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長州より発信

カテゴリ:歴史( 175 )

下関を漫遊 パート②

忌宮神社を後にして、下関市立長府図書館や長府第一保育園を右に、横枕小路を左に見ながら
乃木神社・乃木旧邸へ行きました。


◆ 乃木神社
明治天皇の崩御の際に殉死した軍人・乃木希典(のぎまれすけ)を、文武両道の神として祀る
神社。1920年1月30日に創建され、学問の神様としても知られています。1859年に長府に
転居した彼は、西郷隆盛による西南の役で官軍として参戦するなど、多くの武功をあげました。
境内には、彼が幼少時代に育った家が復元されているほか、夫婦の銅像も建てられています。


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乃木大将ご夫妻の銅像

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乃木旧邸
乃木希典は、嘉永2年(1849)11月、長府藩士乃木希次の子として、江戸麻布の長府毛利藩邸に
生まれたが、安政5年(1858)、10歳のとき父とともに長府の地に帰り、16歳で萩に従学する
まで、私塾集堂場において学ぶなど、長府城下で過す。
現在保存されている乃木旧邸は大正3年(1914)、乃木記念会がそのゆかりの地に、忠実に復元
したもので、家屋の造りは、六畳と三畳の二間、押入れ、それに二坪の土間という極めて質素な
生活をしのばれせている。 また調度品等も当時を再現したもので、風呂敷包が天井につりあげて
あるなど、生活の工夫もみられて興味深い。
なお、六畳の間に相対して置かれている父、母、そして少年からなる三体の等身大木彫坐像は、
乃木大将の甥にあたり、明治から大正にかけて活躍した著名な彫刻家長谷川栄作の製作による
もので、乃木少年が、父親から訓話を受けている場面が、見事に表現されている。(掲示版より)


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◆ 長府毛利邸
1903年に、長府毛利家の第14代当主・毛利元敏公によって建てられた邸宅。明治天皇もご宿泊
され、一部の部屋は当時のまま残されています。
武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた日本庭園が魅力で、新緑や紅葉の季節になると一段
と見ごたえを増します。

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毛利元就の孫で長府藩の初代藩主・毛利 秀元

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母屋・川端玉章作の杉戸絵

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明治天皇御宿泊の間

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書院庭園

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by kfujiken2 | 2018-04-20 10:30 | 歴史 | Comments(0)

下関を漫遊

去る14・15日にかけて小雨降る中を下関・長府・小月をぶらり旅して来ました。小雨が降ると足元がうっとうしいので行動範囲が鈍ったが、6ヶ所を散策したから
ネタは十分!!!
画像も30枚以上あるので3~4回に分けてアップを予定しています。
では歩いた順にアップすることに致します・・・


◆ 忌宮神社(いりのみやじんじゃ)
西暦193年、長門国二の宮で、仲哀天皇・神宮皇后が九州の豪族熊襲を鎮圧し西国平定の折り、ここに仮皇居として豊浦宮を建て西暦200年までの7年間滞在したと言われています。

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「蚕種渡来之地」記念碑

西暦195年には、渡来人が蚕種を献上したという蚕種渡来地の碑が境内の一角にあります(シルクロード日本上陸の地)。

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横枕小路(よこまくらしょうじ)
城下町長府の乃木神社の横をまっすぐ走っている細道で、両側には薄茶色の淡い色の練塀がまっすぐに伸びています。

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by kfujiken2 | 2018-04-18 10:55 | 歴史 | Comments(0)

先日、【弾正糸桜】の説明を致しましたが、
その際「江良弾正」や【江良氏居館跡】に少し触れましたことを覚えておられますか?


今日は「江良弾正」という人物や【江良氏居館跡】のことをお話しましょう!
これは「江良弾正」という人物や【江良氏居館跡】のことが知りたく、周南市鹿野町鹿野
総合支所の産業土木課を訪ね、色々記載のある資料を調べて頂きコピー等を頂きました。


先ず【江良氏居館跡】の特長・遺構を説明をしましょう。
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現存しているのが、一部の土塁と一部の石垣です。

現存している土塁
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現存している石垣
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江良氏居館跡推定復元図を見ながら、画像と比べながら推測して下さい。

※ 土塁(どるい)とは: 敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた土製の堤防状の壁である。

※ 空堀とは: 水の張られていない堀のことを空堀(からぼり)という。
        掘った結果生じる土は、多くの場合、堀の脇に積み上げて土塁としている。
        近世の平地の城には水堀があるが、中世の城の堀はほとんどが空堀である。

※ 虎口(こぐち): 中世以降の城郭における出入り口のこと

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by kfujiken2 | 2018-04-13 17:05 | 歴史 | Comments(0)

1631年~1648年までの17年間の短期間しか存在しなかった【短命の下松藩】や跡地の
痕跡が全くない【幻の下松藩邸】と題して色々調べて着ましたが、資料がなく真実や明らかな
部分が全く分からず苦慮していましたが、徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆が清安院という乳母に
育てられたことは確かであり、且つ下松市大谷墓地に法名が(清安院殿光誉栄信大姉)という
立派なお墓が残っており、その乳母が徳山毛利家の家老の息女だったとのことのようです。
ではその家老が誰だったか? その息女が誰だったか、又名前は何と言われたかと言う事が
詳しく分かっていなかったが、色々調べておりましたらやっと見つけました。


徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺

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徳山毛利藩初代藩主・毛利就隆の乳母・清安院のお墓

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下松藩から徳山藩に移行した経緯を説明しましょう!!!

下松藩(徳山藩)は、「毛利輝元」の次男「毛利就隆」(萩藩初代藩主「毛利秀就」の弟)が、
元和3年(1617年)に3万石を分与されたことから立藩しました。寛永2年(1625年)の藩内
検地では、実質的な石高は4万石余りであったといわれています。実際に幕府より藩として
正式に認められたのは、寛永11年(1634年)で藩主の「毛利就隆」は、江戸に滞在することが
ほとんどで、実際に下松に入ったのは寛永15年(1638年)でした。
藩政は、長州藩とほとんど同じで、家臣団の多くは「関ヶ原の戦い」後に浪人した者や本家の
藩士における三男などの取立てにより編成されました。
慶安3年(1650年)に就隆は、下松は交通に適していないという理由から藩庁を徳山に移しま
した。「徳山」は「野上」と呼ばれていましたが、就隆が徳山と改称しました。


さて本題の家老と乳母の名前ですが・・・

奈古屋 元忠(なごや もとただ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の人物で
下松藩家老。
慶長7年(1602年)に毛利輝元の次男・毛利就隆が生まれると奈古屋 元忠の
妹・清安院(実名・あつ。吉見氏家臣・後藤勘左衛門の妻)が就隆の乳母を務め
たが、元忠も慶長9年(1604年)11月に就隆が萩城に移った際に福間元道や
榎本五郎左衛門と共に御抱守(養育係)を命じられた。

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by kfujiken2 | 2018-03-29 15:02 | 歴史 | Comments(0)

周南市慶万町にある周南市長公舎は、大正15年に海軍燃料廠の廠長官舎
として建てられ、昭和20年の終戦を迎えるまで歴代の廠長が住まわれて
いました。二度にわたる徳山大空襲を免れたこの木造住宅は、戦後、徳山市
が払下げを受け、市長公舎として使用してきました。
平成19年度、市長公舎が本市の歴史を語る上で欠かせない建物であること
から、市民の貴重な財産として後世に引き継ぐとともに、優れた建造物の積極的かつ有効利用を目的に、建物が建てられて以来、初めての大掛かりな改修工事を実施いたしました。
市長公舎は、洋館部分と和館部分を併せ持つ、大正時代を代表する和洋折衷の木造住宅であり、建物のいたるところに様々な特徴や工夫が施され、当時の暮らしや時代の面影、趣きを見ることができます。


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敷地の正面に洋風の門とロータリー(車寄せ)が設けられ、表側に洋館、その後方に和館が続いています。

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上の平面図をご覧になれば分かると思いますが、洋館は、応接間、玄関、便所などによって構成されています。
外観の切妻屋根の妻壁に見られるイギリスのチューダー様式のハーフテンバーと玄関ポーチの円柱が特徴的です。ポーチの屋根を支えるトスカーナ式の円柱には、徳山産の御影石が使用されており、当時としては廠長官舎にふさわしい玄関構えとなっています。


切妻屋根の妻壁に見られるイギリスのチューダー様式のハーフテンバー
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※ チューダー様式: 15世紀終わりから17世紀初めにかけてのイギリスで、ゴシックデザインを少しずつ変化させて生まれたスタイル

※ ハーフティンバー: ゴシック様式は主に教会やお城などで使われたデザインで、柱や梁、筋交いなど木の構造材を外側にむき出しにし、その間を漆喰やレンガで埋めた、特徴のある外観でよく知られ、半分は材木で半分は漆喰やレンガが見えることから、この名で呼ばれているようです。


玄関ポーチの屋根を支えるトスカーナ式の円柱には、徳山産の御影石が使用されております。
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※ トスカーナ式: エトルリア建築に由来したもので、柱は太くて短く、溝彫りはなく、礎盤の上に立つ。ルネサンス以降にも多く用いられた。  


応接間の特徴

高い天井は、格式の高い折上げ格天井で、内壁は木摺下地の白漆喰壁です。
天井板、腰板、ドアなどにはベニヤ(薄板)が用いられています。
正面と南側には、二連の上げ下げまどが設けられています。

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和館部分の特徴


洋館と最後部にある寄棟屋根の棟との中間にある繋ぎ屋の棟です。
繋ぎ屋の部分は洋館とともに、廠長官舎として使われていた当時、公的空間であり、床の間のある10畳と次室10畳からなる二間続きの座敷があり、つまりこの和館は生活の場ではなく、お客様をもてなした部屋です。廠長官の家族の生活の場は、最後部にある寄棟屋根の棟です。
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南側廊下の特徴


縁側の長い丸太二本をそのまま使った軒桁は、現在は大変貴重なものとなっています。
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水がない瓢箪型の池があるお庭とお庭の一角にあった防空壕を埋めた跡地とのことです。

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by kfujiken2 | 2018-03-21 17:11 | 歴史 | Comments(0)

忘れられがちな山口県東部で維新を推進するために重要な役割を果たした、明治維新胎動の地の一つ、柳井市遠崎の妙円寺に月性さんを訪ねました。

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柳井市遠崎にある浄土真宗の「妙円寺」に生まれた僧月性は、天保2年、
15歳を迎えた月性は4年余り、九州の豊前の恒遠醒窓(つねとお せいそう)
のもとで詩文を学び、優れた詩人としての基礎をつくりました。天保14年、
京阪遊学に出郷するに際して作った「男児立志の詩」は有名で、他にも
多くの傑作を残し生涯に作った漢詩は千篇をこえるといわれています。
遊学中に海防の必要を感じ、帰郷後は私塾「清狂草堂」を開塾。
「西の松下村塾、東の清狂草堂」と並び称されました。海防の急を
いち早く唱えたことから、月性は「海防僧」と呼ばれるようになり、
吉田松陰とも交流をあったとされています。

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「清狂草堂」は六畳、四畳半二間の茅葺の建物である。 門下生に
奥州鎮撫使参謀となった世良修蔵や3代目奇兵隊総督となった赤祢武人、
本願寺の重鎮となった大州鉄然、諸隊の脱隊騒動の首謀者とされる
大楽源太郎ら多数の人材がいた。
阿月の「克己堂」や萩の「松下村塾」の弟子との交流も行われていました。
月性が萩を訪れたとき、吉田松陰は松下村塾を休講にして塾生を聴講
させたとも言われています。


【清狂草堂の六畳と四畳半の部屋】
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【月性展示館】

幕末の海防僧「月性」に関する貴重な資料が収められた資料館です。
久坂玄瑞の兄の久坂玄機と月性は莫逆の友ともいえる仲だった。
月性は剣舞がお得意で、酔いが回り、興に乗ると、月性は剣舞を舞う
こともあった。その絵が妙円寺に残っている。玄機の刀を借りたのだそうです。


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月性展示館の内部
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三条実美の揮毫による扁額と田能村直入が清狂草堂の全景を描いた扁額
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月性の肖像画として有名な 「月性剣舞の図」は、 清狂草堂を訪れた福岡の林道一が離別の際に書いて贈ったものです。
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by kfujiken2 | 2018-03-02 10:38 | 歴史 | Comments(0)

代表される志士たちを紹介しましょう・・・

● 浦 靱負(うら ゆきえ)

長州藩寄組・国司氏の当主で長州藩家老の一人として重用されていた国司
就孝(国司信濃)の次男として生まれる。成長後、同じく長州藩寄組で阿月
領主浦氏の家督を継ぎ、秋良敦之助を登用し家政を改革した。天保13年
(1842年)に領内に学問所である克己堂を創立した。弘化四年家老職に
任ぜられて江戸当役となった。嘉永六年米使の来航に藩兵を率いて
大森羽田を警備した。安政五年当職に転じ、万延元年辞職、文久二年命を
受けて兵庫警備の兵を督した。同年四月に上京して皇居護衛の任に当たり、
八月世子定広の奉勅東下に従い、これを補佐して江戸に行った。同三年
加判役となったが、その冬一切の職を辞して領地阿月に帰郷した。元治元年の
禁門の変後も革新派の黒幕として藩論回復に尽くした。


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● 秋良敦之助貞温 (あきら あつのすけさだあつ)

文化8年9月4日生まれ。萩藩寄組家老浦家の家臣。藩校明倫館でまなぶ。
天保6年藩の加判役公用人を辞して浦家の財政改革にたずさわる。幕末には
尊攘運動にかかわり,海防策を講じた。維新後は教部省にはいり鎌倉宮や
大和神社の宮司をつとめた。製塩事業家の秋良貞臣は嫡男にあたり、同所で
生まれている。


※ 秋良貞臣( あきら さだおみ)は、下松市の笠戸島の藩有林内で石灰石を最初に発見したので知られています。
維新後は塩業をはじめ諸産業の発展に努めて、父秋良敦之助と
共に諸国の志士と交わって国事に奔走しながら、同時に物産会所を
創設し、晩年は製塩・塩経営に専念し、明治12年防長塩田社長。
大日本塩業同盟会委員長などをつとめた。


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● 白井小助(しらい こすけ)

儒学者の長男として文政9年(1826)萩市に生まれました。26歳の頃、柳井市阿月に移住し、浦靭負の家臣となりました。江戸に行き、佐久間象山に砲術を学びましたが、このとき吉田松陰と起居をともにし、二人は親友となりました。
後に浦家の学塾「克己堂」の学頭となりました。第二奇兵隊の創設に尽力し、
四境の役大島口戦で総督として活躍、また戊辰戦争では討幕軍参謀として活躍しました。維新後は、明治維新のポストを断り、平生町田布路木に私塾「飯山塾」を開いて子弟の教育に務めました。


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● 芥川義天(あくたがわ ぎてん)

円覚寺の門前に明治維新第二奇兵隊総書記芥川義天出生之寺の石碑が建てられている。円覚寺の住職芥川義天は克己堂で学んだ後、第二奇兵隊総書記として活躍した。秋良敦之助の妹の子として円覚寺に生まれた。

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貝塚伊吹の壁で囲まれた駐車場は圧巻です。



赤祢武人・世良修蔵は、後日紹介します。
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by kfujiken2 | 2018-02-22 17:03 | 歴史 | Comments(0)

明治改元から150年を迎えるに当たり、陽の目を見ることが少なかった山口県東部・維新胎動の地 柳井阿月における、長州藩執政 浦靭負(うら ゆきえ)が創立した、学問所である郷校・克己堂(こっきどう)が注目され始めだした。不思議なのは南北2Km足らずの小さい部落に、郷校があったから優秀な人を多く輩出したのは納得できます。

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● 克己堂 (こっきどう)
阿月の領主であった浦靭負(うらゆきえ)が、家老秋良敦之助の発案により、
天保13年(1842)に家臣の子弟教育のために創建した学塾が「克己堂」です。克己堂からは、アメリカ軍艦が浦賀に来航したのを機に、家臣以外でも入学が許されるようになり、白井小助、赤祢武人、世良修蔵など多くの維新の志士が輩出しました。浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門)は、そのままの姿で今も残され、市指定文化財の史跡となっています。 元阿月小学校に残る藤棚の樹齢は300年以上といわれる巨木で、浦氏の庭にあったものといわれ、5月上旬に淡い紫色の長い房をつけて満開となります。

浦氏居館旧表門(通称 克己堂の門

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阿月維新志士の碑

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碑文

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浦 靱負像(うら ゆきえ)


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画像が多くなりましたので、明日に続く・・・

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by kfujiken2 | 2018-02-20 12:19 | 歴史 | Comments(0)

幕末の志士の中には、高杉晋作のように有名な人物がいる一方で、
赤禰武人のように光の当たらない人物もおります。


※ 赤禰武人(あかね たけと)の容貌と経歴

すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。月性の紹介で浦靱負(うら ゆきえ)の郷校である克己堂(こっきどう)で学ぶ。
文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。
ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。
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※ 高杉晋作に振り回されての対立、その悲劇の真相とは?

高杉晋作と第三代奇兵隊総督赤禰武人の歯車が狂いだしたのが、高杉晋作が功山寺挙兵した大田・絵堂の戦いからである。動と静の性格の違いから始まったと言えます。

高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。
組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで、交渉、交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。


赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派が俗論派を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。
また赤禰武人も「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、
奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です!
高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。
しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。
長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。
高杉晋作らの正義派が実権を握った事で、藩政はここから討幕へと舵を切っていくことになる。
高杉晋作がクーデターを起こした事で、赤禰武人の居場所は無くなっていた。
和平実現のために動いていた事で二重スパイ疑惑をかけられたのだった。
仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り哀れな最期を迎えることになります。赤禰武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではなく、しかし高杉晋作たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として誤解され、追われる身になってしまう。
潜伏中のところを長州藩士槇村半九郎に捕縛される。

一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。
『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

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by kfujiken2 | 2018-02-08 11:21 | 歴史 | Comments(0)

84年にわたり所在が不明だった雪舟の水墨画「倣夏珪(ほうかけい)山水図」が、
発見され山口県立美術館にて特別展が開催され盛り上がりましたが・・・
光市に立野出身の難波覃庵(なんばたんあん)という異色の南画家がいた。


萩藩の寄組清水家に譜代の家臣として40数年仕え、幕末、明治維新には国事にも奔走する。
61才で隠居し、青年のような気宇をもって本格的に南画に取り組み、実に多くの秀作を残す。
京都その他の文人墨客との交友も多く、余技とはいえその画は格調高く、2度の天覧の栄に浴した。
七溪、楽如、更狂などと号す。光市三大日本画家と言われる画家の一人。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする
名家です。難波覃庵は地元に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた事で
知られている。


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光市文化センター・難波覃庵の作品
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【向山文庫跡は明治の私立図書館跡】
光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。
向山文庫は難波覃庵が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館と
なりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。現在も残る土蔵の姿に、
当時の様子を見ることができます。文庫跡の近くには、難波覃庵の顕彰碑も建てられています。

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by kfujiken2 | 2018-01-10 13:27 | 歴史 | Comments(0)