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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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山口県周南市大津島回天記念館 ・・・ その②

最初の回天の搭乗員の募集は昭和19年の8月から開始されます。
昭和19年8月20日に起案され、8月31日に発布された「海人三機密第三号―六二 特殊兵器要員に充当すべき海軍予備学生選抜並に教育等に関する件甲進」によると 1.選抜要領(イ)には「本要員は志願者より選抜す」 (ロ)には「志願者募集に当りては、別紙説明要旨に依り予め説明を実施し、志願者の了解を求め置くものとす」となっていました。
ただし別紙の備考には「兵器名は示さざるを要す」と記載されています。

「回天」の初めての出撃は、昭和19年11月8日、菊水隊と名づけられた部隊から始まります。
その攻撃目的地は、アメリカ軍機動部隊の前進拠地であった西カロリン諸島のウルシー泊地と、パラオ諸島のコッソル水道となり、そのエリアに停泊中の敵艦隊を目指して、伊36潜水艦、伊37潜水艦、伊47潜水艦にそれぞれ4基ずつ、合計12基の「回天」が搭載されて出撃していきました。その隊員の中には黒木大尉と一緒に「回天」の開発に取り組んだ仁科中尉の姿もありました。
その後、20年8月8日までに4基地から9の部隊が編成され、延べ153人が出撃し、80人の搭乗員が「回天」とともに戦死していきました。なお、通常の魚雷による攻撃か、「回天」による攻撃かを選択するのは潜水艦長の判断となり、魚雷による攻撃が可能な距離まで目標艦船に近づけるなら魚雷戦を挑み、近づけない場合は、回天戦を選択することになります。

戦況が厳しくなっていく中、昭和20年の春になると、本土決戦のための準備が進んでいきますが、日本側は当初その日を、20年の夏から秋にかけてと予測していました。その段階で、既に艦船、航空機と消耗してしまった日本にとっては、海からの特攻に頼ることしかできなく、そのために配備計画されたのが基地回天隊でした。
この基地回天隊とは、敵国が本土上陸してきそうな海岸付近に穴を掘り、その中に「回天」を隠しておき、実際に敵艦艇が近づいてきたら出撃するというものでした。最初の基地回天隊は沖縄に配備されることになりましたが、「回天」を掲載し、その搭乗員たちが乗船していた第18輸送船は、アメリカ軍の潜水艦からの攻撃により20年3月に沈没し、搭乗員たちも戦死してしまいました。
その後、八丈島をはじめとして四国や九州の海岸に11地点、88基の「回天」が配備され本土決戦に備えましたが、出撃することなく終戦を迎えることになります。


回天を整備工場から訓練基地まで運ぶ運搬用トンネル


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回天訓練基地跡


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# by kfujiken2 | 2022-05-09 07:14 | 歴史 | Comments(3)

山口県周南市大津島回天記念館 ・・・ その①

風化させてはならない特攻兵器・人間魚雷「回天」
求められた神懸かり的な戦略
止まらなかった狂気の作戦

人間魚雷・回天の基地があった山口周南市大津島で小さな慰霊祭が開かれました。
太平洋戦争の末期、“天を回らし、戦局を逆転させる”という願いを込めて、人間魚雷「回天」は誕生した。
昭和16年12月の真珠湾攻撃で幕が開けた太平洋戦争は、当初、日本軍は有利に戦闘を進めますが、17年6月のミッドウェイ海戦での敗北、18年2月のガダルカナル島からの撤退と、物資の豊富な連合国側からの反撃により徐々に形勢が不利になっていきました。そうした状況の中で、起死回生の戦法として考えられていったのが、空や水上、水中からの特別攻撃と称した特攻作戦でした。
太平洋戦争の戦況が厳しくなる中で、呉市大浦崎にあった特殊潜航艇(甲標的)の秘密基地(通称P基地)で出会った若い青年将校の手により、「回天」の創案がなされることになります。
その青年将校とは、海軍機関学校出身の黒木博司中尉と、海軍兵学校出身の仁科関夫少尉の2人。このころ、レーダーの登場により艦艇間での戦闘が行われなくなったため、使用されずに倉庫に眠っていた九三式酸素魚雷に二人は着目し、昭和18年の秋、この魚雷を人間が操縦して敵艦船に体当たりする兵器として開発し直すことと、兵器としての採用に向けて動き出すことになります。
その結果、翌19年2月に試作機の開発が開始され、同年7月に試作機が3基完成し、大入(だいにゅう:呉市阿賀)魚雷遠距離発射場で試験運転が行われることになりました。「回天」の開発においては搭乗員の脱出装置を設けることが条件となっていました。しかし、試作機にはその装置は設けられることなく、8月に正式な兵器として採用されました。
その操縦訓練場としては、既に酸素魚雷の試験場があったことと、特殊兵器という機密性の保持の観点等から、ここ大津島が選択されることになります。


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回天記念館の入り口までのエントランスには、
亡くなった回天乗組員たちの一人一人の名前と出身地の入った
烈士石碑が並んでいます。

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回天実物大レプリカ

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# by kfujiken2 | 2022-05-06 14:45 | 歴史 | Comments(2)

「長州には唸るほどカネがある」・・・ 長州藩の石高以上の財力

◆ 長州藩の財政改革・藩政改革をした2人の救世主・毛利重就と村田清風

毛利重就は「撫育方」という長州藩の別途会計担当部局を設け、村田清風は撫育方資金の運用増殖を狙って「越荷方」という、倉庫業・金融業を行う役所を下関に設置した。つまり、この2人によって長州藩の莫大な隠し財産がつくられ、幕末の政治工作資金や軍資金になった。撫育方は藩主直属の組織であり、藩の家老といえども好きには出来ない資金で、越荷方は北廻り船の荷を預かる倉庫業、その預けた荷物をかたに銀を貸し出す金融業を為す藩営の金融機関です。

参勤交代や幕府からのいわゆる「御手伝い普請」によって、多額の出費を強要され、「関ヶ原の戦い」や「大坂の陣」など戦国時代に戦に参戦し、馬関戦争・禁門の変・八月十八日の政変で京都で戦に明け暮れ、相当の出費だっただろうと想像します。なのに第2次征長戦に際してミニエー銃 4300挺・ゲーベル銃 3000挺などの最新鋭の武器を購入する費用を何処から捻出したのだろう?
長州藩は薩摩藩や土佐藩、肥前藩と並んで明治維新のメインプレイヤーとなった雄藩のひとつなのですが、意気込みだけでは強大な幕府を倒すのは無理です。何をするにも先立つ物(カネ)が必要になります。諸説ありますが、幕末の長州藩は200万石相当(江戸時代の貨幣価値は安定していなかったので、1両を100000円と仮定しまして現在の価値でおよそ約2000億円)の財力があったと言われています。

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● 撫育方(ぶいくがた)とは・・・


1761(宝暦11)~64年、宝暦の検地を執り行い、4万石の税の増収を得ました。銀8万5千貫(現在の価値でおよそ約1400億円)もあった赤字にこの増収分は負債返済には充てず、特別会計に回して撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関を発足させた。撫育方は米、紙、塩、蝋(ろう)の増産に励み、港湾整備も行って増収と蓄財に務めた。撫育方が必死に溜めた資金は負債には回されず、非常時のために取り置かれた。長州藩のこの隠し財産の積み重ねは、幕末までには莫大なものとなり、それが倒幕用の武器購入資金となるのである。しかし、それは一般会計の負債や、藩士や領民の窮乏を無視してのものであった。

瀬戸内海側の室積・中関(防府)・伊崎(下関)の三つの商業港を整備して、会所(役所)を置き、北前船などと商取引を行わせた。室積の会所の設置は明和六年(一七六九)といわれる。安永二年(一七七三)からこの地を藩が買い上げて役所とし、藩内各地の米蔵を移築して、主に藩の年貢米をここに集めて売り捌く仕事を行っていたので、「御蔵会所」とか「お米売捌き会所」とも呼ばれ、この附属小中学校の敷地一帯に、役所と多くの米蔵や銀子蔵が次第に増改築され、荷揚げ用の波止(現在の海に張り出した施設部分)も築かれた。
さらに、藩の資金やこの蔵を使って越荷方(こしにかた)を設置し、ここを通る藩外の船を対象に倉庫業や金融業を地元商人に行わせたので、港や町は多くの廻船や商人が出入りし、近隣から多くの商人が住み着いて賑わった。
明治時代にはこの会所跡地に熊毛郡役所が置かれ(明治十二年)、役所移転後(明治三十六年)は山口県立工業学校、さらには師範学校(大正三年開校)から女子師範学校、山口大学教育学部と、次々に学校が置かれ、現在に至っている。


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● 越荷方(こしにがた)とは・・・


江戸後期、越荷方は長州藩が下関・萩・山口・三田尻に設けた廻船を相手とする金融機関。村田清風(長州藩家老)が藩政改革として1763年(宝暦13)に設置された撫育方(ぶいくかた)の一環として、最初、下関・室積・中関に設けた。その後、天保の防長大一揆の際に拡充された。 越荷とは、主に北前船の積荷のことをいい、下関が北前船の重要な寄港地であることに着目し、入港した船の積荷を一時保管する倉庫業や、積荷の委託販売業、積荷を抵当とした金融業などを行なった。 おりしも北前船は飛躍的発展期にあり、越荷方は順調に発展して藩に莫大な利益をもたらした。これによって藩財政再建は成功し、収益金は幕末京都での政治工作資金や軍費、戊辰戦争の戦費の一部にも充てられた。


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# by kfujiken2 | 2022-04-30 08:40 | 歴史 | Comments(2)

幕末から明治に開設された私立文庫(図書館) その②


◆ 【児玉文庫】

周南市出身の陸軍大将児玉源太郎が日露戦争を勝利に導き、台湾の近代化に尽くした業績が注目されがちだが、後進の育成を願って郷里徳山に開設した私立図書館です。文庫は整備され拡張されていったが、昭和20年(1945)7月26日の空襲によりすっかり焼失してしまった。


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◆ 【旧桜圃(おうほ)寺内文庫】

朝鮮総督、内閣総理大臣を歴任した寺内正毅の蔵書を基礎として設立された私設図書館である。
寺内桜圃文庫の書籍は戦後、山口県立大学に移され、さらに朝鮮関係の一部は韓国の慶南大学校に移管された。寺内桜圃文庫の元の建物は、現在も山口県立大学に隣接する形で残されている。


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◆ 【阿武郡立萩図書館】

明治34年1月に全国初の郡立図書館として創設、県立図書館時代などを経て、以来100年余に渡り山口県北浦地域の文化の拠点としての役割を果たしてきました。このような長い歴史から、貴重な藩政期史料や旧明倫館蔵書、松下村塾蔵版書籍、初期の英語教育に使用された教科書を肇とした貴重本が多く保管されています。


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# by kfujiken2 | 2022-04-25 07:21 | 歴史 | Comments(1)

幕末から明治に開設された私立文庫(図書館) その①

教育県・山口には、藩校4校 郷校(藩校の分校)20校 私塾106校 寺子屋1,304校あったそうですから、文庫(図書館)がどのくらいあったかは想像出来ませんが、代表的な私設文庫を4校ご紹介します。

【向山(こうざん)文庫】

光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。向山文庫は難波覃庵(なんばたんあん)が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館となりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。


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「向山文庫のエピソード」

難波覃庵48歳の時、私費を投じて樟脳(無煙火薬の製造原料)製造工場を設立するなど殖産にも力を尽くす。財政ひっ迫の折は、自領の田畑などを売却して主家の軍資金を捻出する。
1862(文久2)年に主君の命を受けて、私塾「養義場」を自邸に創設して国家の急務に備えた。世子清水親知(ちかとも)の切腹後、親知の蔵書を加え、法名「仁沢院殿向山義雄」に因んで「向山文庫」と名付けた。
1883(明治16)年には邸宅内に土蔵1棟を建てて、三條実美筆の「向山文庫」の額と、毛利元昭の額を掲げ、室内に旧主親知の霊を祀り、孔子廟を設けた。
難波覃庵の曾孫・難波大輔が起こした「虎ノ門事件」で一族は崩壊し、その後整備はされておらず、解説板は立てられているが常駐の管理人等はいない。土蔵は往時の姿を辛うじて留めているものの、屋敷全体の廃墟化が進んでおり、母屋は荒れ果て、板塀は倒壊、庭は自然に還りつつあるなど状態は悪い。

実子を早くに亡くし養子の孫の難波作之進は、幼いころから尊王思想を強く受け、子供たちにも厳しく教えてきたという。周防村の村長、県会議員などを経て、防長農工銀行取締役となる。1920年、第14回衆議院議員総選挙に山口8区から出馬し、立憲政友会の加納庫三らを破って衆議院議員に当選。庚申倶楽部に所属する。

覃庵の曾孫・難波大輔は、26歳の1923(大正12)年12月27日、皇太子(昭和天皇)の暗殺未遂、いわゆる「虎ノ門事件」を起こす。事件により山本権兵衛内閣は総辞職。難波家は絶家、大助は刑死、衆議院議員の父・作之進は絶食のすえ他界。「革命万歳」と叫ぶ大助が皇太子に向けたスッテキ銃は、伊藤博文の洋行土産であったという。

# by kfujiken2 | 2022-04-20 09:10 | 歴史 | Comments(2)


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