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【21世紀フラワーファーム】

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~



<   2018年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

袖解橋(そでときばし)のいわれ

今から六百年ばかり前、山口で大内氏が栄えていたころ、秋穂街道は秋穂の港から山口に通じる主要街道でした。この道は別名御上使道(ごじょうしみち)とも呼ばれ、秋穂渡瀬(あいわたせ)をわたって此処から山口の町に入りました。全国各地から山口に登城した侍たちは、ここまでくると狩衣(かりぎぬ)、直垂(したたれ)の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをして山口に入りました。そこでこの橋の名を袖解橋(そでときばし)というようになりました。

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碑の歌は、明治時代の歌人田辺玄齢のものです。
「旅日地の橋の名におう袖ときて 水に姿をうつしてやみし」 (現地の説明板による)


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大内時代の山口の道路網が、どんなになっていたか詳しく知りませんが、橋といっても見受けられるモノは無く、川にかかっていたものだとは思うが!!!

※ 御上使道とは : 江戸幕府の巡見上使が通った道
※ 秋穂街道とは : 大内氏時代には舟で秋穂に着いた旅人は、秋穂浦にあった橋「髪解橋」でまず髪を解き(整え)、服装はまだ旅姿のままでこの秋穂街道を歩き始め、約5時間ほどの歩き旅で山口の入口である袖解橋に着くと、狩衣や直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをし、愈々山口の大内氏館へ向かったということらしい。

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by kfujiken2 | 2018-08-30 08:26 | 歴史 | Comments(0)

「袖解橋(そでときばし)の変」

井上馨遭難の地

元治元年(1864)9月25日、中河原の山口政事堂で開かれた御前会議で、井上馨は、幕府に謝罪しようとする保守派に対し、武力を備えて幕府に対抗する方針を主張。その後、湯田の自宅への帰路、袖解橋で保守派の壮士数名によって襲撃され、重傷を負いましたが、医師・所郁太郎の治療によって一命をとりとめました。


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※ 世外とは井上馨の号で、世俗を脱した境遇を意味する。



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井上馨を助けた・所郁太郎


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by kfujiken2 | 2018-08-26 12:23 | 歴史 | Comments(0)

山口県立美術館で開催『毛利 敬親展』

“ 明治150年記念特別展 激動の幕末 長州藩主 毛利 敬親展 ”に行って来ました。

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18歳で長州藩主を継いだ毛利敬親は、「俗論党」に配慮しつつ「正義派」の村田清風を後押しし藩政改革・財政再建に成功し長州藩は「雄藩」となった。21歳の毛利敬親は10歳の吉田松陰の御前講義に感服し弟子の礼をとったといい、脱藩事件で家名断絶に処された松蔭に10年間の諸国遊学を許し、ペリー来航後先鋭化する攘夷論に耳を傾け、密航を企てた松蔭が幕府に捕まり萩の野山獄へ投獄されると病気保養の名目で出獄させ「松下村塾」を黙認、遊学奨励や軍制改革などの諸献策を採用し、門人の木戸孝允・久坂玄瑞・高杉晋作らを取立て中央政界へ送り出した。
その生涯を追いながら、長州藩の歩みをたどる展覧会。
混乱の時代にリーダーとはどうあるべきか…。
現代にも通じる発見がありそうです。


毛利敬親の真の藩主たる姿

① 敬親の口癖『そうせい』
家臣から何か進言された時、敬親はいつもこの言葉を口にしていたと言います。つまり、『あなたの思う通りにやってみなさい』という事です。一見すると、すべて家臣に丸投げしているように思える敬親の『そうせい』。幕末を代表する多くの人材を輩出した一つの要因が『そうせい』なんです。
敬親は、立場に関わらず人材の登用を積極的に行ったと伝わっています。そんな若者たちの進言に対し、敬親は『そうせい』と彼らの意思に任せていました。つまり敬親の『そうせい』は、家臣たちが自由に考え、そして自らの意思で行動することを促しているんです。

※ 現代社会に置き換えてみましょう。
部下の仕事に手を出す上司は、一見すると優しく頼りがいのある人物に見えてしまいます。ですがそれは、部下が自分で考え行動する機会を奪っているに過ぎません。
あくまで長州藩士たちの裏方に回り、彼ら自身に行動させる。
その結果、成功すればそれは藩士たちの手柄。
一方、失敗すれば責任は藩主たる自分が背負い、進むべき道を示す!そうせい侯 毛利敬親の振る舞いは、現代社会にも通ずる上に立つ者の心得を示しているのではないでしょうか?


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② 名君 敬親の姿…責任は背負い、道を示す
幕府軍が長州に迫ってきた第一次長州征伐。
このような事態になったのは、自分の意思で行動していた藩士たちの行動が原因です。幕府軍に対抗するため、長州では会議が開かれました。が、意見を出し合う長州藩士でしたが、結論は出ず日が暮れてしまいました。完全に煮詰まった会議の場。
すると、これまで黙り込んでいた藩主 敬親が口を開きます。
「我が藩は幕府に帰順する。左様心得よ」
基本的には『そうせい』と藩士の自由意志に任せている敬親も、最後はきっちりと進むべき道を示しました。


③ 立場や年齢を気にしない藩主

立場や年齢に関わらず、有能な人物から学べることを学び吸収しようとする姿勢。吉田松陰の門下になり教えを受けた。吉田松陰は下級武士の家柄、一方の敬親は長州藩の殿様です。まして松陰先生は、敬親より11歳も年下です。
普通だったら殿様としてのプライドが邪魔して、下級武士に教えを乞うことなど出来ないはずです。

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by kfujiken2 | 2018-08-23 10:35 | 歴史 | Comments(0)

歴史の闇に埋もれた真実

強制慰安婦どころではない!終戦時蛮行の限りを尽くし凄まじかったソ連軍兵士の強姦・残虐行為・・・

第二次世界大戦敗戦とともに崩壊した「満州国」では、地獄絵図としか表現しようのないほど、飢えと暴力、そして絶望が蔓延した。孤立無援の満洲開拓団は次々と、集団自決に追い込まれていった。
そのとき、ある開拓団の男たちは、ひとつの決断を下した。現地の暴民による襲撃、ソ連兵による強姦や略奪から集団を守り、食料を分け与えてもらう代わりに、ソ連軍将校らに結婚前の乙女たちを「性接待役」として差し出したのだ。
犠牲となった「彼女たち」は、日本への引き揚げ後もこの忌まわしい記憶をずっと胸の内にとどめていたが、70年が経ち、その重い口を開いた。


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※ 「満州国」とは
満州事変の結果,大陸進出の前進基地,さらに中国革命の波及を阻止する拠点として,日本が中国東北三省および熱河省につくった傀儡国家(かいらいこっか)、中国から見れば、表向きは中華民国から独立した独立国であったが、実際には関東軍の謀略により作られた国で、つまり形式的には独立しているが、実質的には他国によって操られている政権であった。



第二次世界大戦敗北とともに、「満州国」はもろくも崩れ去る。1945年8月9日ソ連の満洲侵攻、6日後の日本の無条件降伏――。約27万人の開拓移民らは、突如、異国となった荒野に取り残された。満州国より「強制退去」を命じられる。
福岡市の博多港に139万人の日本人が命からがら引き揚げてきた。そのなかに、満州でソ連兵らから性暴力の被害に遭い、妊娠した女性たちが多く含まれていたことはあまり知られていない。引き揚げ船から海に身を投げた女性も少なくなかったという。
また、「二日市保養所」という中絶のための施設も国が関わり、秘密裏に作られた。治療の際に、医師や看護師が泣き声をあげた赤ん坊の命を奪うこともあったという。当事者の女性たちもずっと口を閉ざしてきた。

二日市保養所

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by kfujiken2 | 2018-08-14 08:26 | コラム | Comments(0)

「毛利秀就公出生の謎を解く」

「小野郷土歴史懇話会」の平山智昭氏により長州藩初代藩主・毛利秀就公出生は広島城生まれが定説となっているが、小野地区の領主・財満家の館の一角の西御殿または西御前と呼ばれる場所で毛利秀就は生まれたと異説が紹介された。


長州藩初代藩主・毛利秀就
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◇ 毛利輝元と周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)の関わり


毛利輝元は毛利氏家臣児玉元良の娘周姫(かねひめ:のち輝元側室二の丸)を一目惚れするが元良はこれを断り、許婚の野上庄(徳山)の杉元宣に嫁がす。輝元はその後も周姫のことが忘れられず、恋心を重臣の佐世石見守に打ち明ける。佐世石見守はそれを手下の杉山土佐元澄に命じ、周姫を拉致し広島に連れて来る。しかし、周姫は側室になることを拒否し続けたため、輝元は実家である児玉氏の安芸賀茂郡福富竹仁の阿良井城の領地を没収し、家族は離散の制裁をうけることになる。
更に、これに立腹した主人・杉元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により徳山・野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

児玉の実家がむごい制裁を受けていることや、夫の杉元宣の絶命を知らされた周姫は、不本意ながらも輝元の側室となることを認め広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。その後、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、正室・南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある。


毛利秀就の実父であり、関ヶ原の戦いでの西軍の総大将の毛利輝元
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◇ 長州藩初代藩主・毛利秀就誕生の経緯


日本の歴史には、毛利輝元の側室二の丸は「文禄4年10月18日広島城で嫡男秀就を儲けた」とある。秀就は後に長州藩初代の藩主となった人物である。これが毛利家の正史として世に知らされていて、これを疑う人は殆どいないでしょう。
ところが、輝元が二の丸を要害の地として小野村を選び領主財満就久に身辺保全を頼んだのは、嫉妬深い正室の南の方や長門長府藩主・秀元を取り巻く家来から殺害されることを懸念したとおもわれる。
数多家臣のいる中において、側室二の丸の隠棲と嫡子の出産問題で、頼りにして白羽の矢を当てたのが財満就久は、領民の自主性を重んじ官民が一体となって政を行い、領民からも慕われていた。特に領内にあった数多の宗派を浄土真宗一派に統一して、宗教活動を通して領民のわだかまりやもめごとの無い、和やかで平和の村を建設していた。


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◇ 「毛利秀就公出生」が長門国の小野村が事実ならば、三つの疑問があります。
① 小野村って何処にあるのか
② 何故そんな所で産まれなければならなかったか
③ 秀就という大名は何と惨めな生い立ちだ


※ 虚構説ならば・・・
輝元という中国地方120数万石の大大名の人格や人間性までも非難されることになりかねない。
次の藩主の秀就についても、藩主としての威厳と権威を保たせるためには、藩主の秀就は広島城で産まれたということにして置かなければならなかったのだと思う。これが世に言う戦争の歴史は勝った方が理屈をつくり、封建時代の歴史は、権力者の都合に合わせて権勢を奮っているという証拠であろう。



※ 平山 智昭さんの紹介
~郷土史を足で歩いて後世に伝える郷土史研究家~

※ 平山 智昭さんの著書
◆ 山口県地方史研究第104号(2010年11月)の「毛利秀就公出生の謎を解く」
◆ 二の丸残照:毛利秀就公出生の謎解き・ 戦国歴史秘話

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by kfujiken2 | 2018-08-08 15:22 | 歴史 | Comments(0)

何処の町・村にもある伝説や民話・・・「 姫山伝説」

山口盆地に優美な稜線をみせている姫山には、地元でも有名な姫山伝説があります。
2012年10月22日放送 関ジャニ∞村上信五とマツコ・デラックスがお送りする「月曜から夜ふかし」で、「山口呪われたブス問題」として紹介された「山口ブス伝説」が取り上げられたそうです。


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◆ 真偽は定かではないが、下記のような民間伝承が残っています。

その昔、殿様が山口城下の美女に恋慕をよせ、殿中に捕らえようとしたが、美女は殿様の邪意を受け入れなかったため、激怒した殿様は美女を縛って城の井戸に釣り下げ蛇責めにした。美女は自らの美しく生まれた身のつらさを、二度と後々の女性にさせぬため『この山の上から見えるかぎりの土地では、永久に容姿端麗の女性は生まれぬように』と悲しみ悶え死んだ。
それからは、この美女の呪詛がほんとうになったのか、山口には美女が生れぬことになったという。山口の女性には失礼な話です!!!

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この「 姫山伝説」のモデルが、毛利輝元と悲劇の美女は側室二の丸様のことだと言われていますから、興味が湧いてきますよね・・・



◆ 毛利輝元と二の丸様の経緯


毛利輝元は山陽山陰十ヶ国の太守として郡山城に住んでいた。
毛利氏家臣児玉元良の娘・周姫(後の二の丸殿)が自宅門前で遊んでいたところ、美少女故に通りがかった輝元の目に留まり、その後、輝元はしばしば元良の広島時代の自宅を訪問するようになる。輝元のこの行動を快く思わない元良は、天正12年(1584年)に13歳の周姫を杉元宣に嫁がせた。しかし、輝元は諦めることなく佐世元嘉らに命令し、強奪して側室とした。これに立腹した元宣は、天正17年(1589年)の大坂の豊臣秀吉への直訴を計画するが、事の重大さに気付いた小早川隆景により野上庄沖にある大島の船隠で殺害された。

不本意ながらも輝元の側室となった周姫は、広島城二の丸に住み「二の丸殿」として輝元の寵愛を受ける。なお、二の丸殿が未完成の広島城に早々に居住することとなったのは、輝元正室である南の方の嫉妬によるものとされる。その後、文禄4年10月18日(1595年11月19日)に毛利秀就、慶長4年(1599年)に竹姫、慶長7年9月3日(1602年10月17日)に就隆を出産。通説では秀就を広島城で生んだとされるが、南の方を恐れていたことから、懐妊後に密かに長門国の小野村(現・山口県宇部市)の財満就久の屋敷に匿われ、密かに出産したとの説もある。

毛利家の転封により広島城に戻ることができなくなると、萩城に入らずに周防国山口の覚皇寺に移った。慶長9年(1604年)8月1日に32歳で病死し、山口古熊の西方寺(現・山口市の善生寺)に葬られた。萩に入ることができなかったのは、前述の通り正室である南の方が許さなかったと言われている。


◆ 《歴史的史実》


実際の史実では、物語の中心地は姫山ではなくもっと東の岩国・周南から広島にかけてである。また、二の丸様は病気で亡くなられており、元宣の死後はあきらめたように輝元を受け入れ、3人の子をなしている。 このように物語と大きく異なる部分も多く、蛇攻めの話は輝元に加担した乳母が拷問死した話などほかの話と混ざったのではないかという説もある。
輝元の命により周姫(後の二の丸殿)を強奪させたという史実は、実際には城の大スキャンダルで、他言無用の極秘の話であったのだろう。


◆ 姫山伝説と毛利輝元と二の丸様の経緯の類似点


① 美しい姫の存在
② それを見た時の権力者からの求婚
③ 求婚の拒否(許婚の存在)
④ 権力者からの拷問(父親の鞭打ち、姫の井戸の中での蛇攻め)
⑤ 今際の呪い(姫山の麓で生まれる子どもに美人は生まれない)

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by kfujiken2 | 2018-08-02 16:32 | 歴史 | Comments(0)




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