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下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その②

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その②

下松市に雪舟の弟子によって造られた、名庭・池泉観賞式庭園があるということを、その①で
ご紹介しましたが、その名庭が存在する旧内藤家屋敷跡が下松市にあるということです!!!
この旧内藤家とは、後にご紹介しますが山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が
奉行三家老家に列せられており、始祖が平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の
五代目にあたる名家なのです。
何故下松市がもっと深く、調査・研究しないのか私には分かりません・・・


【旧内藤家屋敷跡の全体風景】 
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下方に写っている石切が入門の痕跡ではないかと推測しますが、池泉観賞式庭園は写真の
左側、方向的に言えば西側になりきす。

【屋敷跡に設置されている案内板】

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案内板の絵図に示されている【旧内藤家庭園説明図】の拡大です

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それでは旧内藤家屋敷跡にある、名庭・池泉観賞式庭園をご紹介しましょう。

「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸れ)を大きく
穿ち(うがち)奥部に枯滝を構え、向かって右側奥に鶴・亀両島を配置した、池泉観賞式庭園である。
北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは定石通りに飛石が
打たれ、泉池中央及び東部泉池に舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所に
優れた造庭技術を認めることができる。
現在庭にはやや雑草が茂り、中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては
県内最古に属し、地方に於ける造園史の上で重要な様相を有するものである。


※ 池泉観賞式庭園とは、どんなお庭なのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。

池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、   
川があり、池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。

観賞式とは  :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。


【北側から見た池泉観賞式庭園】

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【西側から見た池泉観賞式庭園】

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勿体ぶる訳ではありませんが、長くなるのと詳しく載せ見てもらいたくて、旧内藤家屋敷跡と庭園の場所や内藤氏の歴史は、後日に致します。
# by kfujiken2 | 2017-11-27 17:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その①

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
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【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
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【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

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【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
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※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

# by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

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【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
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拡 大 地 図  (図3)
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【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

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下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

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【図5の道路に面した切岸】 

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【図5のコーナーから上部】

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◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


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【外・内枡形を組合せた虎口】

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# by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

陽気につられて紅葉狩り

今朝は放射冷却の為10度を下る気温だったが、昼前から温度がグングン上がり、
陽気につられてふらりドライブとシャレ込みました。
米泉湖に立ち寄り下松市末武川ダム(米泉湖)の上流に位置します、
せせらぎと紅葉の景観が素晴らしい滝ノ口河川公園に行って見ました。


市内より北に車を走らせ、トンネルを抜けるとそこはイチョウ並木のトンネルです
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モミジとイチョウが鮮やかな赤と黄色のコントラストをつけています
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滝ノ口河川公園のせせらぎです

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逆行をまともに受けて・・・
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# by kfujiken2 | 2017-11-01 16:18 | 風景 | Comments(0)

深睡眠(しんすいみん)とは

楽しみにしていた加来耕三先生の維新150周年によせて「乃木希典と児玉源太郎」の講演会を慢性化したギックリ腰が起こり、残念ですが拝聴することが出来ません
 ((“o(>ω<)o”))クヤシイー!!


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睡眠には、レム睡眠・ノンレム睡眠があります。
レム睡眠・ノンレム睡眠は睡眠中に交互に現れます。
レム睡眠・ノンレム睡眠を合計で4回ずつくらい繰り返すのが、通常の睡眠です。

深睡眠は、これとは別の分類方法です。
深睡眠は睡眠の最初の3~4時間くらいに多く見られる深い睡眠で、ノンレム睡眠中に見られます。特に1回目のノンレム睡眠中に現れます。つまり、深睡眠とノンレム睡眠は別物という訳ではなく、ノンレム睡眠の一部が深睡眠という位置づけです。
このため、レム睡眠が深い睡眠という訳ではなく、最初の方に現れるノンレム睡眠で深い睡眠が訪れるという方が適切です。


深睡眠は、具体的にはいくつか特徴があります。

・成長ホルモンの分泌が最大になる
・脳が最も休んでいる睡眠


成長ホルモンとは、タンパク質の合成を促すホルモンです。
筋肉を付けたい、お肌を元気にしたいなどの場合はとても重要なホルモンです。
そのため、この深睡眠の時間を「お肌のゴールデンタイム」と呼ぶこともあります。
また、深睡眠は脳が最も休んでいる状態です。
睡眠の役割として、脳の疲労回復があります。
脳内の疲労物質やストレス物質の除去が最も効率的に行われるのが、
この深睡眠です。
だからと言って、深睡眠だけとれば脳の回復が十分ではありません。
最適な睡眠時間は、深睡眠後にもしっかり眠る必要性を示しています。


若年者と高齢者における睡眠の一般的な状態

横軸が睡眠時間、縦軸がノンレム睡眠の深さを示している。濃い青がレム睡眠、薄い青がノンレム睡眠。高齢者のグレーは目が覚めている時間だ。なお、ノンレム睡眠のステージ1と2が浅い睡眠で、ステージ3と4が「深睡眠」と呼ばれる。深睡眠を2時間以上取るのは10歳頃までで、それ以降はどんどん減る。一方レム睡眠の量は一生を通じてそれほど変わらない。

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高齢者や老人は若者と違い、睡眠リズムが乱れやすくなります。その理由は、高齢になると中途覚醒が増えるため、睡眠中に何度も目覚めてしまうようになるからです。中途覚醒が増える理由は、年をとると過活動膀胱になることが多く、寝ている時でもトイレに行きたくなるためです。
人間には体内時計が備わっていますが、年をとると体内時計の周期がズレてしまい、24時間周期ではなくなってしまいます。そのため、早朝覚醒をすることが増えてしまい、朝までぐっすりと眠れなくなります。

# by kfujiken2 | 2017-10-29 10:02 | 未分類 | Comments(0)

乃木希典と児玉源太郎

10月29日(日)ホテルサンルート徳山にて、加来耕三先生の維新150周年によせて
「乃木希典と児玉源太郎」をテーマの文化講演会があります。

応募したら招待券が送って来ました。どんな話をされるのか楽しみです。


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因みに乃木希典と児玉源太郎の紹介を簡単に・・・
乃木希典は、嘉永2(1849)年11月11日に、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。

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児玉源太郎は、嘉永5(1852)年2月25日に、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、
長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎の長男として生まれる。


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二人は長州藩の支藩である長府藩と徳山藩士の子供で、3歳違いの長州人の先輩・
後輩の関係です。



二人の逸話を簡単に!!!

児玉源太郎は満州軍総司令官大山巌の承認を得て、第3軍司令官・乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。源太郎は、歩兵のみでは二〇三高地を落とせないことを理解しており、
砲兵兵の柔軟で集中した運用を図ります。
一般に知られている説によれば、明治37年(1904年)12月5日、源太郎は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し、火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け
砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという、
奇抜な作戦を取ったとされる。
そして重砲の援護射撃の下、歩兵による突撃を同時に行い半日で陥落させた。
さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに、
旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦隊は壊滅した。

# by kfujiken2 | 2017-10-24 12:12 | 未分類 | Comments(0)

ドローン女子

昨日NHKの “シブ5時” で 「増えるドローン女子」という面白い番組を放映して
いました。


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『ドローン女子』とは何でしょうか?

『ドローンに興味がある女子』を総称して、そう呼んでいます。

女性の方だけでなく、男性の方にもかなりドローンの魅力、興味がそそられたのではないでしょうか?

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■見たこともない景色を見たい!

私達よりも何メートルも何十メートルも高い空を飛ぶ鳥たち。
鳥はどんな景色を楽しみ、そして何を思って空を飛ぶのでしょうか。
「ドローンを思い通りに動かし、飛ばしてみたい」
「自分がまだ体験したことのない世界を見たい」
と思う方は多いと思います。
ドローンの魅力を考えると、まず頭の中に浮かぶのはそういった
非日常的な体験です。

■何事も慣れが必要
もちろん自由自在に飛ばせるようになるにはある程度の慣れが必要となります。
はじめはうまく操縦できずにもどかしい気持ちにもなるかもしれません。
それを乗り越えて、うまく操縦できた時や空撮した映像を見た時の感動は特別なものであることは
言うまでもありません。
実際に空を飛んだような、鳥にTなったかのような素晴らしさがあるのです。
機体によっては、初心者向けで飛ばしやすいものもあります。
あなたもドローンにチャレンジしてみませんか?

◎資格や免許は不要です。誰でも扱えます!
航空法という名称や、複雑そうなルールなどから誤解を与えやすいのですが
ドローンを飛ばすこと、それ自体に資格や免許が必要というわけではありません。

ただし、以下の点は注意しましょう。
・日中の飛行(夜間はNG)
・目視できる範囲で飛ばす
・人や物から30m以上の距離を保つ
・人が集まる上を飛ばさない
・物を輸送、あるいは落下させない

# by kfujiken2 | 2017-10-18 11:53 | 未分類 | Comments(0)

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


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端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


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それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
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さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
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昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

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現校舎(昭和55年)
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# by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)

下松市に徳山初代藩主・毛利就隆ゆかりのお寺が三ヶ寺ある

来週の日曜日(10月8日) 毛利博物館長・山口大学名誉教授の田中誠二先生の講演「下松藩の成立と展開 ~そして幕末・明治維新へ~ 」を拝聴するにあたり、中々資料が無い中度々調べに行きましたが、再度私なりに何か探してみようと下松藩の居城跡に出掛けました!!!
しかし、目新しいものに出くわさずどうしょうかと思案していたが、すぐ近くに徳山藩初代藩主・毛利就隆が側室のために創建した松心寺というお寺があることに気が付き飛んで行きました。


松心寺(元 永心寺)は、1640年側室永心院のために就隆が創建しました。
徳山に毛利家菩提寺の大成寺が建立されると、位牌等はそちらに移動されたそうです。


山門と本堂です
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本堂の屋根に 「舟形一文字三つ星」 の徳山毛利藩の家紋が分かります 
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本堂西側の墓地に並んで永心院と伊勢姫の墓立っている。石造りの柵が時代を感じらせ、毛利就隆の大事に思う気持が推察できます。
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左側に高さ220cmの下松市内で二番目に大きい五輪塔があります。
これは徳山藩初代藩主・毛利就隆の最初の姫で、特に毛利就隆が竈愛していた
伊勢姫のために立てられたのである。法名は 「祥光院殿瑞中以松大姉」
姫は病弱のため一生結婚せず、46歳で寛文10年(1670)正月11日になくなられた。

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右側が就隆の側室で伊勢姫の母、永心院の墓。高さ145cm
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他の二つのお寺を簡単に紹介しましょう・・・


◆妙法寺  下松市東豊井1152
徳山藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺
妙法寺の本堂の軒にある毛利家家紋が、関係があったことを証明しております。
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http://kfujiken2.exblog.jp/22477410/
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◆周慶寺  下松市中市1丁目9−1
徳山藩初代藩主・毛利就隆の生母「清泰院・二の丸様」の菩提寺で、法名は清泰院殿栄誉周慶大姉。

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http://kfujiken2.exblog.jp/13088390/
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# by kfujiken2 | 2017-10-01 12:37 | 歴史 | Comments(0)

秋日和に誘われて・・・彼岸花を撮影に

"彼岸花”をテーマに調べてみました。

◆ 彼岸時に咲き乱れる”彼岸花”とは
ヒガンバナ科の多年草。土手や田の畦に生える。秋の彼岸のころ、高さ約30センチの花茎を伸ばし、
長い雄しべ・雌しべをもつ赤い6弁花を数個輪状につける。花の後、線形の葉が出て越冬する。
有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・死人花(しびとばな)・
捨て子花・石蒜(せきさん)・天蓋花(てんがいばな)・天涯花・幽霊花・かみそりばななどがある。
彼岸花ほど異称の多い花も少ないのではないでしょうか。




◆ 彼岸花の花言葉は!?
悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに・「再会」「情熱」「独立」「あきらめ」
・・・と諸説あるようです。情熱とは真逆の印象を与える「悲しい思い出(お彼岸)」を連想させる
イメージも同居していて、なんだかミステリアスで意味深いですね。


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◆ 彼岸花が”不吉な花”というイメージを持つ理由は・・・
開花期にふつう備わっているべき葉がひとつもなく、茎の頂上にいきなり花が咲いて、
しかもその花が毒々しいほどに真っ赤であるからです。日本人の感覚では彼岸花の
赤はけばけばしく、そうしたけばけばしさを好ましからざるものと見なすのです。



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◆ 突然現れる”彼岸花”は幽霊に例えられる事も!
1日目に芽が出て、2日目でなんと20cmも伸び、5日目にはつぼみが赤く色づき、
なんと7日目で開花したのです。確かに、ヒガンバナはちゃんと1週間で発芽から開花まで
してしまうのです。



◆ 不吉なイメージが先行する彼岸花だが、不吉な事ばかりではない!?

>「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。


※ サンスクリット語とは: 古代インド・アーリア語に属する言語。ヒンドゥー教、仏教、
シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ない。




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◆ 韓国では”相思華”と呼ばれる

韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいう。これは彼岸花が花と葉が同時に出ることはないから
「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味である。
お互いを見ることの出来ない花と葉がお互いを想い合うだけ。
なんだか悲恋を連想させます。そう考えるとあの強烈な花の色も、毒々しいものではなく、
思いの強さを伝えるものに思えてきます。


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# by kfujiken2 | 2017-09-24 16:48 | | Comments(0)

徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在住の人がいた

今回の投稿は、徳山藩の諸隊・山崎隊の説明がメインではなく、山崎隊の中に下松在住の人が55名いたという説明です。発足した当時ではなく150人前後に増員された時期ではないかと想像します。


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周南市新南陽にある富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
富田護国神社の社殿の後ろに説明版には23柱と記してありますが、実際は32柱の招魂墓碑が並んでいます。これらは山崎隊士だけでなく献功隊士のものだと想像します。
がしかし、この中に下松在住の人が祀られているかは分かりかねます。


山崎隊は下記で説明致しますが、簡単に献功隊について説明しましょう・・・
献功隊は、明治元年に朝気隊、斥候銃隊、武揚隊、順祥隊を合併し、
結成された部隊で、17~40歳迄の士族で構成されています。
後の満州軍総参謀長児玉源太郎もこの隊に在籍していました。



さて、下松在住の人の説明に入る前に、山崎隊について簡単に説明しましょう・・・

山崎隊は、1866年(慶応元年)4月、富田村の庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方として、
「富田隊」という仮称で創設された部隊で、創設地の地名の山崎八幡宮にちなんで「山崎隊」と
改称されました。陣営は、富田新町の浄真寺があてられた。
第二奇兵隊の結成より3カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、
徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
山崎隊は、隊長・宮本小十郎他およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には
80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
1866年(慶応2)6月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、
一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌67年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。
同年、本隊は京都に進駐し、翌68年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに
参加して戦功をあげた。さらに、同年9月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌69年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。


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社殿の前の広場です。創建が明治2年という事ですが、鳥居は何時造られたかは確認しませんでしたが、至ってまだ新しいものです。台風一過のため落ち葉が散乱していますが、よく整備されています。


それでは本日の本文に入ります。
山崎隊へ下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加していた。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は55名である。

「出身村別表」

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出身村別表」をみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町上松浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の30人に対して、海岸市街地は20人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。

「長男と次三男別表」

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山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」をみると、山村出身兵35名中、長男は11名で、次三男は19名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が5名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。

「出身階層表」

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ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。

「年齢別表」

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最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。


以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。又、この表を見ると発足半ばの隊員150人前後の内、下松市在住の人が三分の一を占めていたことが分かる。

※ 下松市史 通史編 明治維新時の下松1 諸隊の動向 山崎隊の結成を参考にさせて頂きました。

# by kfujiken2 | 2017-09-21 08:10 | 歴史 | Comments(0)

取引価格が路線価より大幅に高く!? 新バブル到来?

金融緩和であふれたお金が不動産市場に流入しています。投資家からお金を集めて不動産を買い、
賃料収益などを分配する上場不動産投資信託(J―REIT〈リート〉)で、最近取得された物件の
価格水準が、相続税などの基準となる路線価の平均2・6倍となっていることがわかった。
目安とされる1・5倍程度より高く、一部では10倍超の物件もあった。日本銀行の金融緩和で
あふれたお金が不動産市場に流入し、東京の2017年分の最高路線価はバブル期を超えている。
取引価格も高めになっており、「新バブル」の懸念も出ている。


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今度のバブルでも、もちろん東京、大阪、名古屋の地価上昇が、全国の地価上昇を引っ張っていることには違いがないのですが、地方都市では、九州の福岡市や中国地方の広島市など、ごくわずかの地方中核都市しか上がっていないことが平成バブルのときとの大きな違いなのです。


80 年代のバブルを振り返って見ると、日本全国至る所で地価の上昇が見られた。
一方、現在の地価の上昇は地域による差が大きく、バブルと言うには物足りない。
外国人観光客の増加に伴うインバウンド需要や東京オリンピックに向けたホテル需要が
見込まれる地域、ファンド等による投資が見込まれる地域に限定される局地的な上昇で
ある。政府は地方創生を掲げ、地域活性化に向けた様々な取り組みが行われている。
そうした取り組みは、地方都市の地価にどのような影響を与えるか、東京との地価水準の
格差は縮まるのか。現在の地価の上昇はいつまで続くか、今後1、2 年の動きに注目したい。


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※ 景気の動向

「いざなぎ景気」は、1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの57か月間
「バブル景気」は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間
「いざなみ景気」(戦後最長の景気回復)は、2002年2月~2008月2月までの73か月間
「アベノミクス景気」は、2012年12月(平成24年)から2017年(平成29年)3月までの52か月間


 「いざなぎ景気」: 1965年の証券不況で、金融緩和による金融政策だけでは改善せず、
政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定した事で建設需要が増し、
いざなぎ景気がはじまりました。
1970年の八幡製鐵と富士製鐵の合併による新日本製鐵(新日鉄)の誕生など、貿易や資本の
自由化への対応のために、国際競争力の強化をめざして規模拡大のための企業の大型合併が
多数実現した。トヨタ・カローラや日産・サニーといった低価格の大衆車の発売によって
マイカーブームが起こり、東京オリンピック(1964年)を機にカラー放送が本格化したことから
カラーテレビの普及率が急速に高まった。
所得水準の向上によって、エアコンの購入も増加し、車 、カラーテレビ が新・三種の神器と呼ばれ、
消費の大幅な伸びも見られた。いざなぎ景気の間に日本経済は大きく拡大し、世界第二の経済大国と
なった。

◆ 「バブル景気」: 1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上の毎日繰り返された
不動産価値の宣伝により、地価は異常な伸びを見せる。日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の
大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。
バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な
資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。

◆ 「いざなみ景気」: 2001年からのゼロ金利政策に代表される金融緩和政策が主因で、
2004年の大幅な為替介入で、実質実効為替レートが下がったことによる円安、北米の好調な需要により、
輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高売上高・利益を記録しました。
いざなみ景気は日本の戦後最長の好景気だったにも関わらず、 意外にも誰もそれを実感していませんし
知りません。新聞などでは「かげろう景気」などと呼ばれことからも想像がつくように、好況が
長く続いたとはいえ、たとえばGDP成長率、賃金上昇率などをみれば明らかなように、高度成長期の
好況とは比べものにならない低水準である。実感なきまま進んだ好景気は、2007年アメリカで
起こったサブプライムローン問題によって、アメリカ国内の投資と消費が急激に縮小したことで、
後退していきました。そこに追い討ちを掛けたのが、2008年9月のリーマンショックです。

◆ 「アベノミクス景気」: 2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後の
バブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、
円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。ただ、過去の回復局面と比べると内外需の
伸びは弱い。雇用環境は良くても賃金の伸びは限られ、「低温」の回復は実感が乏しい。


# by kfujiken2 | 2017-09-13 14:21 | コラム | Comments(0)

種田山頭火と層雲の句友・兼崎地橙孫(かねざき ぢとうそん)

兼崎地橙孫は自由律俳句の先駆者・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の
高弟として活躍するとともに、『清明の俳人』として気品ある清明句を多く遺している。
また書家としても名高く、中村不折直伝の六朝体最後の書家でもあった。


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兼﨑地橙孫肖像(提供:吉田紗美子)


徳山藩士・兼﨑昌司(号・橙堂(とうどう))を祖父にもち、父・茂樹(号・地外(ちがい))、
母・トメ(小川官介長女)の長男(本名・理蔵)として、明治23年に生れました。
中学時代から句作を始め、明治43年全国巡遊の途にあった河東碧梧桐と下関で出会い、以来師と仰いでいます。層雲の句友、種田山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
熊本五高を経て京都帝国大学法学部を卒業し、大正13年下関にて弁護士を開業、のちに山口県弁護士会会長に就任しました。
下関空襲により被災し、徳山市舞車に疎開する。弁護士として活躍する傍ら、県俳句界の指導者として後進の指導にあたりました。人にやさしい真摯な生き方は、多くの人たちの
心を惹きつけ、その精神は気品ある「清明句」として開花しました。


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※ 六朝体(りくちょうたい): 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体だそうです。

※ 自由律俳句: 五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。
          季題にとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きが置かれる。


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兼﨑地橙孫句碑
この辺りを上御弓丁(かみおゆみちょう)というそうですが、正に武家屋敷らしい地名ですね!


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兼﨑地橙孫第二句碑
昭和24年に詠んだ句です。東川に架かる 舞車橋を渡った側にあります。
# by kfujiken2 | 2017-09-08 11:15 | 歴史 | Comments(0)

関ヶ原の戦いの真実

評判の映画・岡田准一主演『関ヶ原』を観にいきました。

この映画は観客に関ヶ原の戦いの予備知識があることを、前提にしているというのも感じました。
戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、過去の有名な戦である「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」「賤ヶ岳の戦い」等は一対一の個人戦でしたが、「関ヶ原の戦い」は東西に分かれた戦国大名の寄せ集めの団体戦だった違いがあり、戦国大名に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
おまけに、戦闘自体が6時間で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられていません。


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◆ 戦国時代とは何ぞやを少し説明しましょう・・・
日本の歴史ににおいて、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分です。乱世により
室町幕府の権力は完全に失墜、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
戦国時代の期間は、室町時代に起きた応仁の乱に始まり、安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いが
最後と言われています。
この戦国時代の戦いは、権力闘争には違いありませんが、いずれも背景や経緯が非常に複雑である。
つまり、群雄割拠の時代ですからゴチャゴチャしすぎてて、当時の上下関係・人間関係・時代背景
が難しいですよね!


◆ 関ヶ原の戦いの経緯について説明します。
五大老の長の徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を名目上の総大将とし五奉行の長である
石田三成を中心とする西軍が起した戦いである。
引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将(武断派と呼ばれるグループ)と内政・経済・
宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた(文治派)の対立であり、現地武将たちの戦線縮小や
撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった。


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◆ 名目上の総大将としての毛利輝元はどうであったか???
毛利輝元は名目上の西軍総大将として大坂城に入城しますが、毛利家中では、東西いずれの陣営に
付くべきかで意見が分かれ、混沌とした状況となった。これを裁断すべき立場にあったのが輝元
だったのだが、長年彼をサポートしていた有力な血族の多くは既に亡く、輝元に的確な助言を
できる者は家中にいなかった。
関ヶ原の戦いでは一門を率いたのは長府藩主毛利秀元で、毛利軍本隊は西軍の一部として関ヶ原
南宮山に布陣した。だが、吉川広家の背信行為によりそれ以上の進軍を押し留められて本戦には
参加できず、合戦を傍観する羽目になった。


◆ 関ヶ原の戦いおける両軍の戦法は・・・
西軍は石田三成が戦を指揮した経験が少なく各将を統率出来なかった。
宇喜多秀家、小西行長、大谷刑部等とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に
戦っているだけで部隊間の連携が取れていなかった。
一方東軍の戦上手の徳川家康は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から
包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。
つまり、西軍の単独プレーに対し、東軍はチームプレーだったということです。


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◆ 最後に関ヶ原の戦いの武器についてウソらしいホントの話を!!!
西軍8万2千、東軍7万4千だそうですが、関ヶ原の合戦当時の主力武器は何と言っても槍と鉄砲です。
と言っても兵の約1割が鉄砲を装備していた言われていますので、飛び道具では戦争になりません!
鉄砲で銃撃した後、大将による「進め」の号令と共に、槍部隊がズンズン歩いていき、近くまでくると
「ワー」と入り乱れての戦闘になるのです。
槍は、手放すことのできない武器でした。鉄砲は弾込して射撃するまでにおよそ15秒もかかるため、
一撃で相手を倒さないと逆に相手にやられてしまうかもしれません。接近戦には不向きで、
ひとたび乱戦になってしまえば、ほとんど使えなかったそうです。
接近戦は、ほとんど槍の突き合いです。リーチの短い刀で戦うのは不利ですからね。
というか、刀を持っている兵士はほとんどいなかったそうです。鉄砲は遠距離攻撃に使っていましたが、
接近戦でも飛び道具はあります。古来よりおなじみの弓矢です。関ヶ原でも、もちろん弓矢は
使われています。鉄砲の普及により、飛距離の短い弓矢は、飛び道具としての価値が薄まったような
イメージを持ちますが、距離はともかく、速射も可能という点で、戦闘には欠かせない武器だったようです。
関ヶ原の合戦には、九州で「国崩し」と呼ばれた大筒も用いられています。発砲するのは攻城砲といい
ただのでかい鉄玉なので、別に着弾と共に爆発するわけでもありません。
それ故に、野戦では威嚇程度にしかなりませんでした。

# by kfujiken2 | 2017-09-02 12:18 | 未分類 | Comments(0)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part3

長門市を後にし萩市に向かう・・・
昔、通った本州西端を周回している国道191号は、JR山陰本線と並行し部分的に峠越えの区間もあったかも知れないが、海岸沿いのルートだった様に記憶している・・・
萩・三隅道路が2008年 - 2011年に開通し、山口県長門市三隅中から山口県萩市椿に至る延長15.2kmの高規格幹線道路で、山陰自動車道に並行する国道191号線の自動車専用道路だがトンネルばかりです。
国道262号線を北に進み、国道191号線(北浦街道)の弘法寺前の交差点を左折し萩博物館前の駐車場に
到着しました。萩博物館と北の総門は時間が無いのと、昨年萩を訪れた時見学したので今回パス!


萩城跡の外堀(南側より)
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萩城跡外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀で、堀幅は、江戸時代の初めには20間
(約40m)でしたが、堀端に町屋が造られて、14間(約28m)、8間(約16m)と狭まりました。今回の整備は、堀幅が8間の時代を基本に行ったそうです。


次の観光ポイントは、萩城跡の外堀から5分足らずで行ける全長250m、幅員3mの道 の 「菊屋横町」
旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されている。藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある。晴れた日には、太陽の光が反射してまぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。

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※ 御成道(おなりみち)とは:藩主が参勤の際に通ったことから「御成道」とも呼ばれる
萩往還 をいう。



「萩・明倫学舎」を見学したかったのだが、津和野のお稲荷さんに寄ってお札を貰って帰ろうと思っていたので時間的に無理でした。次回の楽しみに残しておきました・・・


「郡司鋳造所遺構広場」~大砲を製造した鋳造所跡~


郡司家は萩藩の鋳造師(ちゅうぞう=金属を加熱・溶解し、これに形を持たせた鋳造に流し込み凝固させ、
所定の形状の製品を作る金属の加工技術です)で、江戸時代を通じて鍋・犂先(すきさき)などの生活用具
だけでなく、大きな様式大砲など兵器に至るまで、多様な銅・鉄製品を鋳造しました。

郡司家が鋳造した大砲は、下関戦争が原因でほぼ行方不明になっています。文久3年(1863年)に
長州藩は下関海峡を通過する外国船を3度にわたり攻撃したのですが、イギリス・フランス・オランダ・
アメリカ、そして四国の連合艦隊は、翌年の元治元年(1864年)に下関沿岸砲台に報復攻撃。これに
より各砲台は壊滅状態に。それぞれの砲台は破壊もしくは戦利品として持ち帰ったため、国内はもちろん
欧米にもわずかな数しか残っていません。ちなみに下関戦争では24ポンド砲や32ポンド砲が使用されて
います。


大砲のレプリカが展示してあります。

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郡司鋳造所跡の説明板
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左からブロックごとに拡大します。
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下の写真(上の説明版の真中)のように3つの窯で銅や鉄を溶かし、真ん中の鋳型に流して固めていたとされています。実は今までどのような方法で大砲を作っていたのか分かっていなかったのですが、平成12年(2000年)に山口県埋蔵文化財センターが行った発掘調査により、石組や大砲鋳造遺構をはじめ、実際に使用された鋳型も多数発見。これらの情報を合わせると、写真のように鋳造していたと考えられるそうです。実際に発掘された郡司鋳造所関連のものは、萩博物館に展示されており、山口県の有形文化財に指定されています。

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郡司鋳造所については世間的に知られていないのか、萩においては他の観光地の方が魅力なのか、休日にあったにもかかわらず人はほとんどいませんでした。やはり実際に使用された現物でないと観光客の方は魅力を感じないのだろうか。松陰神社のすぐ側にあるので(徒歩2~3分)足を運ぶのもいいのではないかと思います。
# by kfujiken2 | 2017-08-30 10:09 | 未分類 | Comments(0)

書道と着物は和文化の象徴的存在である。


昨日スターピアくだまつの2F展示ホールで開催されている「第27回 墨泉会書展」を
見学に訪れ、小柄で和装がよくお似合いな素敵な女性の春葉さんに迎えて頂きました。

記録や伝達の手段として生活に欠くことのできない文字、古代中国で生まれた漢字も
その一つです。中国と日本で発展を遂げた「書」は、墨と筆によって紙に書かれた文字を
意味だけでなく色や造形、構成といった要素を含めて鑑賞する芸術です。


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さて、春葉さんの作品をご紹介しましょう。
昨年の出品は「豊穣(ほうじょう)」と「藝(げい)」、今年が「情熱」と「譽(ほまれ)」です。
古式豊かな異体字「藝」、「譽」は日本文化を感じらす漢字ですよね・・・
私が春葉さんに、何故2字とか1字の大きな文字を選ぶのですかと訪ねると、
彼女曰く、多い作品の中で目立たすにはゴチァゴチァ書かず端的な方がいいと!!!
なるほど そりゃそうだと納得しました。


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春葉さんが説明して下さるには、この「情熱」という文字は3本の筆を同時に持ち、
先に金粉を散らして置き、書かれたそうです。
勢いのある文字ですが、女性らしい優しさを表現する曲線がいいですよね~
正に墨アートです・・・ 素人が勝手な批評してごめんなさい m(__)m



マットに着物の布を使用するのは、
春葉さんの得意なパターンで一目見たら、春葉さんの作品と分かります。

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※ 【ちょっと一言】 書道と習字の違いは・・・
習字はその名の通り、「字を習う」という意味であり、教わった通りお手本を真似字をきれいに
書くことに主眼を置いてます。
書道では、「美しく書く」ことに加えて、どれだけ自分の個性を「字」を通して表現できるかに
着目した芸術の1つだという決定的な違いがあります。

# by kfujiken2 | 2017-08-27 15:24 | 未分類 | Comments(0)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part2

おっとと~ 寄り道したのを忘れていた!!

国道316号線を北上し湯本温泉街に入り大谷山荘が見えて来た。
昨年プーチン大統領が宿泊され、安倍総理と日露首脳会談が行われた大谷山荘を
見学する訳にも行かず、ならば大内義隆父子が自刃された大寧寺にお参りして行こう
と立ち寄りました。


大寧寺は皆さんよくご承知とは思いますが、1551年(天文20)、陶晴賢の反逆により山口を追われた
大内義隆は、仙崎から海路九州へと逃れようしたが叶わず大寧寺に籠もったが、陶軍の攻撃を受けて
9月1日寺内において自刃した。


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※ 【ちょっと一言】 大寧寺開基は長門守護代・鷲頭弘忠(わしず ひろただ)とありますが、
鷲頭家の始祖は、周防国鷲頭庄(現在の下松市近辺)を所領とした大内氏の一族で、
鷲頭弘忠は6代目にあたる、つまり下松市に居を構え下松市にゆかりのある一族ということです。



「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」
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盤石橋 (ばんじゃくきょう)

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本堂に通じる第一の橋を盤石橋と言います。 全長14.2メートル、幅2.4メートル。橋下に大寧寺川の渓流が
美しい。 自然石を巧みに組み合わせた橋の工法が見事です。
かってこの橋は、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇橋」のひとつに数えられました。
橋の巨石に漢詩と建設の記録が刻まれています。


仏法を守る石彫 釈迦三尊と十六羅漢

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# by kfujiken2 | 2017-08-24 09:10 | 未分類 | Comments(2)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part1

とりあえず西から東へと山陽自動車道の美祢ICで降り、国道316号線を北上し長門市へ!!!目的地童謡詩人・金子みすゞ記念館へひとっ飛び・・・

みすゞが幼少期を過ごした書店・金子文英堂の店の前と店内
当時の復刻版が並んでいる

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一階部分 すぐ左側に二階に上がる階段がある。
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二階にあるみすゞの部屋 窓から通りを眺めていたとか。

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※ 【金子みすゞ記念館】 は撮影禁止 クリックすると金子みすゞ記念館のホームページに
ジャンプします。



みすゞモザイクアートM2012

木片ピース20,000個を使って作られた立体モザイクアートです。女学校時代と20歳のみすゞの
肖像画と王子山から見た仙崎の風景、青海島の変装行列をモチーフに作られたもので、左右、正面からと
3方向で違ったモザイクアートを見ることできます。

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プロジェクトM20000


長門市仙崎のみすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」は、
蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。
この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すとブラックライトに
照らされた大羽鰮の大群が浮かび上がります。


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入口正面の壁面には、イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画が、
プリントされています。

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駐車場側の壁面には、12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版が、
プリントされています。

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# by kfujiken2 | 2017-08-21 16:01 | 未分類 | Comments(0)

「弾除け神社(三坂神社)」

戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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# by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)

憲法改正

憲法改正が兎や角いわれている昨今、我々国民にはピンとこない問題ですが、
あなたは真剣に考えられたことがありますか?
なぜ憲法を改正する必要があるのでしょうか? 憲法が改正されると、私たちの生活に
どんな影響があるのでしょうか?


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ちなみに立憲国家での憲法改正がドイツでは59回、アメリカが6回、フランスが27回、
イタリア、カナダなども10回以上なされています。他の先進国との比較という点で見ると、日本の0回というのは異例と言えるでしょう。
日本国憲法は改正するのが難しい「硬性憲法」で、1947年の施行以来、一度も改正されたことがありません。改正議論自体はこの約70年の間に何度も行われております。
先ずその真意は、作られた時代と現在では諸事情が違い、そぐわないと言うか対応出来ない為である。
「戦後GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)のつくった憲法ではなく、日本国として独自の憲法を持つ」という点にあります。


※ 硬性憲法とは・・・憲法に関する論考において改正の困難さで各国の(広義の)憲法を二つに
分類した場合に、改正が困難な側に分類される憲法のこと。


憲法改正の条項は多数あると思いますが、特に問題点は第9条と第96条ではないかと
判断します。


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第9条・条文


1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、
永久にこれを放棄する。

2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


つまり、第1項で「戦争の放棄」、第2項で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」を定めている。


【憲法第9条の改正草案】
この改正案で条文が下記のように変わる。

1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たるとしての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段として用いない。
2.前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。

第9条の二が補足される
わが国の平和と独立並びに国及び国民の安全を確保するため、内閣総理大臣を最高指揮官とする国防軍を保持する。


では第9条を改正するメリット・デメリットは・・・
◆ 憲法9条を改正するメリット
* 現状と憲法との相違をなくせる
* 自衛官の負担を減らし命を守れる
* 海外での邦人救出

◆ 憲法9条改正のデメリット
* 戦争ができる国になる
* 他国(米国)の戦争に参加させられる
* 徴兵制が復活する


※ 「戦争の放棄」という言葉が削られ、「安全保障」になる。「戦力は保持しない」「交戦権は認めない」という言葉も削られるけれど、一方で、「国防軍」を持つことが明記されている。

憲法第96条・・・日本国憲法の改正手続きについて定めた条文です。

各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。



【憲法第96条改正草案】 この改正案で条文が下記のように変わる。

衆議院又は参議院の議員の発議により、両議院のそれぞれの総議員の過半数の賛成で国会が議決し、国民に提案してその承認を得なければならない。この承認には、法律の定めるところにより行われる国民の投票において有効投票の過半数の賛成を必要とする。

※ グローバル化もめまぐるしく進んでおり、変化する時代にこれだけ憲法改正のハードルが高いと迅速かつ柔軟に対応できないので、緩和しょうというのが憲法改正の狙いである。
# by kfujiken2 | 2017-08-09 11:42 | 未分類 | Comments(3)

江戸時代塩田の歴史遺構・柳井市「天津橋」

柳井市は度々お邪魔しているのですが、金魚ちょうちんの撮影に行った時、
何か歴史的に珍しいものはないかとネットで調べていると、江戸時代塩田の
歴史遺構の橋があることを知りました。


慶応元年に改修された「天津橋」は、ビジコム柳井スタジアム(柳井市民球場)の敷地内に移設、一般公開されている。天津橋は花こう岩を組んだ石橋で全長約15メートル、幅1・8メートル。川の両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する刎橋(はねばし)構造で、橋脚がないのが特徴だ。


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構造のイラスト図面です

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◆ 柳井市ホームページよりお借りしました ◆

両岸から桁石(けたいし)を斜めに張り出し、桁石の先端に橋桁の石を乗せ架橋する
刎橋(はねばし)構造

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橋が架けられた柳井浜は、江戸時代の1810年に柳井川河口を開発した塩田で
総面積は約24ヘクタールあった。東浜と西浜に分かれ、両浜の間には海水を取り
入れると共に釜をたく木材を運び入れ、塩を搬出する堀川(中川)が設けられた。
両浜を結ぶ天津橋は当初は木製の橋だったが、文政13年(1830)に石橋に架け
替えられ、現存する橋は慶応元年(1865)年に改修されたものである。
上荷船の通行のために、橋脚を設置しない、弓を張った形をなす張出し式の石橋である。
橋脚がないことから地元では「幽霊橋」と呼ばれ親しまれてきた。
柳井浜は、昭和34年の塩業整備臨時措置法の成立を機に製塩業を廃止することと
なった。そして昭和39年に日立製作所が柳井へ進出するに伴って、塩田及び中川は
埋め立てられた。
天津橋は、その後に進出した(株)ルネサス柳井セミコンダクタの工場敷地内に存続し
続けた。


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昭和30年ころの堀川に架かる天津橋
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# by kfujiken2 | 2017-08-01 10:48 | 歴史 | Comments(0)

金魚ちょうちん祭り

8月13日の「金魚ちょうちん祭り」に向けて、あちこちで金魚ちょうちんの飾りつけの準備が進んでるようです。

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赤と白のすっきりとした胴体に、パッチリと黒い目を開いたおどけた顔の「金魚ちょうちん」。
割り竹で組んだ骨組みに和紙を貼り、赤と黒の染料で色付けして作られ、今では夏の風物詩として、
白壁の町並みにも彩りを添えています。
柳井いろはかるたにも「軒にゆらゆら 金魚ちょうちん」と詠まれ、大きなしっぽの赤い金魚は、
どこかユーモラスで人々に愛されています。
愛嬌のあるその姿は、全国民芸品番付でも上位にランクされるなど、山口県の代表的な民芸品
として成長しました。

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JR柳井駅中央ホールに全長4メートル、胴回り3メートルで、通常サイズの10倍にあるそうです。
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明治・大正時代のオシャレな雰囲気が漂う麗都路(れとろ)通り。
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●金魚ちょうちんの由来●


江戸時代から明治にかけて、柳井津金屋でロウソク屋を営んでいた熊谷林三郎(さかい屋)という人が、
青森のねぶたにヒントを得て、伝統織物「柳井縞」の染料を用いて「金魚ちょうちん」を創始したと一説には
いわれています。林三郎の死後は、息子の定治が宮本の姓となり、看板屋を営みながら「金魚ちょうちん」を
作り、二代目となりました。
そして定治の息子も看板屋を営みながら「金魚ちょうちん」を作り、三代目となりましたが、その息子は福田の
姓となって小間物屋を営み、「金魚ちょうちん」は作りませんでした。
そこで本町通りで、洗い張り業をしていた長和定二という人が、三代目から作り方を習い、四代目となりました。四代目は第二次世界大戦頃まで「金魚ちょうちん」を作っていましたが、その後は作らなくなり途絶えて
いました。しかし、四代目が昭和37年に他界される直前に、文献により柳井に昔「金魚ちょうちん」というものがあったことを知った周防大島町小松に住む上領芳宏さんが、四代目が光市大和町岩田に生存している
ことを知り、「金魚ちょうちん」を復活させ五代目となりました。昭和37年7月のことです。
独自の技法を加えて今日の美しい金魚ちょうちんを完成させたのは、この上領芳宏さんです。
「金魚ちょうちん」は、古くは多くの家々でおとなが作って子供に与えていました。
また、氏神様の祭礼などの「お迎えちょうちん」の中に交じって、彩をそえていたそうです。
昭和期に発行された日本郷土玩具番付(日本郷土玩具の会)等でも上位にランクされるなど、
山口県の代表的な民芸品にまで成長しました。


柳井商工会議所の【やないの魅力伝え隊】のホームページを引用させて頂きました。
# by kfujiken2 | 2017-07-30 07:58 | 未分類 | Comments(0)

光市の夏の風物詩!長く愛される伝統のイベント!

昨日、虹ケ浜海岸で第25回「サンドアートin光」が開催されました。

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サンドアートとは、干潮時に2時間程度出現する干潟を利用し、子どもから大人までが一緒になって、砂を素材とした作品を作りその出来栄えを競うものです。
大潮の日を選んで開催されるようですが、残念なことに昔と比べ虹ケ浜海岸の様相が随分変った様に思います。昔は波打ち際から砂浜の最上部までの幅(奥行き)の距離がもっとあった様に記憶しております。
砂浜の侵食があり幅が減ったのでしょうか???


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潮が完全に引き砂浜状態になり、側に近寄ってサンドアートが撮影出来ると、
広角レンズしか持って行かなかったのです。
あにはからんや 水深が深い訳ではありませんが海水に入らなければ会場の
砂浜まで行くことが出来ません!!!
慌てて望遠レンズを車まで取りに帰りました 疲れた 。・゜・(/Д`)・゜・。うわぁぁぁぁん


アトラクションで熟女と子供達のフラダンスが演じられました。

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# by kfujiken2 | 2017-07-24 07:41 | 未分類 | Comments(0)

万葉の森の大賀ハス

万葉の森茶室前の池には、縄文時代に咲いていたという「大賀ハス=古代ハス」が、
約2,000株育っています。

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見物できる場所からハスが咲く場所まで1~2メートルほど距離があります。
そのため手で触れたり、間近で見ることができません。また周囲は木々に囲まれて
いるので、景観は悪くありませんが開放感はあまり感じない。


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大賀ハスは、昭和26年千葉県の検見川遺跡で発見された種子を栽培し、開花に成功したもので、発見者の大賀一郎博士にちなんで命名されました。花が咲き始めるのは朝5時頃で、満開になるのは朝8時頃です。

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ここ万葉の森の大賀ハスは、1976年に岡山から4株の蓮根を譲り受け、周南緑地の一角を「万葉の森」として造成・整備するにあたり、昭和51年に西緑地公園の池に移植され、翌年に開花したのが始まりです。


最後にマクロで・・・

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# by kfujiken2 | 2017-07-19 09:38 | | Comments(0)

今から99年前に徳山湾でおこった悲劇をご存知でしょうか?

1918年(大正7年)7月12日、徳山湾に浮かぶ仙島の近くで、戦艦「河内(かわち)」の乗組員621人の尊い命が奪われた悲しい出来事がありました。
慰霊祭のある仙島には、福川の高州漁港から船で行くため、一般市民は容易に参加することが難しく、毎年30~40人の参加者で行われます。慰霊祭に参加した人だけで語り継ぐことが難しいと共に、顕彰会や保存会もなく、あまり知られていない出来事です。
大津島の回天記念館、周防大島町の陸奥記念館などは知られていますが、語り継ぎたい歴史がここにもありますのでご紹介します。


戦艦「河内(かわち)」
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戦艦「河内」の沈没場所
仙島(山口県周南市大字富田) 北緯34°0分・東経131°46分

戦艦「河内」の概要

「河内」は、第1次世界大戦前の1912年に日本海軍が竣工させた弩級(どきゅう)戦艦です。
それまではヨーヅロッパなどから輸入していましたが、日本の技術力の向上により設計・建造された
世界でも群を抜く性能の国産初の大型戦艦でした。
「弩級」とは、大型で巨砲を持つことが戦艦の戦力として競い合われる中、当時の世界最大砲12インチ砲を装備した1906年のイギリス最新鋭大型戦艦「ドレッドノート号」の性能を持つ戦艦のことであり、
「ド級」と呼ばれ、漢字をあてて「弩級」と表されました。
「河内」は、排水量20,800トン、全長152.4m、全幅25.7mという大きな艦体に、新設計の50口径(30.5cm)の主砲や副砲などドレヅドノート号の性能を上回る多くの装備を搭載していました。
しかし、この最新鋭の軍艦が、わずか6年で沈没してしまったのです。それ以前にも、日露戦争後の
1905年(明治38年)から1917年(大正6年)までの12年間に、7隻も軍艦の爆発事故が発生しており、
それに続く「河内」の爆沈事故は、日本海軍にとって大きなショックとなりました。


戦艦「河内」の惨劇


第1次世界大戦終わりの頃です。国内は、平時でした。戦艦「河内」は、訓練の途中で、
前日からの荒天を避けるために、他の艦艇(山城、扶桑、伊勢、摂津、河内、利根、他駆逐艦)と共に
徳山湾に停泊中でした。
各艦艇では、夕食の準備に追われていた時刻の午後3時57分、突然右舷前部主砲塔付近で2回の
爆発が起こり、大音響と同時に砲塔周辺部や煙突から大火災が発生し、周辺には無数の鉄片が飛散し、
火柱と黒煙の渦が天空を覆いました。
巨艦は急速に右舷側に傾斜し、大爆発後4分という速さで転覆し、艦底の一部を海面に現しました。
瞬時の出来事で、多数の人が中に閉じ込められ、辺り一面が血の海と化していきました。
乗員1,020名の将兵のうち、621名が殉死となる大惨事となったのです。
最新鋭軍艦の爆沈原因を探るため、徹底的な調査が行われ、家族や親族、交友関係まで
巻き込むものでしたが、幹部将校をはじめとする乗員の殉職者があまりにも多く、
また残骸の回収調査も思うように進まなかったため、確証が得られず原因不明のまま
謎の事故として終わりました。
この大きな犠牲を契機に、海軍では危機管理を徹底する方針を打ち出しました。
その結果、1943年(昭和18年)の戦艦陸奥爆沈までの25年間、事故はありませんでした。


戦艦「河内」の慰霊祭


地域住民の犠牲者を偲ぶ気持ちは、事故後も変わりませんでした。翌年の1周忌に富田町長が
発起人となり官民上げて仙島干渡に慰霊碑が建立されました。慰霊碑のある黒髪島と仙島の間の
砂州(干渡)は、遺体の処理が行われた場所でした。lOm近い高さの慰霊碑の奥に茶毘に付した納骨堂が
あります。
この場所は、船着場がなく海が荒れると降りることがでません。


軍艦河内殉難者英霊之碑
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YMD特設ブログ所様より画像をお借りしました。

参考資料  徳山地方郷土史研究会 田中賢一
        YMD特設ブログ所

# by kfujiken2 | 2017-07-15 14:41 | 歴史 | Comments(0)

旧山陽道の門前宿場町・下松市花岡の史跡

【花岡勘場跡】

萩藩創建期の頃に設置された都濃宰判(代官所)の跡地。
代官は年3回春秋冬に萩から出張して重要な決裁を行っていた。日頃は大庄屋が出勤して
代官の代わりを務めていたという。付近には、御茶屋(本陣)・御番所・高札場などがあり、
花岡がこの地方の政治文化の中心であり、交通の要所であったことがうかがえる。


花岡八幡宮に奉納された絵馬に描かれていたものだそうです。
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絵図の左側が御茶屋、右上が勘場、右下が御番所。

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【春雨桜碑】 

幕末の長州藩主、毛利敬親公にまつわる春雨桜の碑です。
文久元年、毛利敬親公が上京しているとき、病になられたそうです。花岡の本陣に至って病気は重く、
約2週間を間、静養されました。その折に、庭の桜を眺められ、樹下の砂鉄が花の眺めを妨げることを
心配されたそうです。
明治37年、敬親公遺愛の桜として、公の雅号から春雨(しゅんう)をとって「春雨桜」と称し、
記念碑を建立しました。撰文は楫取素彦によります。


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桜の古木はどこにあるのだろうか?
枯れたのだろうか? 説明版がないので分からない (´∩`。)ハテ
側にある若木のこの桜は、2代目なんでしょうか!!!

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【天然記念物 花岡の槙柏】

この高木は「槙柏(しんぱく)」といい、ヒノキ科の常緑針葉高木でイブキの変種だそうです。
絵図の左側見えるのが槙柏で、勘場の屋敷内に植えられていたようですね・・・

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大砲が二門置かれているが、防御のために備えていたのかな~
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【場所】
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# by kfujiken2 | 2017-07-12 11:51 | 歴史 | Comments(0)

「忍びの国」

久々歴史時代劇と思い「忍びの国」を観て来ました。

史実に基づいた天正伊賀の乱(伊賀国で起こった織田氏と伊賀惣国一揆との二度に渡る戦いの総称)を
題材とした小説を映画化したのには違いありません!
3Dを駆使したアクションや格闘のシーンは迫力ありましたが、「映画 怪物くん」の主演・嵐の大野智さんが
演じているからと言うの訳ではありませんが、まんがチックな、アニメチックな映像が多かったです。
天正伊賀の乱が時代を動かしたというメジャーな事件&出来事ではないので、知る人ぞ知るということで、
背景がよく分からないため歴史映画というより、正に戦国エンターテインメントです。


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伊賀忍者の詳細は、後世には今ひとつ伝わっていません。
いま風に言うと 「忍者の人材派遣会社」 のようなものだったようです。
各地で戦乱が起こっている戦国時代、各勢力が他の勢力に援軍を求める事はよくありました。
伊賀には 「忍術」 が発達していましたから、伊賀に依頼される援軍には、
当然 「忍者」 としての活動が求められます。
「潜入」、「諜報」、「かく乱」、などなど・・・
伊賀忍軍は依頼に応じてそれらの仕事をこなし、そして報酬を貰うと言う勢力になったようです。
ある意味 「傭兵」 的なのですが、忍者の仕事は戦うだけではなく、むしろ戦いを避けつつ行う
裏工作を行うのがメインでしたから、やはり 「傭兵」 と言うよりは、「人材派遣」 というか
「仕事人」 というか、そんな感じだったようです。
伊賀忍者たちは、「上忍三家」と呼ばれる服部・百地・藤林の三氏によって統率されていたと
言われています。
徳川家 に仕えた伊賀忍者たちは、徳川幕府 が開かれた後は 「伊賀同心」 と呼ばれ、
忍びの技術を持つ侍として、その後も警護や護衛などの職務を務めました。
第8代将軍・徳川吉宗のころには、御庭番という幕府の役職で将軍から直接の命令を受けて
秘密裡に諜報活動を行った隠密をさした。

# by kfujiken2 | 2017-07-04 10:49 | コラム | Comments(0)

天才棋士・藤井聡太四段

将棋の公式戦で一度も負けずに歴代最多の連勝記録に並んでいた中学3年生の藤井聡太四段が、26日、東京で行われた増田康宏四段との第30期 竜王戦決勝トーナメント の対局に勝ち、連勝を「29」に伸ばしました。藤井四段は連勝記録を30年ぶりに更新し、プロ1年目にして歴代単独1位となりました。

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記録抜かれた神谷八段は「天才が実力で抜いた」とコメントしており、師匠の杉本昌隆七段は
「大舞台で29連勝は驚がく」とコメントしています。
お笑いタレントの大竹まことさんが「調子に乗らすな」「誰かシメてやれ!」とテレビ番組で
発言し激しい批判を浴びているが、ネット上では素晴らしいことではあるが「偶然なのでは?」と、
藤井四段への疑問の声が挙がり始めています。
こうした背景には、藤井四段に関する報道の異常なフィーバーぶりにあるのではないでしょうか?
アマチュアの私はプロの将棋の内容を云々する気はないですが、14歳の中学三年生ですよ!!!
されど「AI」こと将棋ソフトを積極活用して急速に力をつけた「AI(人工知能)時代の申し子」で
新時代の棋士には間違いない・・・


第30期 竜王戦決勝棋譜
  このアンダーラインの第30期 竜王戦決勝棋譜をクリックすると将棋盤画面が出て来ます。左側の= 開始局面 = のスクロールを一番下に下げ *91▲3八飛 をクリックすると最終局面に変わります。

91手までの説明で終わっているので、僭越ながら初心者の私が超初心者の人に最後の詰みまでをご説明します。

◆ 増田四段が1九角成で香車(きょうしゃ)をとり、藤井四段が3四飛で金をとり
増田四段が3四同金で飛車をとり、藤井四段が5三金で王手、増田四段同銀で金をとり
藤井四段が5三馬成での詰み ◆

# by kfujiken2 | 2017-06-29 12:32 | 未分類 | Comments(0)

東大寺別院阿弥陀寺 あじさいまつり

東大寺別院阿弥陀寺は、東大寺再建のため周防国へ西下した俊乗房重源上人が、
後白河法皇の現世安穏を祈って、文治3年(1187)に建てた古刹。
阿弥陀寺境内には80種類4,000株の紫陽花が植樹されているそうです。


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林寛孝住職曰く、アジサイの花の色は七変化することから、花ことばは「移り気」と言われていますが、
仏の世界観からアジサイを眺めると、アジサイは私たちに「人生は無常である」ことを教えてくれて
いるのではないでしょうか。人生は楽しいことばかりではなく、また、つらいことばかりでもありません。
一日、一日を大切に生きてほしいと願いながら、色彩豊な姿で、アジサイは私たちを見守ってくれて
いるのです。


総門である仁王門の周囲には、山アジサイや本アジサイが多いように思われるが、
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本堂の周囲はガクアジサイや西洋アジサイが多いです。

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仁王門をくぐり右手に水車があり、
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更に右手に巨木の関水の説明碑があります。

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※ 巨木の関水の説明碑をかいつまんで説明しましょう・・・
杣出し(そまだし・材木を山から切り出すこと)の人夫を国中の在家五軒あるいは十軒毎に一人割り当てたが、なかなか集まらなかったこと、柱を曳くのに用いる長大な縄の原料たる麻苧(あさお・麻糸)が大量に必要なので諸国に良質のものを課して集めてもらったことなどがある。
得地(徳地)の杣山(そまやま・木材を切り出す山)は深山幽谷のため、人夫の人力のみで用材を運搬する
のは困難であり、重源が工夫して二台の轆轤(ろくろ)を使い、直径六寸(十八センチメートル)の縄を
用いて普通なら用材一本の運搬に人夫千人以上も必要なところを僅か六、七十人で曳くことができたと
言われる。・・・
こうした多数の巨木は苦心の末、佐波川まで運び出され、川の流れを利用して瀬戸内海まで運び出した
のである。この際、佐波川東岸に川を堰き止め水路を築いて水深をあげ、巨木を下流に流す方法が
とられた。この水路を「関水」と読んでいる。


「かんのんばし」までの石段は、さほどでもないが「かんのんばし」を渡り山門までの石段は、年寄りには一寸きついですね~
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# by kfujiken2 | 2017-06-21 15:00 | 風景 | Comments(0)

山口・サビエル記念聖堂と防府・英雲荘のウオッチング パート2

英雲荘の概略は、前回の投稿【萩毛利藩の防府に存在する休憩・宿泊所だった英雲荘 (三田尻御茶屋)】で、説明していますのでご覧下さい。 (アンダーラインに前回の投稿ページがリンクされています。)
今回は珍しい廊下の襖戸や、大観楼棟の2階にある2部屋を説明します。

英雲荘について少し触れましょう!!!
英雲荘(三田尻御茶屋)とは、1654年に、毛利萩藩の2代藩主・毛利綱廣によって藩の公館
「三田尻御茶屋」が建てられたことが、この建物のはじまりです。おもに参勤交代のときの藩主の
宿泊所、また三田尻の町には毛利水軍の拠点が移され、萩藩の瀬戸内海側の表玄関だったこともあって、
港からやって来た他藩の方々の接客の場……迎賓館としてもこの場所が使われました。
その後、7代藩主・重就が、自分の隠居所として、その住まい……御殿を造営します。その期間は、
安永6年(1777)頃から天明3年(1783)にかけてとされていますが、はっきりとはわかっていません。
ここは長い歴史のなかで、建物の役割が大きく変わったり、増改築が行われていますので、解明されて
いないことがたくさんある建物なんです。


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大観楼棟1階御書院一ノ間から三ノ間の南側に続いている廊下には、廊下を隔てる二ヶ所に
裏表4枚づつ篆書(てんしょ)でかかれた杉板の戸襖が計8枚あります。信濃(長野県)出身の
書家・三井 親和(みつい しんな)の書だそうですが、大変迫力があります。

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裏表4枚の杉板の戸襖(とぶすま)の画像です。
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杉板の戸襖(とぶすま)の文字の説明画像です。

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大観楼棟の二階にある2部屋ある内部です。
この2階は風景を楽しむ“物見の部屋”として作られています。江戸時代のはじめは、このすぐ目の前が海だったそうです。「大観楼棟」の部分は、現存する建物のうち最も古く、重要な役割を持ちます。かつては2階の南側から海が見え、眺望の美しさから「大観楼」と呼ばれました。文久3(1863)年、京都の改変で長州へ逃れた三条実美ら7人の公卿が三田尻御茶屋に約2カ月間滞在し、高杉晋作などが公卿と会談したと言われています。
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檜(ひのき)の樹皮を用いて施工する檜皮葺(ひわだぶき)で造られている大観楼棟です。
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大観楼棟の2階から見下ろした庭園です。
絵図や資料から、江戸・明治時代には佐波川からひいた疎水が邸内にとり込まれ、
しなやかな曲線を描く流路を水がめぐる回遊式庭園であったことがわかります。

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# by kfujiken2 | 2017-06-16 11:08 | 歴史 | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


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