人気ブログランキング |

<   2019年 01月 ( 7 )   > この月の画像一覧

”西のお伊勢さま” 山口大神宮



以前から気になっていた伊勢神宮と同様の神明造りの社殿は風格があり、格式の高さを感じる山口大神宮に、遅ればせながら先週参拝に行きました。
一つ難を言えば、山口大神宮自体の駐車場が小さいということです。県庁外来駐車場が開放されており、駐車することが出来るようですが、一寸離れていますよね~
それにしても凄い人混みで、その上少林寺拳法の鏡開きでしょうか? 社務所や通夜堂あたりは少年拳士と親御さんで ごった返していました。


d0061579_8345453.jpg


山口大神宮の由緒

永正17年(1520年)、大内氏30代目の大内義興が伊勢神宮の神霊を勧請して創建したものである。伊勢神宮から直接ご分霊を受けて皇太神宮社が創建されたのは明治以前には山口大神宮以外にはありませんでした。
そのため、江戸時代には西の伊勢参りとして九州や中国地方から多くの参拝者が訪れたそうです。境内の中ほどにある神楽殿(拝殿)から階段を上がった所に内宮と外宮があり、伊勢神社と同じく式年遷宮がここでも行われています。



山口大神宮の社号標

d0061579_9222013.jpg
















第一鳥居・長州藩主毛利氏寄進の古い鳥居


d0061579_9234744.jpg
d0061579_9242033.jpg



主祭神がいらっしゃる内宮と外宮へ。
そこへと向かう参道は、これまで進んできた参道とはまた違う神聖な空気が漂っています。
第二鳥居を抜けてこの石段を登ると右手に神楽殿(拝殿)があり、更に階段を上がった所に内宮と外宮があります。なんというか独特なレイアウトで、とにかく広さを感じます。


第二鳥居

d0061579_1034780.jpg
















神楽殿(拝殿)

d0061579_1071331.jpg

d0061579_1085952.jpg


内宮と外宮の全景

d0061579_10122963.jpg


外宮は天照御大神のお食事を任されている豊受大御神(とようけのおおかみ)が祀られています。

d0061579_1018343.jpg































内宮は天照御大神(あまてらすおおみかみ)が祀られております。


d0061579_10192876.jpg
by kfujiken2 | 2019-01-25 10:56 | 未分類 | Comments(0)

飛鳥時代(7世紀)の代表的な遺跡【大日古墳】


防府市高井大日の佐波川右岸、西目山山麓の標高約25mの丘陵上にある古墳時代の前方後円墳。全長約45m、前方部の幅約20m、後円部の径約19m。後円部に横穴式石室がある。
石室は花崗岩の割石で作られ、棺を納めておく玄室と、玄室と外部をつなぐ通路に当たる長さ約9.3mの羨道(せんどう)とからなる。玄室は奥行き3.6m、幅2.1m、高さ2.5mで、玄室のほぼ中央に凝灰岩製の刳抜(くりぬき)式屋形石棺が据えられている。その形状から、7世紀中葉の終末期古墳の一つと考えられている。山口県で出土した家形石棺は例が少なく、考古学上も貴重である。
1948年(昭和23)に国の史跡に指定された。江戸時代に発掘されたが、すでに副葬品は残っていなかったという。被葬者については、大内氏の祖とされる琳聖太子(りんしょうたいし)の墓とする伝承や、当地の県主(あがたぬし)であった土師連猪手(はじのむらじいて)とする説があるが、定かではない。


d0061579_7345438.jpg


所在地・・・防府市高井大日の佐波川右岸

d0061579_737569.jpg













公道から古墳までの通路

d0061579_91186.jpg
















古墳の入口


d0061579_942946.jpg
















玄室(棺を納めておく室)と外部をつなぐ通路(約9.3mの羨道(せんどう))


d0061579_9121658.jpg


































県内で唯一の刳抜(くりぬき)式家形石棺


d0061579_9144955.jpg


















◆ 琳聖太子 : 推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸。聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。その後 平安時代後期 多々良氏十六代の当主 盛房は周防で最有力の実力者となり、大内介と名乗り以降歴代の当主もこれを世襲した。しかし 琳聖太子という人物名が 、当時の日本や百済の文献に見ることはできないために 信憑性が薄く 、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称した 大内家の自作自演との説もあり 真偽は謎である。
『星ふるまち』を 掲げる 山口県下松市には 琳聖王子の 『降星伝説』が残っている 。



◆ 土師連猪手 : 飛鳥時代の人物。埴輪の製作や陵墓の造営に従事し,また,大王の喪葬儀礼に関与した古代の氏族。周防国府の役人の中にも名前が見られ、松崎天神をつくったのも土師氏です。
by kfujiken2 | 2019-01-22 09:24 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その3


石段を登り切ると正面に防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門があり、下を潜ると拝殿が目の前に現れます。拝殿に参拝し左手に進むと、たくさんの絵馬が飾られてある奉納所があります。ひとつひとつ見てみると、多くが志望校への合格祈願です。これから受験シーズンにかけて、多くの受験生が学問の神さま・道真公のもとに合格祈願にやってきます。
さらに左に「春風楼」がある。一見能楽堂か展望台のように見えますが、神事をする際の待合所というか、参拝客が休憩する場所のようなもので、古くは「通夜堂」といい、「参籠所」「お籠堂」とも呼ばれた。
客殿背後の園に7代藩主毛利重就(しげたか)公像と野村望東尼の碑があります。


◆ 防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門

d0061579_8474272.jpg


◆ 合格祈願の絵馬
1年間に奉納された絵馬は約4万枚位あるらしいです。12月25日の「絵馬焼納神事」で焼かれるそうです。

d0061579_981338.jpg


◆ 春風楼

十代藩主毛利斎煕が社頭に五重塔の建立を思い立ち文政五年(一八二二)六月大専坊に於いて地鎮供養の祈祷をし釿始の儀を行ったが、資金調達中、天保二年(一八三一)不慮の支障に遭い一時中止の止むなきに至った。
その後、塔の設計を現在の重層の楼閣様式へ変更して明治六年(一八七三)に完工した。この楼の床下の木組は文政年間着工当初の塔の一層軒下に使用すべき組物を使用したもので、当時の面影を偲ぶに充分である。


d0061579_916927.jpg
d0061579_9162746.jpg





























春風楼足元・・・五重塔の基礎部分
d0061579_9184073.jpg



◆ 7代藩主毛利重就(しげたか)公像
萩藩の歴代藩主の中で、最も防府と結びつきが大きいのが、7代藩主の毛利重就です。又、輝元・第13代藩主の敬親と同様に名君と言われた一人でもありました。
ふくれあがった財政赤字を立て直すために、まず検地を行い、8年後には新たに4万石分の収入を得ることに成功した。この収入を藩財政には組み込まず撫育方を設立させた。撫育方はこの資金を元手に明和元年(1764年)、鶴浜を開作、伊崎を埋め立て今浦港を築港、4年後には室積・中関(三田尻)の港整備を行う。


d0061579_9385861.jpg


◆ 野村望東尼(ぼうとうに)の碑
野村望東尼は、福岡藩士の三女として生まれ勤王活動に身を投じる。福岡の平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
高杉晋作をはじめ勇猛果敢な英才たちが、性差を超え人として崇めていたのが望東尼である。高杉晋作の末期の水を取った人とも言われています。


d0061579_941421.jpg

by kfujiken2 | 2019-01-20 09:43 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮 その2

長い石段を上っていく途中、左手にあるのが大専坊(だいせんぼう)跡といって毛利の時代には本陣になった所です。右手に茶室芳松庵と暁天楼があります。たかが57段の石段が、運動不足の我々にはされど57段の石段でキツいです。


◆ 毛利元就の参謀本部だった ~大専坊跡~

運良く特別公開される日に巡りあい、大専坊を観ることが出来ました。
明治元年(1868)まで大専坊・円楽坊(えんらくぼう)など9つの社坊(しゃぼう)が参道をはさんで並んでおり、酒垂山満福寺(さかたりさんまんぷくじ)と総称されていた。その中でも大専坊は、9社坊を支配する別当坊であった。また、防府天満宮の神事を主宰するなど神社経営にも大きな役割を果たしてきた。
しかし、明治元年の神仏分離令によってすべての社坊が廃され、民間に払い下げられた。この坊は弘治3年(1557)毛利元就が大内義長を山口に攻め、これを長府で自刃せしめて防長両国を平定するまで元就の参謀本部となりました。また尊皇攘夷で激動した幕末にはこの地方を警固する諸隊の屯所となりました。昭和63年(1988)に県指定の史跡となりました。


d0061579_1031567.jpg


先ずは入門から見て頂きましょう

d0061579_9435672.jpg















門から見た建物の玄関

d0061579_94614.jpg
















玄関を上がり左側の間取りです

d0061579_109394.jpg

















東側にガラス戸があり、昔は廊下だったのであろう??? 
幅が一間あります


d0061579_1024328.jpg

















廊下の欄間になるのでしょうか? 大内氏の家紋の菊大内菱が彫刻されています


d0061579_1030764.jpg


一番奥の間です

d0061579_1040565.jpg



◆ 維新の志士たちの息づかいが感じられる場所 ~暁天楼(ぎょうてんろう)~


二階建ての古めかしい建物を「暁天楼」といいます。もとは天満宮門前宮市にあった宿「藤村屋」の離れだったもので、藤村屋の廃業にあたり天満宮に寄贈され、のち老朽化に伴い解体されましたが、昭和59年(1984)に藤村屋の子孫のかたにより現在の場所に絵図面にしたがって復元されました。
当主は勤皇の志が篤く、また宿のもてなしがよかったためか、坂本龍馬、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文ら、維新の志士たちもしばしば利用したそうです。
建物の1階は漬物小屋として使われていたため土間で、2階(通常は閉鎖)は6畳間が2間あり、板張りの広縁が2間を囲む形で2方向に巡らされています。この2階に上がる階段は実は隠し階段になっており、維新の志士たちが、いざという場合には息をひそめて隠れていることのできるこの場所で密談をしたのだろうという想像が現実味を帯びてきます。
復元前の2階の床柱には刀傷がついていたそうですし、戸袋には墨で勢いよく書かれた落書きがあり、これは坂本龍馬の手によると言われています。また、「暁天楼」の名前は、旧来「適義楼」と呼ばれていたものを、訪れた山県有朋らが改めたといいます。

d0061579_10542261.jpg
d0061579_1054424.jpg
d0061579_10545554.jpg


「暁天楼」の全景です

d0061579_10573732.jpg















隠し階段が見える東側からの光景です

d0061579_10593970.jpg

















◆ 毛利の戦いや幕末の志士達を目撃した証人 ~防府天満宮御神木~

巨木とは地上から約130㎝の幹周が3m以上の樹木(環境省)とされています。しかしそれだけでは木霊の宿った御神木とは言えません。
樹齢が推定800年、幹周が5.6m 高さ27.5m 葉張36mの巨木です。
境内にはほぼ等間隔に並んでクスの巨木が三本ありますが、その中心をなすこの楠は防府天満宮の御神木です。
見上げれば亭々として天にそびえ四方に広げる太枝は大地を覆い、根張りは太く堂々たる威風を備えて樹勢・樹形とも美しい周防一の美楠の巨樹です。
人の世を超えて千年の後の世まで私たちを見守る天満宮の生命力溢れる木霊を宿しています。


d0061579_11143580.jpg
d0061579_1114564.jpg

















































話が長くなるので「今日は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は防府天満宮のシンボル朱塗りの楼門をくぐり、拝殿に参拝を済ませ左手にある「春風楼」から説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-17 11:16 | 歴史 | Comments(0)

菅原道真公が筑紫(大宰府)へ下向の際、立ち寄った防府天満宮

防府天満宮の暁天楼(ぎょうてんろう)と大専坊跡(だいせんぼうあと)が見たく、初詣を兼ねて参拝に行って来ました。何度も訪れている防府天満宮ですが、何時もは神社の裏側の駐車場を利用するので、表参道の石段を登って参拝したことがありませんでした。今回は初詣の時期が少しずれているので、多少空いていると思い表参道から参拝しました。

d0061579_1347895.jpg


まちの駅「うめてらす」を左に見ながら、表参道の石鳥居をくぐり萩狛犬さまの横を通り過ぎると、表参道の中段でチェーンソーアートのえと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」が迎えてくれました。

表参道の石鳥居

d0061579_13445839.jpg

寛永六年(一六二九)に初代藩主毛利秀就の寄進により建立したもので、奉納年が刻まれたものでは県下最古の鳥居。柱は太く、転びが少なく円柱状で、上部においてややすぼんでいる。形式としては明神鳥居であるが、柱脚には礎盤がなく、堀立て柱形式をとる。

豪華な台座に座している萩狛犬といわれる萩で造られた狛犬

d0061579_13513633.jpg
d0061579_13563961.jpg
d0061579_1456424.jpg

チェーンソーアート
d0061579_13591077.jpg


えと「亥(い)」にちなんだ「干支の御柱(おんばしら)」

d0061579_1432996.jpg


「今宵は、ここらで、よかろかい」・・・
次回は今回の探訪の本命「暁天楼と大専坊跡」を説明します。

by kfujiken2 | 2019-01-15 14:16 | 歴史 | Comments(0)

降松神社と鷲頭寺の関連・・・下松の地名のルーツ



降松神社と鷲頭寺の説明に入る前に、下松に立ち寄られ下松の地名のルーツになり、鷲頭寺を開かれたとされといわれている琳聖太子について、少し説明しましょう。。。

◆ 下松の地名のルーツ

下松は昔、青柳浦と呼ばれていました。
「大内氏実録」の下松妙見縁起によると・・・
「推古天皇(女帝)の3年(595)9月18日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の老松に大きな星が降りかかり、7日7夜の間、目もくらむばかりに光り輝いた。里の人は、これはただごとではない」と恐れていた。その時、占いをする人に神がかりしてお告げがあり、 「われは北辰の精である。今より3年の後、異国の太子が来朝される、その守護の為、ここに天降ったのである」と告げた。里の人々は、急いで社を建てて、その星を北辰尊星王大菩薩として祭り、里の役人はこれを時の天皇に伝えたという。
北辰の精が松の木に降ったというので、それまでの青柳浦を「降松」と改め、その後、今の「下松」と書くようになったといわれている。この異国の太子とは百済王聖名の第三子、琳聖太子といい、大内氏はその子孫と伝えられている。
下松駅の北口、北斗町の町の中に立っている一本の松を、「かなえの松」という。下松地名の起源となった七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨の星を祀ったという金輪社がある。


◆ 降松神社と鷲頭寺の関連


大内氏の祖、琳聖太子によって開かれたとされる古刹が妙見宮鷲頭寺(みょうけんぐうじゅとうじ)です。 大内氏の氏神として栄えるとともに妙見信仰発祥の宮寺といわれています。


595年(推古3年)、青柳浦の松に大星が降臨し、七日七夜輝き続けて琳聖太子の来朝の守護を託宣した。597年(推古5年)、百済国王子の琳聖太子が来朝し、神霊を桂木山に祀った。603年(推古11年)、高鹿垣山(現在の茶臼山)に遷座した。さらに609年(推古17年)、遷座して鷲頭山(下松市河内)に上宮と中宮を建立した。琳聖太子の後裔である大内氏の庇護を受けた。のち大内弘世が下宮を建立し、七坊を置いた。大内氏の滅亡後は毛利家の崇敬を受けた。1608年(慶長13年)、火災により、上宮と中宮が中宮本殿を残して焼失。明治12年維新政府の神仏分離が行われ、別当七坊が廃絶となり唯一別当閼伽井坊が転出して鷲頭寺となった。鷲頭寺は、元は、『降松神社』の別当閼伽井坊だった。明治12年にあの維新政府の神仏分離令の際に、降松神社(下松市吉原)から現在地(下松市中市)に移転した。ただ、興味深いのは妙見宮鷲頭寺のような、現在もなお神仏混淆(しんぶつこんこう)形態を維持している寺社があることで、これは全国的にもきわめて稀なケースである。もちろん、移転後は僧侶と宮司と両方がいるのではなく、住職が僧侶役と宮司役の一人二役を務め、すでに近世の形態そのままではない。
日本の節分祭発祥の地ともいわれている。降松神社は妙見信仰の発祥の地とも言われている。


お寺なのですが、鳥居があり民家にのめり込んでいる!  摩訶 不思議???
d0061579_12275294.jpg
d0061579_12281886.jpg











































仁王門に通じる参道
d0061579_12421785.jpg


「わらじ」への願い
d0061579_12465733.jpg















【わらじの功徳】
仁王様に威徳公大にして息災延命
を授け、足の弱い方、悪い方、亦腰の悪い
方は、年令と姓名を記入の上お供へ下さ
い。御利益を受けられます。

d0061579_12485722.jpg








































妙見宮鷲頭寺の由来


妙見宮の略縁起

 当山妙見宮は百済国、王子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり
本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御持来の尊像にして、三国(印度、支那、
朝鮮)伝承と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代三年九月十八日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我れは北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後百済国、王子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を
修む可し、その由を国王に告げ朝廷に奏せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇五年丁己春三月二日百司百官を倶に
して周防佐波郡鞠生の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮
州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御持来の尊像を納め星祭供養
を奉修された。これが日本に於ける星祭の濫觴であります。
星霜千有余年を経、其の間幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変
り明治十二年十二月朔日。大星降臨の古蹟、現在の地 中市に尊像妙見菩薩
をはじめ多くの仏像を奉戴して遷し祀り、北辰降臨の日、十八日を縁日とし
て今日に至ったのであります。


d0061579_1362119.jpg


お寺なのですが、狛犬「阿像」と狛犬「吽像」
d0061579_13193448.jpg
d0061579_13194986.jpg


種田 山頭火の句碑


d0061579_1327028.jpg
d0061579_13271677.jpg
by kfujiken2 | 2019-01-10 13:28 | 歴史 | Comments(0)

素朴な疑問 ~ 清水寺の謎



元旦にNHKで ” 日本人のおなまえっ!「京都お名前修学旅行 清水寺の謎」” というユニークな番組をやっていました。

浅学の私は今まであまり気にした事はないが、寺の読み方は音読みが多くて、神社は訓読みが多いという事です。

清水寺(きよみずでら)」はあだ名(通称名)だった!?

d0061579_9354086.jpg


もともと「北観音寺」が正式名称だったのに「清水寺(きよみずでら)」と呼ばれるようになったのはどうしてでしょうか?
その名前の由来は「音羽の滝」にありました。この水を浴びると汚れを落とすことが出来ると言われており、お参りする時にはここで現世の汚れを落としてから仏様の世界へお参りに行ったのです。
「しみず」と読まないのは、「しみず」にあたる言葉は「澄んだ水」のことであり、「清める水」が由来となった「清水寺」は「きよみずでら」と呼ばれるようになったのです。


寺の名前が音読みとなるのは、仏教と漢字が中国伝来であることと関係が深いようで、神社の名前は祭っている神の名前に由来するのが多いそうです。
各地のお寺の読み方だが、京都の金閣寺、奈良の興福寺、東京の増上寺などのように一般には音読みです。ところが舞台で有名な清水寺は「きよみずでら」と訓読みです。他にも京都の「鞍馬寺(くらまでら)」など著名な訓読みの寺もある。音読み、訓読みが混在するのはなぜか?


d0061579_9453436.jpg


寺の名前は音読みが基本だ。だが、寺によってはそこに参詣する人々がどう呼ぶかで地名に引っ張られたり、和名である訓読みに変わってきたりすることもあるようだ。
又、通称名で呼ばれているお寺の例が、京都市の西芳寺(さいほうじ)を苔寺、長崎市の興福寺(こうふくじ)を赤寺等です。

by kfujiken2 | 2019-01-04 10:00 | 未分類 | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

カテゴリ

風景
歴史

コラム
未分類

リンク

アクセスカウンター


クリックして貰えると幸せます

にほんブログ村 地域生活(街) 中国地方ブログ 周南情報へ
クリックして貰えると幸せます。
ブログランキング・にほんブログ村へ
クリックして貰えると幸せます。

春葉のブログ~心の声を墨にこめて~

以前の記事

2019年 04月
2019年 03月
2019年 02月
2019年 01月
2018年 12月
2018年 11月
2018年 10月
2018年 09月
2018年 08月
2018年 07月
more...

最新の記事

徳山大学内松下村塾(模築)
at 2019-04-13 16:06
新元号・令和に関して
at 2019-04-11 09:59
山陰の小京都(史跡と鯉の町)..
at 2019-04-09 10:07
山陰の小京都(史跡と鯉の町)..
at 2019-04-07 09:22
山陰の小京都(史跡と鯉の町)..
at 2019-04-04 11:18
山陰の小京都(史跡と鯉の町)..
at 2019-04-01 12:45
周防國三之宮という由緒正しき..
at 2019-03-28 09:52
散りぎわの美・ 五色八重散椿..
at 2019-03-25 11:29
あなたも新元号の予想をしてみ..
at 2019-03-17 11:55
古墳時代の『後井古墳(ごいこ..
at 2019-03-12 10:50
大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 ..
at 2019-03-08 13:03
大梅山通化寺~遊撃軍の本陣 ..
at 2019-03-06 16:26
江戸城の歴史と皇居の謎
at 2019-03-03 14:58
天皇とは何か?・・・不謹慎な..
at 2019-02-27 11:48
一足早く春の訪れを知らせてく..
at 2019-02-24 09:57
ノーベル賞レベルの線虫による..
at 2019-02-20 14:11
天皇の神格化
at 2019-02-15 12:46
ホテルのバイキングランチ
at 2019-02-10 09:35
亥年は荒れる・・・
at 2019-02-05 09:46
”西のお伊勢さま” 山口大神宮
at 2019-01-25 10:56

ブログジャンル

歴史
中国

フォロー中のブログ

四季の風景
6ワン’s mom
つれづれなるままに
四季折々
より美しく!より健康に!
季節の花々に癒されて
時の流れのままに
風に吹かれて~♪
月の沙漠を
hiroshijiji1...
おいしいマイニチ
一期一会 ~あけぼのフェ...
♪Princess Cr...
農園のドタバタ奮闘記
俺の心旅
言の葉の優しさに・・・

画像一覧

最新のコメント

態々ご連絡ありがとうござ..
by kfujiken2 at 10:03
もちろん、私も適正な補修..
by なすび at 13:04
なすびさん おはようござ..
by kfujiken2 at 07:34
案内所になっている建物、..
by なすび at 17:22
>単なる鄙びた村というか..
by kfujiken2 at 10:08
私も佐々並には行きました..
by なすび at 18:08
>会津生まれ まるで韓..
by 再び明治維新が必要 at 19:04
アリエスさん おはようご..
by kfujiken2 at 08:18
>また、毎年9月日本史を..
by 白虎 at 23:42
貴方が言われていることも..
by 会津生まれ at 20:27
おいでませ、長州より発信..
by kfujiken2 at 15:57
早速 探しました。 すぐ..
by りこ at 11:05
私はブログをやっていませ..
by なすび at 21:01
なすびさんのサイトを紹介..
by kfujiken2 at 09:05
戦争ができないとヤバいで..
by なすび at 11:48
ご指摘痛み入ります。 ..
by kfujiken2 at 10:28
会津の人間です。 記事..
by あかべこ at 05:24
貴殿は気づかれていないよ..
by なすび at 13:09
既に辞めている前川さんが..
by kfujiken2 at 10:59
引責ではありません、立派..
by なすび at 09:00