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【21世紀フラワーファーム】

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~



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変わりつつある徳山大学・・・その一環として「地域文化講座」

徳山大学の紙矢健治教授が協力し、2016年から取材して来られたテーマの番組・「明治の運命を背負った男 児玉源太郎」が4月29日(日)山口放送で放映されその番組を観て、徳山大学に興味を持ち、徳山大学のHPを見て「地域文化講座」を知りました。

前期(4月~7月)は月に3~5回、金曜日の13:10~14:40に開催されています。皆さんもよくご存知の毛利博物館顧問の小山良昌先生や萩博物館特別学芸員の一坂太郎先生が講師です。本日は「与謝野鉄幹と徳山・鉄幹とその周辺の人々」の演題で、周南市美術博物館学芸員の森重祥子先生が講師です。是非拝聴したいのだが、線状降水帯が通過するとかで大雨警報・竜巻注意報が出ているので、行こうか行くまいか思案しています。

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◆ 「地域文化講座」開催中(東ソー株式会社寄付講座)

東ソー株式会社のご好意による寄付講座「地域文化講座」が開催されています。地域の魅力をもっと知りたい、学びたい市民の皆様に学習機会を提供されています。

◆ 講義の概要

「私たちの住む『周南』っていったい何だろう?」その解答を「歴史・文化・地理」的な側面から探っていくことを目的に講座が進められています。 中世戦国時代~明治維新の歴史的側面や、周南地域の地理的な側面、周南地域の文化遺産である詩人・作詞家などの文化人の生い立ち、考え方、作品の創作の背景などを、それぞれの専門家から講演していただきます。

◆ 変わりつつある徳山大学
大学は「高等教育」をそこで学ぶ学生に提供する教育機関と考えられる。研究や社会貢献も重要な使命であるが、「高等教育」は大学及び専門学校等の教育機関のみが行える活動であり、研究や社会貢献は広く他の機関でも十分行われている活動であると考えられていた。

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その大学が少子高齢化、グローバル化、国家財政の悪化などを背景に、社会の期待に豊かに応えることができる、存在意義のある、活力に富む大学づくりを目指した改革が必要です。大学という存在が社会の中で大きく変化していく過渡期にあるためと考えられ、学部等の新設の動きは新たな大学像を模索する動きの一つと考えられる。


日本経済が高度経済成長の波に乗って著しい発展を遂げた後、昭和44(1969)年の第二次総合開発計画において日本列島改造論が提案され、「地方の時代」という言葉が用いられるようになりました。徳山大学は、そのような時代の流れの中、昭和46(1971)年、地方の時代にふさわしい文化都市の建設という地域社会の願いを背景に、当時の徳山市長の要請に基づく地元自治体の協力によって設立され、地域の企業の財政支援を受けつつその歩みのスタートを切りました。公設民営型大学の先駆けとして開学した徳山大学は、"地域に貢献できる人材の育成"をめざして、地域のみなさまとともに地域問題の解決に取り組むべく、研究体制の充実と教育の改革を進めています。
主体的な学びの場を「地域課題」の中に見出し、地域で頑張る学生たちの姿を市民や企業など広く社会が実感・共有する状況を実現することによって、徳山大学の学びへの信頼感を高め、地域コミュニティの"拠点"としての大学づくりを進めています。


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by kfujiken2 | 2018-06-29 10:41 | 未分類 | Comments(0)

長岡外史誕生の秘話&幼少期・青年期の曖昧な説明が多い!!!

 長岡外史は長州藩の藩校・明倫館に入り、明治11年(1878年)陸軍兵学寮入学・臨時士官生徒となり、陸軍士官学校に入学してから順風満帆の人生は公開されていますが、誕生・幼少期・青年期のことが余り説明されていない!!!

①生誕地と誕生  ②幼少期  ③青年期 3つの疑問を検証してみましょう

1.先ず生誕地と誕生の秘話を検証しましょう・・・

 昨年9月に下松地方史研究会は堀トキの生家跡地に、「長岡外史生誕之地」という記念碑を建てたけれど、 柳井市天神並木通りの野村家跡地に「日本航空界と スキー普及の恩人 長岡外史 ここに生まる」と刻まれた石碑が立っています。朝日新聞DIGITALでは、「航空の父」生誕地どちら? 下松と柳井に石碑 というタイトルで記事があります。

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日本の航空機とスキーの普及に尽力した長岡外史(がいし、1856~1933)を「ふるさとの偉人」として広めようと、下松地方史研究会(田村悌夫〈やすお〉会長、175人)が今月、下松市内に生誕碑を建立した。ただ、同様の生誕碑は40年ほど前から柳井市にもある。本当はどっちで生まれたのだろうか?
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柳井市天神並木通りの長岡外史の生誕の石碑
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 徳山市栗屋村の庄屋・温品良左衛門次男である温品謙吉(小方謙九郎)と、隣村末武村「堀家」の堀トキとの間に一子をもうけた。 その一子が長岡外史である。しかし、堀トキは外史を妊娠中に柳井の野村家に嫁ぐ。月足らずで忠蔵(外史)を誕生、産後すぐに離縁される。忠蔵は生まれるとすぐ母親・トキから引き離され、その上、父親の顔も知らないまま、トキの伯母 梅子が嫁いだ守田彦右衛門(光市)に預けられるという、数奇な運命を背負って生きなければならなかった。
分からないのは、何故愛し合っていた温品謙吉と堀トキは結婚をしなかったのか? お互い農民という身分ながら庄屋の地位だったので身分違いはなく、問題というか壁はなかったと思うのですが・・・

※ 長岡外史のウィキペディアでは、父は大庄屋・堀三右衛門と記載がされていますが、登記がどんなになっているか知りませんが、「ゲスのかんぐり」と思われても仕方ないのですが、母の堀トキさんが独身の身であるゆえ出生届をする際、母親を筆頭者とする戸籍を新たに作る必要があるので、面倒だし周りを気にするあまり、自分の父親・堀三右衛門の子供として出生届を提出したのではないでしょうか?

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2.次に幼少期時代です。

 物心のつく年頃ともなると、手の付けられないほどのガキ大将に育ち、近所の人から守田の悪童といわれて成長した。それがもとで、8歳になるとトキの実家である末武村の堀家へ帰され、花岡にある寺子屋(石田塾)で漢学と和算を学んだ。師の石田圭三先生の言うことは不思議と聞いていたようです。
 忠蔵の実家・下の堀家は大庄屋、花岡勘場の勘場役人を務めていたが、父なし子としての運命を背負っている忠蔵のここでの生活は、決して恵まれてはいなかった。いつも孤独のなかで堪え忍ぶ一匹狼として生きるほか無かった。
 1867年(慶応3年)11歳の時、堀トキの伯父 小川文右衛門の媒介で、萩藩士の長岡弥九郎(のちの南陽)の養子になり萩に移ります。長岡弥九郎は萩藩士寄組・井原主計の家臣で、主君井原主計から昱輔(長岡昱輔源護朝)という名をもらって武士となり、門田塾で書画や茶道を学ぶ。だが子供心に描いた武士は昱輔の考えと違い、元来は百姓の子、長岡家といっても身分の低い陪臣ということもあって、塾に通う友達からは仲間外れにされることがしばしばで、この口惜しさはじっと耐えざるしかなかった。長じて名をなしたが不遇ともいえる父母の愛を知らない幼少期であった。


3.青年期の動向です。

 世は明治となって時代は変わり、「士農工商」制度が廃止されて四民平等となった。1870年(明治3年)14歳になった昱輔は、山口明倫館の文学寮小学舎に寄宿して勉強。ある日「日本外史」を暗誦しているところを旧藩主・毛利元徳公に認められて外史という名をおくられ長岡外史と改める。
時代が外史に活動の場を与えた。
明治8年世は正に維新の風雲時代。19歳の多感な外史は郷党である長州人の活躍をよそ目に見て、功名心に燃えて断りもなく家を出た。偶然臨時陸軍士官生徒を募集中というのを知り応募し、陸軍士官学校に入学た。


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by kfujiken2 | 2018-06-22 10:47 | 歴史 | Comments(0)

多種多様な形式の庭園が揃っている漢陽寺

漢陽寺の庭園は、本堂及び書院を中心として、その四面に作庭されています。作庭の設計・指導は、日本庭園の権威、故重森三玲氏で、のべ10年の歳月をかけて完成しました。本堂裏側にある、潮音洞とよばれる水を引き込むトンネルからの豊富な水を利用した、流水及び池泉形式と枯山水庭園の組み合わせで様々な時代形式の庭園が作庭されています。三玲氏の作で、一つの寺院にこれほど多種多様な形式の庭園が揃っているところは珍しく、日本庭園の歴史が一覧できる、貴重な庭園となっています。

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城壁を感じらす白塀です。

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漢陽寺の「山門」

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参道左側にある「鏡池」の元気のいい鯉達です。

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さて、ここからが本番の庭園の紹介です。参道右手にあります。

◆ 曹源一滴(そうげんいってき)の庭 (桃山時代様式の庭園)

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北宋画の代表的な画家、玉澗(ぎょくかん)が創作した山水画の画風を日本庭園の様式に取り入れたことから玉澗式と呼ばれています。中央部の枯滝上部に高く石橋を架け、その下に鶴亀式の石組みを設け、上部の立石を蓬莱山にみせた、北宋画を思わせる構成となっています。


◆ 九山八海(くせんはっかい)の庭(書院東部・鎌倉時代様式の庭園)

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九山八海とは、仏教における宇宙観のことで、この世の中心には宇宙空間をも超えるような孤高な山があり、これを須弥山と名付け、その山の周囲を八つの山と八つの海が囲んでいる様を言っています。山畔下に築山を造り、鎌倉時代にみられる立石を中央に組み須弥山に見たてた、力強い豪快な庭園です。


◆ 蓬莱山(ほうらいさん)の池園(書院裏・鎌倉時代様式の庭園)

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漢陽寺北部の山裾を利用し苔地の築山を造り、潮音洞の水を分流させた流水式の池庭となっています。 石組みは蓬莱山の手法を用い、鎌倉期を思わせる力強い構成となっています。


◆ 地蔵遊化(じぞうゆうげ)の庭(中庭・平安時代様式)


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中心から同心円が描かれているので石の配置がわかりやすいです。地蔵菩薩が子供と遊戯する様を平安様式の石組みによって表現したものです。枯山水の様式を用いながら、動的な表現を狙いとしています。また、四方のどこからでも眺めることが出来る珍しい庭園です。


潮音洞

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本堂裏山の潮音洞は、山口県指定文化財である。これは、1654年(承応3年)に、時の代官であった岩崎想左衛門重友が、鹿野村一帯の繁栄のために、錦川上流の水を引くために造った導水路です。本流からの水路200m、裏山90mのトンネルを経ての清らかな水が、300年以上もこの地を潤しています。


◆ 曲水の庭(本堂前庭・平安時代様式遣水形式の曲水庭園)

山門をバックに西側から東側の眺め


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法堂をバックに東川から西側の眺め

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◆ 本堂内部


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by kfujiken2 | 2018-06-17 13:32 | 風景 | Comments(0)

森林セラピーを求め「重源の郷」へ

「重源の郷」とは

平安末期、東大寺再建に尽くした重源上人のテーマパークです。
1998年(平成10年)4月に開園した体験交流公園で、天然の地形を生かして、昔ながらの山村風景を再現しており四季の花に応じてイベントが開催されたり、工房では藍染・機織り・紙漉きなど伝統的な民芸細工を体験することができるのが魅力です。

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「重源の郷」の散策

重源上人の銅像が迎えてくれます。
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駐車場の側にある「歓迎館」は、郷の案内所とおみやげ処となっています。この建物の前がクラシックバス[ボンネット型バス]の発着所で、入口の「歓迎館」から郷の中心部「とくぢ浪漫」を結んでいます。

先ずは茅葺き屋根の「ふれあい工房」・藍染め工房を視察。
藍染めは名前のとおり藍色の染色を行うことで、色が褪せにくいという優れた特徴を持っています。
日本では奈良時代から続いていて、歴史江戸時代には最も多くの藍染めが行われていました。


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ふれあい工房の全景です。茅葺き屋根にコケが
生えています。

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江戸時代に庄屋さんが住んだ館を模して建てられた
「庄屋」です。

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庄屋の建物内にあるお食事処「花ひとえ」。
でっかいちょうちんスタイルの照明が風流です。

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郷に咲いている花を少しお見せしましょう。
咲き始めですが紫陽花ロードです

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ムラサキツユ草
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ナツツバキ(夏椿)

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「重源上人と徳地の深い関係」

平安時代末期(1180年)源氏と平家の戦いにおいて、平重衡(たいらのしげひら)の率いる軍勢により、東大寺が焼失しました。その後、朝廷の命で俊乗房重源上人は、再建のため大木を求めて徳地の山々を駆け巡りました。俊乗房重源上人((しゅんじょうぼう)は、61歳という高齢で『大勧進職』に任名され、東大寺再建の指揮にあたりました。
重源上人は、人々の協力のもと、この徳地地域一帯から東大寺再建のための用材を伐り出しました。伐採した木材は、陸路を人力で川岸まで運び、川の流れを利用して運びました。杣山の道づくり・橋架け、伐採や運搬は困難を極め、人夫の負傷の治療や疲労の保養など、その苦労は大変なものでした。

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by kfujiken2 | 2018-06-12 10:20 | 風景 | Comments(0)

赤禰(赤根)武人・奇兵隊総督から失墜した男の哀しい最期!!

【概 要】

 松下村塾のメンバーは、尊王攘夷を掲げて時代の渦に果敢に挑みますが、明治という新しい世を見る前に命を落としてしまう者も大勢いました。赤禰武人(あかねたけと)もその一人です。
 赤禰武人は高杉晋作と仲が良かったとされ、晋作が作った奇兵隊の3代目の総督も務めています。しかし、仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り、哀れな最期を迎えることになります。

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【赤禰武人の容貌と経歴】

 すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。
 1838(天保9)年、柱島(現 岩国市)の医師・松崎家に生まれました。遠崎村(現 柳井市)の僧・月性や萩藩重臣浦氏の郷校・克己堂に学び、1856(安政3)年には吉田松陰の松下村塾門下生に。翌年、浦氏家臣・赤禰家の養子となります。実際に赤禰武人が塾に在籍した期間は2か月程度とされていますが、その間に高杉晋作らと深い親交を結んだようです。
 やがて、京都に上り吉田松陰とも交流があった小浜藩の梅田雲浜が開いていた南望塾に入門。松陰と雲浜という、2人の師の下で学んでいます。安政の大獄で梅田雲浜が捕えられた時には一緒に投獄されてしまいますが、武人だけは釈放されています。松陰が亡くなってから、晋作が御楯組を結成するとそれに加盟し、英国公使館の焼き討ちには斬り捨て役として参加しています。


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【奇兵隊総督時代】

 高杉晋作が作った奇兵隊に参加して、高杉晋作が総督の座を辞めた後には、3代目の総督の座についています。しかし、赤禰武人は奇兵隊の総督として戦った下関での四国連合艦隊との戦いで、日本と外国の軍事力の差を痛感し、攘夷に対する無謀さを思い知り総督を辞任。総督の座を山縣狂介(有朋)に譲っています。攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと赤禰武人は考える。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。赤禰武人は高杉晋作達を裏切った訳ではなかったようですが、考え方の違いから高杉晋作との間に溝ができ、やがて居場所を無くして長州を去ってしまいます。
 赤禰武人の歴史的役割は、のちに明治政府の重鎮となった山県有朋らにより故意に抹殺されてきたらしいが、戦闘に当たっては極めて勇敢であったと云う。奇兵隊にあたって重要な存在であったことは残された史料に証されている。藩論の統一を巡り、高杉晋作らと赤禰武人の間に立場の違いから意見が合わなかったのは確かだろうが、赤禰武人は赤禰武人なりのやり方で藩を救おうと必死だったのではないだろうか?敢えて縛についたのも、どうどうと申し開きをして自分の正義を理解してもらおうとしたのではないか?


【高杉晋作との対立】

 高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。これはトップとして至極真っ当な行動でした。赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派(改革派)が俗論派(保守派)を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。また赤禰武人は「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、 奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


◆ 高杉晋作が奇兵隊の同志を前にして放った暴言

「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


 身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です! 高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
 高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。


【赤禰武人の最期】

 幕府に捕らわれの身となった赤禰武人は、第2次長州征伐の報を聞くと、長州藩を滅亡させないために説得の使者として、新撰組の近藤勇らと共に萩へ向かいます。しかし、この時も赤禰武人は幕府のスパイだと信頼してもらえず、結局萩に入ることはできず、故郷に潜伏しているところを捕縛され、長州藩に対して不義を働いたとして処刑されます。
 この時、一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。
それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。


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赤禰武人が反逆者だったとは言い難く、結果的に袂を分かった高杉晋作も、「武人の心中を洞察することができず、生命を全うさせることができなかったのは残念であった」と、病床にてその死を惜しんでいた云われている。山口に送られた赤禰武人は、一回の審問もなく、一言も弁明も許されぬまま、斬刑に処せられている。処刑後、胴体から引き出された腸は、竹に渡して鳥の餌食にされ、首は鰐石河原に晒された。
この時の長州人の武人に対する憎しみは計り知れないほど大きかったようです。たった1つのボタンの掛け違えで、英雄にも反逆者にもなってしまうのがこの時代です。幕末に散った悲運のひとりの武士の真実を、唯一、鰐石が見てきているようで何かもの悲しい。


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by kfujiken2 | 2018-06-07 09:34 | 歴史 | Comments(0)

大内文化の遺産・鰐石(わにいし)

山口市鰐石町の椹野川に架かる鰐石橋は、明治天皇行幸にあわせて、県最初の鉄の橋としてかけられている。その橋のたもとに、流れる川をただじっと見つめている大きな岩がふたつ、重なって現れる。昔、下の岩の半ばまで水がきていて、ちょうど鰐が口をあけているように見えたので、このあたりを鰐石と呼ぶようになり、そしてこのとてつもなく大きな重なった岩を鰐石の重岩と呼ぶようになったと云う。


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岩の上には松の木があり、「巌上松」と書かれている。
この重岩の御神体は恵比寿様で締縄の長さは13m50cmある。


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この重岩は古くから山口の名勝として有名で、大内時代山口に来た中国明の趙秩(ちょうちつ)は、山口十境の詩を作ったが、その一つにこの鰐石の景を詠じたものがある。
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「鰐石生雲」
禹門点額不成龍
玉石流溪任激衝
自是煙霞釣鰲處
幾重苔蘚白雲封


(鰐石に雲を生ず)
禹門に点額して竜とならず
玉立流渓激衝にまかす
自らこれ烟霧はぜを釣る処
幾重の苔鮮は白雲を封ず


詩の訳
禹門を登れない魚は龍となれず、額に傷をつけて帰る。
この鰐石の重ね岩は渓流の中に直立して流れのはげしさに任せている。
ここは霧が立ちこめて鼈(すっぽん)を釣るに適した処である。
岩に幾重にもついている苔、そして白い雲は封じられたように動かない。


※ 「禹門(うもん)」とは治水事業の際に黄河上流にある龍門山を切り開いてできた急流を指す。
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by kfujiken2 | 2018-06-02 08:28 | 歴史 | Comments(0)




山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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風に吹かれて~♪
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