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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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長州藩士出身森 寛斎

知られざる勤王の画家・長州の密偵森寛斎

幕末の争乱時には長州藩の密偵として活躍するも、維新後は画家一筋に、温和で情趣的な画風で「明治の応挙」と評された。
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「人体的異人図」
品川弥二郎らにペリーの肖像を描くように言われて描いた
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森 寛斎は、江戸時代末期~明治初期の画家。本名は石田公粛,字は子容,号は寛斎ほか。森狙仙、森徹山、森一鳳・寛斎と続く森派の絵師。天保6 (1835) 年大坂に出て,円山応挙門下の森徹山に師事,技量を認められ師の養子となった。さらに京都に出て,衰えつつあった円山派の振興に尽すとともに,勤王の志士として国事にも奔走。幕末の政情不安が起こると、長州人の寛斎も火中へ飛び込んでいく。絵師としての身分や表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にしたという。
伊 勢 物 語
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龍 虎 図
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# by kfujiken2 | 2023-08-07 08:31 | 歴史 | Comments(0)

毛利元就の初陣

毛利元就の初陣・・・有田中井手の戦い

中国の覇者として知られる戦国武将・毛利元就ですが、意外と歴史の表舞台に登場するのは遅かったことをご存知でしょうか。元就の名の初見は、永正14年(1517)の有田中井手(ありたなかいで)の戦い(有田合戦とも)でした。時に元就21歳、これが初陣でした。武将の多くが元服後の十代半ばごろに初陣を果たすことを思うと、意外と遅いと思うかもしれません。しかし、元就はこの初陣でしっかり役割を果たし、見事名声を得たのです。
当時、中国地方は代々守護の家系である大内氏と、出雲守護代から戦国武将へ転身した勢力・尼子氏がせめぎ合っていました。両者のはざまに位置する安芸の国人領主であった毛利氏は、常に大内と尼子の力関係を見ながら今日はこっちにつくか、明日はどっちか……と生き延びるためにあっちへこっちへと情勢を見て動かねばならず、身の振り方はとても難しい時代でした。
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「西の桶狭間」とも呼ばれるこの戦い、どのような戦だったのか、まずは発端から見ていきましょう。

安芸・武田元繁軍 の約5000騎の大軍と毛利元就、吉川氏連合軍1000騎との間で、「有田合戦」が行われた。
この戦い、圧倒的な大軍を少数で破った戦いとして、織田信長と今川義元の戦い「桶狭間の戦い」になぞらえることがあります。元就にとってももちろん今後の躍進に一役買った勝利であることは間違いないのですが、実は元就が全軍の指揮をとっていたわけではありませんでした。
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# by kfujiken2 | 2023-08-01 14:22 | 歴史 | Comments(0)

清末藩

長州に一万石の小藩があった

清末藩(1万石)は、長門国に存在した藩で、藩庁は清末陣屋(現在の山口県下関市清末)にありました。長州藩の一支藩にして、承応2年(1653)毛利元知より廃藩置県に至まで、8代218年の歴史を重ねていた。清末藩士の名簿禄(清末藩御家中分限帳)には清末氏の名はない。藩名と同じ名字が許されないのは当然だが、清末藩成立以前の中世にも清末名の名田も見当たらないようである。長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であり、長州藩の孫藩にあたる。長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称する。全国でも孫藩があるのは珍しいです。
藩主は毛利家、始祖は長府藩初代藩主毛利秀元(毛利元就の孫)の三男・毛利元知である。長府藩と知行地が交雑しているが、石高はおよそ1万石であった。承応2年(1653年)、毛利元知が、甥に当たる長府藩主毛利綱元から1万石の分知を受けて立藩した。
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【清末藩邸跡】

東部中学校が建っている付近を陣屋といい、毛利藩主の館のあったところです。承応2年(1653年)から幕末まで8代の藩政の中心でしたが、明治4年(1871年)の廃藩置県にともない、明治6年(1873年)に建物も土地も競売処分されました。民間に買い取られましたが、大戦中に軍用に接収され、戦後学校用地として下関市に払い下げられ、昭和22年(1947年)現在の東部中学校が開校しました。
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# by kfujiken2 | 2023-07-25 07:14 | 歴史 | Comments(0)

銀の歴史

【銀の歴史】
金より銀の方が高価だった時代があったことをご存じですか?
もともと、金が紀元前6,000~4,000年頃に発見され、その少し後になって銀が発見されたそうです。
当時、技術的に銀は金よりも純度の高いものを手にするのが難しかったため、純度の高い銀は非常に貴重でした。金の2.5倍の価値があったとも言われています。ヨーロッパでも中世、銀は貴重で、なんと金に銀メッキをすることもあったそうです!現代では考えられないですね。日本に銀が伝わったのは紀元前1~2世紀頃と考えられており、日本で初めて銀山が発見されたのは7世紀になってからでした。日本の銀生産量はどんどん増え、17世紀には世界における約3分の1の銀が日本で産出されていたそうです。また、銀の精錬技術がますます高まって多くの銀が生産できるようになることで、いつしか銀は金の30分1~60分の1程度の価値・価格となり「貴重なもの」ではなくなっていました。ですが、1988年にアメリカで「クロムハーツ」が設立されて、4年後にアクセサリーデザインの大きな賞を獲得したことで一気に有名になり、ファッション界でシルバージュエリーが大きく注目されるようになりました。その波は日本にも押し寄せ、この頃から日本でも銀を「貴金属」とみなすようになってきました。
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【世界遺産・石見銀山】
石見銀山は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山。上述の最盛期に日本は世界の銀の約3分の1を産出したとも推定されるが、当銀山産出の銀がそのかなりの部分を占めたとされる。大森銀山とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山とも呼ばれた。
〘銀山の坑道 ・間歩(まぶ)〙
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◆ 石見銀山銀山争奪戦
見銀山が発見された1527年は、日本は地方の武将たちが同盟や対立を絶え間なく繰り返す戦国時代でした。石見銀山では、周防国南部(現在の山口県)に本拠を置く大内氏が最初に鉱山の支配権を握りました。大内氏は各地に城などの要塞を次々と築き、敵対勢力から富の山を守りました。 こうした要塞には、鉱山の主要要塞である山吹城、鉱山と温泉津港の間の道路を守っていた矢滝と矢筈の双子の砦、北西の海岸への要路を見下ろす石見城など、十数カ所の拠点がありました。1530年代から1540年代にかけては、小笠原氏や尼子氏が侵攻を繰り返し、大内氏がこれを撃退するなど、激しい戦いが繰り広げられました。石見銀山での大内氏の支配は、1550年代に安芸国(現在の広島県)の強力な毛利氏がその影響力を北に広げたときに崩れ始めました。1562年には毛利元就(1497-1571)率いる軍勢がこの地を完全に支配し、さらに要塞化を進め、沖泊港の外に水軍基地を設置して、沖泊港からの銀の輸送と温泉津への補給路を守りました。1600年の関ヶ原の戦いで徳川氏に敗れるまで、毛利氏は、ほぼ40年間銀山を支配していました。その後、石見銀山は徳川氏に占領され、毛利氏は本州西端の長州に封じ込められ、銀山をめぐる戦いは終焉を迎えました。徳川家康は先頭に立って天下統一を目指し、1603年には江戸幕府を樹立、1867年まで日本を統治しました。
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月山富田城(がっさんとだじょう)は戦国時代、山陰地方の最大勢力を誇った尼子氏(あまごし)が本拠とした山城です。全国有数の堅城として知られていますが、とりわけ難攻不落ぶりを発揮した戦いが、4ヵ国を有した大大名「大内義隆」(おおうちよしたか)を迎え撃った「第一次月山富田城の戦い」です。中国地方では群を抜く勢力を誇っていた大内氏だけに、山陰地方の豪族は次々に傘下に入り、月山富田城へ着く頃には約45,000もの兵力に膨らんでいました。対する尼子氏は約15,000人。まともに戦っても勝ち目がないと考えた「尼子晴久」(あまごはるひさ)は、月山富田城に籠城し、持久戦に持ち込む作戦で迎え撃ちました。標高約184mの月山に築かれた月山富田城は、約170年間にわたって尼子氏の居城として君臨した中世城郭です。三方を険しい崖に囲まれた要害であり、その堅城ぶりから「天空の城」の異名まで有していました。城への出入口は3ヵ所しかなく、侵入してきた敵を山腹の山中御殿で殲滅できるように設計されています。毛利軍は2万5000の大軍を動員して三方から月山富田城に攻め寄せます。しかし、この城はかつて大内義隆の大軍でも落とせなかった難攻不落の要害でありました。約2年に及ぶ籠城戦(第二次月山富田城の戦い)の末、ようやく陥落させたという経緯があります。通常の力攻めで陥落させることが難しいと判断した毛利元就は、攻略を急がずに兵糧攻めに切り替えます。元就は、尼子氏の支城を次々と攻略すると、月山富田城への物資輸送の拠点である白鹿城も落とし、宍道湖を介した補給線を断ちました。さらに中海なら十神山城(とかみやまじょう)を経て月山冨田城へ至る補給線も遮断し、城を孤立させます。
そのうえで月山富田城内の尼子の重臣たちに調略を仕掛けていきました。

◆ なぜ銀山が欲しかったか
当時中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。 それまでは銅を貨幣としていましたが、海外に流出しすぎて国内では枯渇していました。そこで紙幣にしましたが、紙幣は信用がなく、やがてインフレが起きて紙くず同然となりました。 そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。
国内での銀流通が盛んになると、戦国大名は軍事金として銀を用いるようになり、石見銀山は周辺の戦国大名の標的となりました。初め周防国の大内氏が銀山を支配していましたが、大内氏が滅びた後、 出雲の尼子氏と安芸(広島)の毛利氏の取り合いになり、1562年毛利氏が銀山を手中におさめました。1590年豊臣秀吉が全国を統一してからは、毛利氏は豊臣氏の大名として中国地方を支配し、銀を豊臣氏へ納めます。


# by kfujiken2 | 2023-07-20 09:33 | 歴史 | Comments(0)

線状降水帯

佐賀県唐津市・大分県中津市・福岡県久留米市・山口県下関市・島根県出雲市で豪雨災害が発生しました。
日本で起きた集中豪雨のうち、台風によるものを除いて、約3分の2が線状降水帯によるものであるとの調査もある。気象庁では、警報や注意報、天気予報等で用いる予報用語に指定していないが、報道発表資料や予報解説資料で用いる解説用語としている。
1990年代から日本の集中豪雨発生時に線状の降水域がしばしばみられることが指摘されていたが、この用語が頻繁に用いられるようになったのは、2014年(平成26)8月の豪雨による広島市の土砂災害以降である。
気象庁の気象研究所の分析によると、ここ45年間の中で、線状降水帯による豪雨の頻度は、約2倍に増加しているといいます。 また特に6~7月の梅雨の時期は、4倍近くも増加しています。 この原因といわれているのが、地球温暖化。

◆ 線状降水帯とは : 次々と発生する発達した雨雲(積乱雲)が列をなした、組織化した積乱雲群によって、数時間にわたってほぼ同じ場所を通過または停滞することで作り出される、線状に伸びる長さ50~300km程度、幅20~50km程度の強い降水をともなう雨域
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◆ 線状降水帯が発生しやすい場所
1 ・3時間積算降水量80mm以上の領域が線状(長軸・短軸比が2.5以上)
2・1.の領域内の3時間積算降水量の最大値が100mm以上
3・5時間以上ほぼ同じ位置に停滞
4・強雨域の面積は635平方km以上、12,500平方km未満
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◆ 発生しやすい4条件として
① 「雲の元となる暖かく湿った空気の流入(湿舌)」
② 「その空気が山や冷たい前線とぶつかるなどして上昇(地形効果や風の収束)」
③ 「積乱雲を生みやすい不安定な大気状況(低いSSI)」
④ 「積乱雲を流しては生む一定方向の風」が挙げられている。
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# by kfujiken2 | 2023-07-14 10:35 | 未分類 | Comments(0)


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