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長州より発信


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします
by fujiken
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急速に普及が進むニッポンの「代替肉」

世界人口の増加や畜産に伴う環境負荷、動物倫理などの解決策として注目されている。
代替肉(だいたいにく)とは、動物を屠殺して得る食肉の代替として、大豆など植物性原料を使い、肉の食感に近づけた食品である。植物性原料でつくられた、他の動物性食品(魚介類、乳製品、鶏卵)に似せた食品を含めて「代替食品」と総称されることもある。


◆ 代替肉の歴史

植物を使って肉もどきに加工するという試みは実に100年以上の歴史がある。代替肉開発が進む契機となったのは、米国の化学者ロバート・アレン・ボイヤーの研究だとされる。大豆から抽出した植物性たんぱくを束ね、筋肉の構造に似せることで食感を食用肉に近づける製法を考案。1954 年に特許を取得し、米国の食品メーカーは、ボイヤーの製法を基に代替肉の製品化を進めた。ただし、食感が近づいたとはいえ、外観や味なども含め、食用肉との差はまだかなりあったためか、広く普及するには至らなかった。

しかし、21世紀に入ると、加工技術や添加物の進歩により食感・外観・味など、あらゆる面で質の高い代替肉が登場し、次第に人気を博すようになる。ことに代替肉ブームを牽引したのは2009年に設立され、19年にナスダック市場への上場を果たした「ビヨンド・ミート(Beyond Meat)」社と、11 年に設立され、グーグルからも出資を受ける「インポッシブル・フーズ(Impossible Foods)」社だ。この両社の登場で代替肉は飛躍的な発展と進化を遂げた。因みに、マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツはこの両社に多額の出資をしている。

世界中の畜産業による二酸化炭素(CO2)排出量は、地球全体のCO2排出量の15%を占めると言われ、畜産業は森林破壊、温室効果ガス排出、水資源の大量消費など、環境を破壊する主因となっている。畜産を少しずつ、代替肉に置き換えていけば、CO2の排出量を減らせ、地球環境を守ることにつながることから、代替肉への支持が高まっている。


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◆ 2020年はニッポンの代替肉元年

日本では1960年代後半に植物肉の開発ブームがあったものの、代替肉の普及は進まなかった。しかし、昨今は風向きが変わりつつある。2019年から20年に掛けて、スタートアップ企業をはじめとする新商品の発売が相次ぎ、食品大手・食肉大手企業の参入も続いている。また、農林水産省は20年4月、フードテック研究会を設立、同年10月には産学官連携による「フードテック官民協議会」を立ち上げるなど、代替肉の普及のバックアップを進めている。

「地球を終わらせない。」を理念として掲げるネクストミーツ株式会社は、2020年6月に設立された代替肉のスタートアップ企業。同社広報の牧野勇也氏は「2020年は代替肉元年」と位置付ける。

「20年には、これまでスーパーの大豆コーナーにひっそりと置かれていた代替肉商品が精肉売り場に並ぶようになったり、大手食肉加工メーカーやファーストフードチェーンが続々と代替肉市場に参入したりと、“代替肉元年”と呼べるほど市場が激変しました。こうしたトレンドは21年になっても衰えていません」。


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# by kfujiken2 | 2022-02-27 08:12 | 未分類 | Comments(1)

いつまで続く新型コロナウイルス

21日全国に51,988人の新規感染者が確認されています。新規感染者が減少傾向がみられますが、ピークアウトしたんでしょうか? 前日が日曜日で休みの医療機関が多く、持ち込まれる検体数が少ないため、月曜日は確認される人数が少ないそうですから、今週一週間で判断が付くでしょう。
全国で最も多かった東京都は8805人の感染を発表しました。神奈川県(6305人)、大阪府(4702人)、愛知県(6814人)、埼玉県(4601人)、千葉県(2810人)、福岡県(2442人)、など全国的に感染拡大の傾向が続いています。

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下松市の人口56000人で東⇔西(海岸線)12Km、南⇔北(北は奥地)20Kmと小さな町で、21日の新規感染者が5人と久し振りに一桁の新規感染者になりました。
我が町には入院病室が250床しかない総合病院が一つで、コロナ感染者が何人入院しているとかの公表がない!!!
その上、我が町には保健所もない状態です。地域外来・検査センターは開設されているようですが、恐らく場所さえ知らないが多いのではないでしょうか、どのように対応しているのでしょうか? ネットでは一般化していない。
かかりつけ医にかなり負担が掛かっているようです。職域学校感染・家庭内感染もあるだろうが、市中感染(買い物・余暇活動)が多いんではないでしょうか? キャリア(感染していても自覚症状のない人)が外を飛び歩いていては感染者は減らない・・・

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政府を挙げてデジタル化の推進と言っていますが、用具を持たない、取り扱い方・デジタル知識のない高齢者が増える時代に向けて、性急に教育が必要です。

# by kfujiken2 | 2022-02-22 09:56 | 未分類 | Comments(1)

類稀な文才の愛子様


学習院幼稚園に通ったのち学習院初等科に入学されました。初等科にあがられてから、お休みがちのことも……。愛子様の教室の後ろで授業を見ていたり、遠足について行ったりされていました。
やがて中学、高校と進学され、普通に登校されるようになり、学習院大学に入学され、そして立派に成人を迎えられました。
ご両親の望まれるように、とてもしっかりした成人になられたと思います。物事を深く見て表現も鋭く、言葉づかいもしっかりされています。非常に賢い方ですね。

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2018年夏には、英国・イートン校に短期留学。充実した時間を過ごし、その思い出を国語表現の授業で短歌にしたこともあった。古文の授業では、源氏物語についてのグループ発表でリーダーを務めるなど文学に親しんでいたといい、現在大学でも日本語日本文学科で学んでいる。英語が堪能で国際関係の学部に進まれるのではないかと言われていたが、選ばれたのは文学部の日本語日本文学科だった。皇室の伝統を受け継ぐ愛子さまにとって、ごく自然にご興味を抱かれた分野であったのだろう。



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愛子様の歴史や古典へのご関心は、初等科時代から高かった。日本の古典に興味を持ち始めたのは、4年生の頃だったといわれた。初等科卒業式直前に発表された『藤原道長』という歴史研究レポートは、保護者たちも『12歳でここまでお書きになるのか』と絶賛したほどです。卒業直前に編まれた文集「小ざくら」には、愛子さまの歴史研究レポートが4ぺージに渡って掲載された。タイトルは「藤原道長」。平安時代中期に摂政などとして、権力をふるった貴族。なぜ道長をテーマにされたかについては、〈授業で藤原道長について学習している時に、「御堂関白記」に少し触れ、また、学習する前にも新聞で「御堂関白記」がユネスコの記憶遺産に登録されたという記事を見たので、一度実物を見てみたいと思った。それで、夏休みに、東京国立博物館で開催された特別展「和様の書」に行き、「御堂関白記」を見て、これほど古い日記がよく残っているものだと驚いた。そこで、この日記を書いた藤原道長について詳しく知りたいと思い、調べることにしたそうです。


日本人女性で初めて国際連合事務次長に就任し、軍縮担当上級代表として世界平和に尽力する中満 泉(なかみつ いずみ)さんが、
両陛下が赤坂御所で中満さんとお会いになり、被爆地での若者の取り組みや世界の軍縮の現状などについて説明を受けられた。
その際、両陛下は愛子さまが中学校の修学旅行で訪れた広島について書かれた作文のコピーを、中満さんに手渡されたという。
中満さんは愛子さまの作文を読み、反戦への思いと平和を希求される強い意志に大きな感銘を受け、翌日のツイートに繋がったのだそうです。

愛子さまの作文は、「平和記念資料館」や「原爆ドーム」を訪れた際、その凄惨な悲劇を目の当たりにされ、言葉にできない悲しみや怒りを10代の純粋かつ豊かな感性で綴られたものだ。
宮内庁が皇太子ご夫妻の長女、敬宮(としのみや)愛子さまが学習院女子中等科を卒業するにあたり、記念文集に書かれた「世界の平和を願って」と題した作文を公表した原文をお借りしました。 2017/3/22

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世界の平和を願って

                  敬宮 愛子                                

 卒業をひかえた冬の朝、急ぎ足で学校の門をくぐり、ふと空を見上げた。雲一つない澄み渡った空がそこにあった。家族に見守られ、毎日学校で学べること、友達が待っていてくれること…なんて幸せなのだろう。なんて平和なのだろう。青い空を見て、そんなことを心の中でつぶやいた。このように私の意識が大きく変わったのは、中三の五月に修学旅行で広島を訪れてからである。

 原爆ドームを目の前にした私は、突然足が動かなくなった。まるで、七十一年前の八月六日、その日その場に自分がいるように思えた。ドーム型の鉄骨と外壁の一部だけが今も残っている原爆ドーム。写真で見たことはあったが、ここまで悲惨な状態であることに衝撃を受けた。平和記念資料館には、焼け焦げた姿で亡くなっている子供が抱えていたお弁当箱、熱線や放射能による人体への被害、後遺症など様々な展示があった。これが実際に起きたことなのか、と私は目を疑った。平常心で見ることはできなかった。
そして、何よりも、原爆が何十万人という人の命を奪ったことに、怒りと悲しみを覚えた。命が助かっても、家族を失い、支えてくれる人も失い、生きていく希望も失い、人々はどのような気持ちで毎日を過ごしていたのだろうか。私には想像もつかなかった。

 最初に七十一年前の八月六日に自分がいるように思えたのは、被害にあった人々の苦しみ、無念さが伝わってきたからに違いない。これは、本当に原爆が落ちた場所を実際に見なければ感じることのできない貴重な体験であった。

 その二週間後、アメリカのオバマ大統領も広島を訪問され、「共に、平和を広め、核兵器のない世界を追求する勇気を持とう」と説いた。オバマ大統領は、自らの手で折った二羽の折り鶴に、その思いを込めて、平和記念資料館にそっと置いていかれたそうだ。
私たちも皆で折ってつなげた千羽鶴を手向けた。私たちの千羽鶴の他、この地を訪れた多くの人々が捧げた千羽鶴、世界中から届けられた千羽鶴、沢山の折り鶴を見たときに、皆の思いは一つであることに改めて気づかされた。

 平和記念公園の中で、ずっと燃え続けている「平和の灯」。これには、核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けようという願いが込められている。この灯は、平和のシンボルとして様々な行事で採火されている。原爆死没者慰霊碑の前に立ったとき、平和の灯の向こうに原爆ドームが見えた。間近で見た悲惨な原爆ドームとは違って、皆の深い願いや思いがアーチの中に包まれ、原爆ドームが守られているように思われた。「平和とは何か」ということを考える原点がここにあった。

 平和を願わない人はいない。だから、私たちは度々「平和」「平和」と口に出して言う。しかし、世界の平和の実現は容易ではない。今でも世界の各地で紛争に苦しむ人々が大勢いる。では、どうやって平和を実現したらよいのだろうか。

 何気なく見た青い空。しかし、空が青いのは当たり前ではない。毎日不自由なく生活ができること、争いごとなく安心して暮らせることも、当たり前だと思ってはいけない。なぜなら、戦時中の人々は、それが当たり前にできなかったのだから。日常の生活の一つひとつ、他の人からの親切一つひとつに感謝し、他の人を思いやるところから「平和」は始まるのではないだろうか。

 そして、唯一の被爆国に生まれた私たち日本人は、自分の目で見て、感じたことを世界に広く発信していく必要があると思う。「平和」は、人任せにするのではなく、一人ひとりの思いや責任ある行動で築きあげていくものだから。

 「平和」についてさらに考えを深めたいときには、また広島を訪れたい。きっと答えの手掛かりが何か見つかるだろう。そして、いつか、そう遠くない将来に、核兵器のない世の中が実現し、広島の「平和の灯」の灯が消されることを心から祈っている。

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# by kfujiken2 | 2022-02-18 08:26 | 未分類 | Comments(1)

【パワースポットと剣豪の決闘史跡】

前の投稿記事の続きとして・・・
【パワースポットと剣豪の決闘史跡】


◆ 狸谷山不動院 (たぬきだにさんふどういん)

狸谷山不動院は、京都市左京区一乗寺にある真言宗修験道大本山の寺院。
桓武天皇が、平安京の鬼門の守護として、咜怒鬼(たぬき)不動明王をお祀りされたのが始まりだとも言われています。
享保3年(1718)木食朋厚上人(きじきともあつしょうにん)が31歳の時、修行にふさわしい場所として狸谷山を開山されました。
『タヌキ谷のお不動さん』の愛称で親しまれるお不動様です。

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交通安全やガン封じのご利益で有名な寺院です。250段ある参道の石段を登り切ると、清水寺の舞台と同じ造りの本堂が現れます。
奥が洞窟という珍しい本堂には不動明王が祀られ、本堂前の柱にはガン封じ・病気平癒の「願かけふだ」がびっしりと掛けられています。境内にはその名の通り「タヌキ」の焼き物が多く置かれています。これは「タヌキ~他抜き~他を抜く」ということから、参拝者が置くようになったのが始まりだとか。他を抜くということから、商売繁盛や芸事上達の祈願に、芸能人やスポーツ選手も多く参拝に来られます。

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境内には、宮本武蔵が修行をしたといわれる「修行の滝」や、車のお祓いができる「自動車祈祷殿」があります。
自転車やランドセルにも貼ることができる交通安全のステッカーは、京都の通りで車に貼ってあるのをよく見かけます。
狸谷山不動院では、特に難病平癒祈願で訪れる方があとを絶ちません。本堂前の柱にはあふれんばかりのお札が掛けられ、体の悪い部分を丸で囲み、「○○の病気が治りますように」と記されたり、「ガンが治りますように」など願掛けが行われています。
また患部を御幣でなでることでガン封じや難病よけとなる『なで御幣(ごへい)』があります。


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http://www.tanukidani.com/


◆ 一乗寺下り松

京都市左京区一乗寺花ノ木町にある松の木、またはその場所を示す名称。
平安時代の昔から、近江から京に通じる交通の要衝にあり、旅人の目印として植え継がれてきた松で、現在の松は4代目である。
平安時代中期から南北朝時代頃までこの地にあった一乗寺にちなんで名付けられている。


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江戸時代初期、宮本武蔵が吉岡一門数十人と決闘を行った伝説でも有名で、1964年の映画「宮本武蔵 一乗寺の決斗」の舞台でもある。宮本武蔵が決闘に向かう途中立ち寄った八大神社は250m程東にある。
夜明け前の、まだ薄暗い一条寺下りの松。そこに集まった吉岡の門弟の数は数百人にのぼったとされています。この時、宮本武蔵は下り松を見渡せる場所に潜み、門弟の配置の様子を確認していました。この時の吉岡の大将は吉岡源次郎。12歳というまだ幼い少年でした。その源次郎の居る場所を見極めた宮本武蔵は、下り松に向けて一気に駆け下り、織田信長が桶狭間で大軍の今川勢をやぶった時のように、門弟たちの背後にまわり、躊躇することなく、元服前の子供だった源次郎を斬りつけたのです。

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武蔵の奇襲攻撃で虚を突かれた吉岡の門弟たちは慌てふためきますが、すぐに気を取り直して、武蔵に向かっていきました。しかし、武蔵は着実に相手を斬り、ついに門弟たちを突破し、南へと逃げ去り、九条大宮にある東寺の塔頭、「観智院(かんちいん)」に暫くの間、身を隠したと言われています。


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http://hatidai-jinja.com


# by kfujiken2 | 2022-02-13 10:26 | 歴史 | Comments(0)

情緒あふれる&侘び・さびの美の名刹

何十年前になりますか、一浪して京都市の予備校に通い、左京区一乗寺の予備校推薦のアパートに下宿していました。
まだ市電が走っている時代で、走馬灯のように思い出が鮮明に甦ります。当時は庭園・歴史に特に興味があった訳ではないです。勉強の合間とは聞こえがいいですが、憂さ晴らしに近くにあるお寺の見学に歩き回っていました。京都観光といえば金閣・銀閣寺・二条城・京都御所・清水寺等を考えますが、洛北に観光コースに余り入っていない知る人ぞ知る寺院・史跡をご紹介します。

◆ 詩仙堂

京都市左京区一乗寺にある、曹洞宗大本山永平寺の末寺「詩仙堂」は、1641年、江戸時代の文人・石川丈山が59歳の時に造営し、その後90歳で没するまでの約30年間を悠々自適に過ごした山荘跡です。丈山はこの地で、漢詩・書・作庭に励んだと伝えられ、隷書体にて記した漢詩などは今も詩仙堂で見ることができます。
木漏れ日が注ぐ石段を登ると、京都市内にあるにもかかわらず、驚くほど静かで落ち着いた庭園に癒されます。四季折々の彩りや日本ならではの風情に満ちたこの庭園は、英国王室のチャールズ皇太子・故ダイアナ妃が訪れたことでも知られています。


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詩仙堂の正式名称は「凹凸窠(おうとつか)」であり、「でこぼこした土地に建てた住居」という意味だそうです。
その中心には「詩仙の間」があり、江戸時代の絵師である狩野探幽が描いた、中国(漢晋唐宋時代)の詩人三十六人の肖像画が四方の壁に掲げられています。各詩人の頭の上には、石川丈山が隷書体で記した漢詩も見られます。詩仙たちが描かれた部屋を中心とすることから、ここは「詩仙堂」と呼ばれるようになりました。
この詩人三十六人の肖像画は、日本の三十六歌仙にならい、石川丈山と林羅山が意見を交わしながら選定したのだとか。経歴・性格が似ている者を相対するように配置し、それぞれの組み合わせに意味を持たせるなど工夫が凝らされています。


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詩仙堂が誇る、日本情緒あふれる「唐様庭園」。建物のなかから美しい庭園風景を眺めたり、四季の移ろいを感じながらゆったり散策を楽しむこともできます。
春にはキリシマツツジやアヤメが美しく色づき、夏にはホタルブクロやキョウガノコが咲き、新緑に囲まれて不思議と涼しさを感じられます。
なかでも素晴らしいのが、秋の紅葉です。白砂やサツキの刈り込みの奥に、遠近感をもって紅葉が広がります。白・緑・赤・黄色とさまざまな色が合わさり、まるで一つの絵画のよう。座る位置によっても景色が変わるため、お好みの場所を探してみるのも楽しいものです。


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※ 詩仙堂丈山寺公式サイト(https://kyoto-shisendo.net/ )


◆ 曼殊院

曼殊院門跡は洛北屈指の名刹である。門跡というのは、皇室一門の方々が住職であったことを意味し、勅使門の両側の塀に残る五本の白い筋はその格式を今に伝えるものである。

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京都市左京区にある天台宗の寺院。本尊は阿弥陀如来、開山は是算(ぜさん)である。竹内門跡とも呼ばれる門跡寺院(皇族・貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のこと)であり、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂門跡と並び、天台五門跡の1つに数えられる。国宝の黄不動、曼殊院本古今和歌集をはじめ、多くの文化財を有する。紅葉の名所である。

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大書院前には遠州好みの枯山水庭園が広がっており、水の流れをあらわした砂の中に鶴島と亀島を配している。小書院は静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現している。鶴島にある樹齢400年の五葉松は鶴を表現している。そして、その根元には曼殊院型のキリシタン灯篭がある。公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向を反映している。
大書院の周辺には、霧島つつじが植えられており、5月のはじめ頃に深紅の花を咲かせる。霧島つつじは宮崎県が原産で、ほかのつつじに比べてやや小ぶりの花をつける。その優雅な姿は美女に例えられる。赤じゅうたんのように花をつけた霧島つつじは、枯山水庭園と調和して殊のほか美しい。その他にも、椿、梅、ソメイヨシノ、サルスベリ、笹リンドウ、サザンカなどの花が四季を通じて咲き誇る。また曼殊院は紅葉の名勝としても有名である。
古今和歌集では詠み方、歌い方、意味等秘事を口伝で伝える「古今和歌伝授 」ということが行われましたが、この秘伝の文学的精神を形に表し、面として表現し、建築・庭園の中に取り入れ造営されたのが、桂離宮であり、曼殊院といわれています。

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※ 曼殊院門跡オフィシャルサイト(http://www.manshuinmonzeki.jp/)



# by kfujiken2 | 2022-02-09 10:52 | 歴史 | Comments(1)


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