なのか分かりません!!!

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by kfujiken2 | 2019-03-08 13:03 | 歴史 | Comments(0)

大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その①



弘法大師が唐から帰朝の際に大黒山麓大梅の地に立ち寄り、大同二年(807)創建という古いお寺ですが一度途絶えたそうです。それをこの地に住んでいた「吉川元春」の次男、毛利元氏が自ら京都宇治に「隠元禅師」を訪ね、禅師が開いた禅宗の一派「黄檗宗(おうばくしゅう)」の分院として再興したのです。
隠元禅師は、いんげん豆の他、西瓜、蓮根、孟宗竹、木魚などを日本に持ち込んだ中国の僧だそうです。


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時代は下がって、明治維新のころ、第二次長州征伐「四境の役」で幕府軍と戦った時、幕軍による征長に備え東境の守りの要として遊撃隊の本陣が通化寺におかれました。遊撃隊は来島又兵衛が創設しましたが、1865年(慶応元)3月、250人の遊撃軍がここに来た時の総督は高杉晋作でした。禁門の変では総督の来島又兵衛は戦死するほどの奮戦を見せています。来島又兵衛の戦死後は、石川小五郎が指揮をとって功山寺挙兵にも参加。大田絵堂の戦いの後に高杉晋作が総督となっています。・・とはいっても正式に藩から任命されたわけではなく、 事実上の総督であったのだと思います。

※ 来島又兵衛 : 剣術や槍術、馬術にも長けており、戦国時代の武将のような風貌であったと言います。「血気盛ん」「気性が激しい」性格は若い頃からであったと言います。多くの長州藩士が禁門の変で命を落としますが、もともと戦うことが目的ではなく、朝廷に対して陳情するのが目的でした。しかし、この時期の長州藩に対する幕府、朝廷、世間の目は厳しく、兵と一緒に京に行けば戦いと捉えられて、陳情どころではなくなるのは明白でした。
桂小五郎をはじめ、軍を率いて京に行くことに反対しました。 藩の意向に来島又兵衛は納得しませんでした。 脱藩してでも行くと言って聞きません。説得役として藩に命じられた高杉晋作は3日かけて来島又兵衛を説得しますが、来島は断固として納得しません。急先鋒はもちろん来島又兵衛で、 遊撃隊600を率いて進軍しますが、幕府軍の圧倒的な兵力で敗れることになります。


【来島又兵衛】
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※ 石川小五郎 : 周防国吉敷郡佐山に、長州藩士の子弟として生まれる。萩の明倫 館に学ぶ。文久2年(1862年)、先鋒隊に入隊 。
元治元年(1864年)、御楯隊に入隊。禁門の変では、戦死した来島又兵衛の指揮権を引き継いで遊撃隊の指揮を執り、のちに遊撃隊総督となる。慶応元年(1865年)、高杉晋作による功山寺挙兵では、遊撃隊を率いて参加した。第二次長州征伐では芸州口を攻撃するなど活躍した。


【石川小五郎】
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大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 その②に続く
by kfujiken2 | 2019-03-06 16:26 | 歴史 | Comments(0)

江戸城の歴史と皇居の謎

【江戸城の歴史】


現在の皇居は、江戸時代に徳川将軍の居城であった江戸城が前身であることは、何方もご存知だと思いますが、では皇居・江戸城の歴史や変遷を詳しくご存知の方は少ないんではないでしょうか?

現在の皇居がある場所(東京都千代田区)に、江戸城は15世紀半ばに建てられました。江戸時代には「江城」、「千代田城」とも呼ばれていたそうです。
家康入府時には、応急修理がなされた程度で、その後二代秀忠、三代家光の時代に拡大整備され、東西5.5㎞、南北4㎞、周囲14㎞と大城郭が完成したのは寛永13年(1636)、家光の治世であるといわれています。


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平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、江戸城の中心部分だった本丸のあたりにあったそうです。
当時関東地方に勢力があったのが扇谷(おうぎがやつ)上杉氏でした。
と言っても、この扇谷上杉氏はよく知られている戦国武将・上杉謙信とは近い関係ではなく、分家のような存在です。その扇谷上杉氏の家臣だった太田道灌(おおたどうかん)こそ、江戸城を造った人です。
そして城は扇谷上杉氏のものになりましたが、新しい勢力が出てきて、城は彼らの手を離れます。次の主は、北条早雲を筆頭とした北条氏でした。


本丸跡の北西部には天守台石垣(天守閣の台座)が現在も残る。家光時代に完成し、明暦の大火で焼失した。復興に着手し天守台を築いたものの、天守閣は日常的な使い道はこれといってない「天守はもはや無用の長物」だという保科正之の提言で、江戸城に天守が再建されることはありませんでした。

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【皇居の謎】

明治維新後1868年に明治天皇が入城したことにはじまり、それ以前は、平安遷都以来1000年あまりにわたって京都御所が皇居であった。
東京遷都後、江戸城は「東京城」、「皇城」と改称され、明治宮殿完成後に「宮城」を公称と定め、第2次大戦後は「宮城」という名称が廃止され、以来一般に「皇居」と称される。


皇居は115万平方メートルの広さを誇り、8つの門があります。
現在「皇居」と呼ばれているエリアは、「吹上御苑~西の丸」「皇居東御苑」「皇居外苑」からなる。
西側に位置する「吹上御苑」には、天皇・皇后の住まいである吹上御所、宮中三殿、生物学御研究所などがあり、
江戸城時代は西の丸御殿があったエリア「西の丸」には、現在、宮殿や宮内庁庁舎などがある。
「東御苑」は、かつて江戸城の中心、幕府の中枢であった本丸や二の丸、三の丸があったエリアである。大奥は、本丸御殿、二の丸御殿の北側に存在していた。

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by kfujiken2 | 2019-03-03 14:58 | 歴史 | Comments(0)

飛鳥時代(7世紀)の代表的な遺跡【大日古墳】


防府市高井大日の佐波川右岸、西目山山麓の標高約25mの丘陵上にある古墳時代の前方後円墳。全長約45m、前方部の幅約20m、後円部の径約19m。後円部に横穴式石室がある。
石室は花崗岩の割石で作られ、棺を納めておく玄室と、玄室と外部をつなぐ通路に当たる長さ約9.3mの羨道(せんどう)とからなる。玄室は奥行き3.6m、幅2.1m、高さ2.5mで、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式屋形石棺が据えられている。その形状から、7世紀中葉の終末期古墳の一つと考えられている。山口県で出土した家形石棺は例が少なく、考古学上も貴重である。
1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。江戸時代に発掘されたが、すでに副葬品は残っていなかったという。被葬者については、大内氏の祖とされる琳聖太子(りんしょうたいし)の墓とする伝承や、当地の県主(あがたぬし)であった土師連猪手(はじのむらじいて)とする説があるが、定かではない。


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所在地・・・防府市高井大日の佐波川右岸

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公道から古墳までの通路

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古墳の入口


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玄室(棺を納めておく室)と外部をつなぐ通路(約9.3mの羨道(せんどう))


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県内で唯一の刳抜(くりぬき)式家形石棺


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◆ 琳聖太子 : 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は周防で最有力の実力者となり、大内介と名乗り以降歴代の当主もこれを世襲した。しかし 琳聖太子という人物名が 、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く 、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり 真偽は謎である。
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている 。



◆ 土師連猪手 : 飛鳥時代の人物。埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。周防国府の役人の中にも名前が見られ、松崎天神をつくったのも土師氏です。
by kfujiken2 | 2019-01-22 09:24 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その3


石段を登り切ると正面に防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門があり、下を潜ると拝殿が目の前に現れます。拝殿に参拝し左手に進むと、たくさんの絵馬が飾られてある奉納所があります。ひとつひとつ見てみると、多くが志望校への合格祈願です。これから受験シーズンにかけて、多くの受験生が学問の神さま・道真公のもとに合格祈願にやってきます。
さらに左に「春風楼」がある。一見能楽堂か展望台のように見えますが、神事をする際の待合所というか、参拝客が休憩する場所のようなもので、古くは「通夜堂」といい、「参籠所」「お籠堂」とも呼ばれた。
客殿背後の園に7代藩主毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑があります。


◆ 防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門

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◆ 合格祈願の絵馬
1年間に奉納された絵馬は約4万枚位あるらしいです。12月25日の「絵馬焼納神事」で焼かれるそうです。

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◆ 春風楼

十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始の儀を行ったが、資金調達中、天保二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。


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春風楼足元・・・五重塔の基礎部分
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◆ 7代藩主毛利重就(しげたか)公像
萩藩の歴代藩主の中で、最も防府と結びつきが大きいのが、7代藩主の毛利重就です。又、輝元・第13代藩主の敬親と同様に名君と言われた一人でもありました。
ふくれあがった財政赤字を立て直すために、まず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させた。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。


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◆ 野村望東尼(ぼうとうに)の碑
野村望東尼は、福岡藩士の三女として生まれ勤王活動に身を投じる。福岡の平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
高杉晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。高杉晋作の末期の水を取った人とも言われています。


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by kfujiken2 | 2019-01-20 09:43 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その2

長い石段を上っていく途中、左手にあるのが大専坊(だいせんぼう)跡といって毛利の時代には本陣になった所です。右手に茶室芳松庵と暁天楼があります。たかが57段の石段が、運動不足の我々にはされど57段の石段でキツいです。


◆ 毛利元就の参謀本部だった ~大専坊跡~

運良く特別公開される日に巡りあい、大専坊を観ることが出来ました。
明治元年(1868)まで大専坊・円楽坊(えんらくぼう)など9つの社坊(しゃぼう)が参道をはさんで並んでおり、酒垂山満福寺(さかたりさんまんぷくじ)と総称されていた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であった。また、防府天満宮の神事を主宰するなど神社経営にも大きな役割を果たしてきた。
しかし、明治元年の神仏分離令によってすべての社坊が廃され、民間に払い下げられた。この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となりました。また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となりました。昭和63年(1988)に県指定の史跡となりました。


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先ずは入門から見て頂きましょう

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門から見た建物の玄関

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玄関を上がり左側の間取りです

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東側にガラス戸があり、昔は廊下だったのであろう??? 
幅が一間あります


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廊下の欄間になるのでしょうか? 大内氏の家紋の菊大内菱が彫刻されています


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一番奥の間です

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◆ 維新の志士たちの息づかいが感じられる場所 ~暁天楼(ぎょうてんろう)~


二階建ての古めかしい建物を「暁天楼」といいます。もとは天満宮門前宮市にあった宿「藤村屋」の離れだったもので、藤村屋の廃業にあたり天満宮に寄贈され、のち老朽化に伴い解体されましたが、昭和59年(1984)に藤村屋の子孫のかたにより現在の場所に絵図面にしたがって復元されました。
当主は勤皇の志が篤く、また宿のもてなしがよかったためか、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、維新の志士たちもしばしば利用したそうです。
建物の1階は漬物小屋として使われていたため土間で、2階(通常は閉鎖)は6畳間が2間あり、板張りの広縁が2間を囲む形で2方向に巡らされています。この2階に上がる階段は実は隠し階段になっており、維新の志士たちが、いざという場合には息をひそめて隠れていることのできるこの場所で密談をしたのだろうという想像が現実味を帯びてきます。
復元前の2階の床柱には刀傷がついていたそうですし、戸袋には墨で勢いよく書かれた落書きがあり、これは坂本龍馬の手によると言われています。また、「暁天楼」の名前は、旧来「適義楼」と呼ばれていたものを、訪れた山県有朋らが改めたといいます。

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「暁天楼」の全景です

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隠し階段が見える東側からの光景です

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◆ 毛利の戦いや幕末の志士達を目撃した証人 ~防府天満宮御神木~

巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
樹齢が推定800年、幹周が5.6m 高さ27.5m 葉張36mの巨木です。
境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が三本ありますが、その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広げる太枝は大地を覆い、根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。


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話が長くなるので「今日は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門をくぐり、拝殿に参拝を済ませ左手にある「春風楼」から説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-17 11:16 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮

防府天満宮の暁天楼(ぎょうてんろう)と大専坊跡(だいせんぼうあと)が見たく、初詣を兼ねて参拝に行って来ました。何度も訪れている防府天満宮ですが、何時もは神社の裏側の駐車場を利用するので、表参道の石段を登って参拝したことがありませんでした。今回は初詣の時期が少しずれているので、多少空いていると思い表参道から参拝しました。

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まちの駅「うめてらす」を左に見ながら、表参道の石鳥居をくぐり萩狛犬さまの横を通り過ぎると、表参道の中段でチェーンソーアートのえと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」が迎えてくれました。

表参道の石鳥居

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寛永六年(一六二九)に初代藩主毛利秀就の寄進により建立したもので、奉納年が刻まれたものでは県下最古の鳥居。柱は太く、転びが少なく円柱状で、上部においてややすぼんでいる。形式としては明神鳥居であるが、柱脚には礎盤がなく、堀立て柱形式をとる。

豪華な台座に座している萩狛犬といわれる萩で造られた狛犬

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チェーンソーアート
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えと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」

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「今宵は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は今回の探訪の本命「暁天楼と大専坊跡」を説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-15 14:16 | 歴史 | Comments(0)

降松神社と鷲頭寺の関連・・・下松の地名のルーツ



降松神社と鷲頭寺の説明に入る前に、下松に立ち寄られ下松の地名のルーツになり、鷲頭寺を開かれたとされといわれている琳聖太子について、少し説明しましょう。。。

◆ 下松の地名のルーツ

下松は昔、青柳浦と呼ばれていました。
「大内氏実録」の下松妙見縁起によると・・・
「推古天皇(女帝)の3年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、7日7夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをする人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より3年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。


◆ 降松神社と鷲頭寺の関連


大内氏の祖、琳聖太子によって開かれたとされる古刹が妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐうじゅとうじ)です。 大内氏の氏神として栄えるとともに妙見信仰発祥の宮寺といわれています。


595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山(現在の茶臼山)に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して鷲頭山(下松市河内)に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治12年維新政府の神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一別当閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当閼伽井坊だった。明治12年にあの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社(下松市吉原)から現在地(下松市中市)に移転した。ただ、興味深いのは妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆(しんぶつこんこう)形態を維持している寺社があることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。
日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。


お寺なのですが、鳥居があり民家にのめり込んでいる!  摩訶 不思議???
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仁王門に通じる参道
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「わらじ」への願い
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【わらじの功徳】
仁王様に威徳公大にして息災延命
を授け、足の弱い方、悪い方、亦腰の悪い
方は、年令と姓名を記入の上お供へ下さ
い。御利益を受けられます。

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妙見宮鷲頭寺の由来


妙見宮の略縁起

 当山妙見宮は百済国、王子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり
本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御持来の尊像にして、三国(印度、支那、
朝鮮)伝承と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代三年九月十八日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我れは北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後百済国、王子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を
修む可し、その由を国王に告げ朝廷に奏せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇五年丁己春三月二日百司百官を倶に
して周防佐波郡鞠生の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮
州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御持来の尊像を納め星祭供養
を奉修された。これが日本に於ける星祭の濫觴であります。
星霜千有余年を経、其の間幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変
り明治十二年十二月朔日。大星降臨の古蹟、現在の地 中市に尊像妙見菩薩
をはじめ多くの仏像を奉戴して遷し祀り、北辰降臨の日、十八日を縁日とし
て今日に至ったのであります。


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お寺なのですが、狛犬「阿像」と狛犬「吽像」
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種田 山頭火の句碑


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by kfujiken2 | 2019-01-10 13:28 | 歴史 | Comments(0)

明治維新に於ける歴史の変遷

大河ドラマ【西郷どん(せごどん)】も最終回の放送日が12/16(日)だそうですが、いよいよ西郷隆盛が立ち上がり『西南戦争』に突入と佳境に入って来ました。

時代区分が切り替わる時こそが歴史的転換点で、決定的な変革や戦いが行われています。都を移すという大変革で始まった奈良や平安時代、奥州合戦を経て全国統治を開始した鎌倉時代、桶狭間の戦いを経て政権を確立した安土桃山時代、関ヶ原の戦いを経て全国統治を開始した江戸時代など歴史的転換点は下剋上で成される。
歴史的転換点とは、歴史が大きく変わるターニングポイントとなる時期や出来事を指します。



【序論】

大政奉還が成立し王政復古が実行され、廃藩置県が断行され版籍奉還の実施が行われて、明治中央官制の改革は明治18年(1885年)の内閣制度発足をもってようやく安定した政治の流れの中で、西郷隆盛と大久保利通の対立が明治初期の明暗を分けた。
明治初期の政治に大きく影響を及ぼしたのが征韓論であり、征韓論をめぐって明治政府内で賛成派と反対派の遣韓論との論争が沸き起こったのが、大久保利通の強い反対にあって西郷隆盛の朝鮮派遣が中止になり、征韓論派・西郷隆盛と遣韓論(内治優先派)・大久保利通の軋轢(あつれき)が生じ始めた。


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「二条城での大政奉還図 邨田丹陵」



【明治維新に於ける歴史の詳細】


右大臣・岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、
伊藤博文、山口尚芳を副使とした総勢107名の岩倉使節団は、条約改正と海外視察を目的に1871(明治4)年、横浜港を出港。これはアメリカ合衆国、イギリス、フランス、オランダ、ロシア、イタリア、ドイツの各国を訪問するという地球をぐるりと一周する大規模な渡航です。帰国するのは1年10カ月後になります。

そんな使節団の留守を守ったのは参議の西郷隆盛(薩摩)、大隈重信(肥前)、板垣退助(土佐)です。使節団は日本を出発する際、西郷隆盛を中心とする留守政府との間で「使節団が帰国するまでは極力、新しい政策は行わない」という取り決めをしていました。


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全権大使・岩倉具視と副使・大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳の 「岩倉使節団」の主要メンバー


【征韓論政変】

留守政府はそうした約束をあっさり破り、制度改革の面では四民平等を原則とした身分制度の改革、税制度を抜本的に改革する地租改正、義務教育を原則とした学制の公布、太陽暦の採用、徴兵令の制定など外遊組との約束とは完全に真逆のことをしました。外交面においても留守政府は朝鮮王国に開国要求のために外交を持ちかけることを計画します。日本はたびたび朝鮮政府に対し、外交を求めます。しかし、朝鮮王国はこの要求を拒絶します。日本政府は、言う事を聞かない朝鮮を武力で懲らしめ、力ずくで開国させようとする意見が出ます。幕末から新政府樹立に大きく貢献した大久保利通と西郷隆盛が対立する要因となったのが征韓論です。そしてその亀裂は修復されることなく、結果としては西南戦争が起きることにつながります。

元来日本と朝鮮は、徳川幕府の時代から親しく交際を続けていた間柄でしたが、幕府がペリーの来航を始めとする諸外国の外圧に屈し、和親条約や通商条約を結んだことにより、日本と朝鮮の関係は悪化し、事実上国交が無くなりました。その頃の朝鮮は、以前の日本がそうであったように外国との交際を一切断ち切り、鎖国政策を取っていたからです。


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征韓議論図 鈴木年基作。西郷隆盛は中央に着席


【結論】

明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定するが、そんな中、外遊組がぞくぞくと帰国。岩倉具視や大久保利通、木戸孝允は「今は他国と戦争をしている場合ではない。富国強兵や殖産興業など内治を優先するべきだ」と建前論を主張するが、本音は留守政府が取り決めを破ったことに対し、大久保利通は切れたのではないかと解釈しています。強い反対にあって挫折し、西郷隆盛は政府を飛び出し帰郷します。
西郷に近い征韓論派の板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らが続いて下野した。この事件が俗にいう「明治六年の政変」です。
 不平士族の明治政府に対する不満は爆発し、佐賀の乱を発端に神風連の乱・秋月の乱・萩の乱に続き、士族反乱の最大で最後の西南戦争を勃発し、国会開設運動,自由民権運動にいたる明治前期政治を左右する出来事の発端となり、大久保利通が自ら初代内務卿(参議兼任)として実権を握り政権が確立する結果となった。



※ 佐賀の乱 : 1874年(明治7年)2月に江藤新平・島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。
佐賀の七賢人、維新の十傑と称される江藤新平は、近代日本の司法を整備した第一人者であり、その考え方や行動は正義に溢れ、尊敬の念を抱きます。

※ 神風連の乱 : 1876年(明治9年)に熊本市で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。旧肥後藩の士族太田黒伴雄(おおたぐろともお)、加屋霽堅(かやはるかた)、斎藤求三郎ら約170名によって廃刀令に反対して起こされた反乱。

※ 秋月の乱 : 明治9年(1876)10月、旧秋月藩士、宮崎車之助らが起こした不平士族の反乱。

※ 萩の乱 : 熊本県で起こった神風連の乱と、福岡県で起こった秋月の乱に呼応し、前原一誠らが1876年(明治9年)に山口県萩で起こった、明治政府に対する士族反乱の一つである。

※ 西南戦争 : 1877年(明治10年)に現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県において西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱で、明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、日本国内で最後の内戦である。



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by kfujiken2 | 2018-12-06 10:38 | 歴史 | Comments(2)


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