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悲運の三代目奇兵隊総督 赤禰武人(あかね たけと)

幕末の志士の中には、高杉晋作のように有名な人物がいる一方で、
赤禰武人のように光の当たらない人物もおります。


※ 赤禰武人(あかね たけと)の容貌と経歴

すっきりとした顔立ちが印象的な肖像画があります。しかしそれは、容貌が似ていたという実弟の写真を元に、近年描かれたもの。武人の晩年に会った人物は、「白皙(はくせき)長身、眉目清秀(びもくせいしゅう)ノ偉丈夫(いじょうふ)ナリ」と書き残しており、実際に色白で背が高い、美青年だったようです。

周防国玖珂郡柱島(現・山口県岩国市柱島)の島医師・松崎三宅の次男に生まれた。
妙円寺の海防僧月性、吉田松陰、梅田雲浜に学んだ。月性の紹介で浦靱負(うら ゆきえ)の郷校である克己堂(こっきどう)で学ぶ。
文久二年江戸に出て英国公使館焼打事件に加わり、同三年奇兵隊に参加。十月奇兵隊総督となって元治元年四国連合艦隊と下関で戦った。長州藩の政務役も兼任したが、眼病にかかり辞職して帰郷。
ついで高杉の下関挙兵には調和論を唱えて意見が合わず、慶応元年筑前に脱走した。その後上京して再び幕吏に捕えられたが、幕長間の和平交渉のため釈放され帰郷した。同時主戦論に固まった長州藩から幕府内通の嫌疑を受けて逮捕され、山口に護送されて鰐石河原で斬首された。
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※ 高杉晋作に振り回されての対立、その悲劇の真相とは?

高杉晋作と第三代奇兵隊総督赤禰武人の歯車が狂いだしたのが、高杉晋作が功山寺挙兵した大田・絵堂の戦いからである。動と静の性格の違いから始まったと言えます。

高杉晋作の功山寺挙兵は、凡人からすれば一か八かの賭けだったわけで、周囲から暴挙と言われてもしかたがありません。成功したから良かったのですが、失敗すれは諸隊は解散、主だったものは死罪となります。
組織のトップというものは、組織の存続させることが最重要であり、 一か八かの賭けで組織を潰すことはできません。対外交渉にしてもしかりで、交渉、交渉の末、落としどころを探し、それでもダメな場合は武力に訴えるというのが常。赤禰武人は組織のトップとして、諸隊を存続させようと奔走したわけです。
これはトップとして至極真っ当な行動でした。


赤禰武人の不在の時、俗論派に命を狙われ九州へ逃亡していた高杉晋作が駐屯地にふらりと顔を出し、長州藩の正義派が俗論派を倒すしかないと、高杉晋作は武力突破を主張する。
「ここで兵を挙げて俗論党を討たねば我が藩は滅びる」
この言葉に軍監の山縣有朋が赤禰武人が戻るまで待つようにといさめた。
また赤禰武人も「萩政府を攻めるのは、藩主に弓を引くも同じだ」と、
奇兵隊の決起に反対するが、高杉晋作は更に奇兵隊の同志を前に言ったと云う。


「君らは赤禰武人に欺瞞(ぎまん)せられたる者か
そもそも武人は大島郡の一土民の身
何ぞ国家の大事、両君公(藩主父子)の危急を知る者ならんや
君らは予を何と思うや
予は毛利家三百年来の世臣なり
あに武人がごとき一土民の比ならんや」


身分や階級にとらわれない奇兵隊を創設した高杉晋作の言葉とは思えない暴言です!
高杉晋作におごりがあり、身分や階級にとらわれないとは人数を集めるための口実で、本音が出たのではないでしょうか?感情的にも激しく演説したが、諸隊の幹部の殆どが平民だった為ひんしゅくを買った部分が多く、諸隊は直ぐには動かなかったと云われている 。
高杉晋作が言いたかったことは、自分のような譜代恩顧の士が暴挙をやろうといっているのだから、これは藩のためであり、実は暴挙ではなく忠義そのものなのだ、ということでした。晋作の言葉足らずでかなり誤解をまねいたようです。
しかし高杉は伊藤俊輔(博文)の元へ行くと、伊藤は迷うことなく高杉に賛同し力士隊20名を差し出し、そこへ遊撃隊60名を加えた総勢約80名が高杉に同調し、俗論政府を相手に藩内革命を起こした功山寺挙兵であり、これが大田・絵堂の戦いを引き起こす原因になったのである。

攘夷の無謀さを痛感してからの赤禰武人は、ただ声高に外国を打ち払ったり、むやみに戦争をするという事をしないように、争いの調停役に回る事が多くなります。
長州藩内の幕府恭順派(俗論派)を攻め滅ぼそうとする高杉晋作と、藩内で争っている場合ではないと考える赤禰武人。戦を回避しするために長州藩内を動き回る赤禰武人ですが、いつしかその行動がスパイと勘違いされるようになっていきます。
高杉晋作らの正義派が実権を握った事で、藩政はここから討幕へと舵を切っていくことになる。
高杉晋作がクーデターを起こした事で、赤禰武人の居場所は無くなっていた。
和平実現のために動いていた事で二重スパイ疑惑をかけられたのだった。
仲間たちとの信頼関係が上手く構築できなかったためか、やがては長州藩を去り哀れな最期を迎えることになります。赤禰武人は戦を避けようとしただけで、正義派を裏切ったつもりではなく、しかし高杉晋作たちからは、自分たちを裏切り幕府に寝返った人間として誤解され、追われる身になってしまう。
潜伏中のところを長州藩士槇村半九郎に捕縛される。

一切の申し開きすら許されなかった武人は、悔しさをにじませ、処刑前夜に着ていた衣服の背中に『真は誠に偽に似,偽は以て真に似たり』という辞世を残しています。
『真実は偽りに似ていて、偽りは真実に似ている』自分の真意は、長州に対しての裏切りではなく、長州のためを思っての事。それを偽りと判断されてしまった武人の無念がうかがえます。

# by kfujiken2 | 2018-02-08 11:21 | 歴史 | Comments(0)

節分って何???

あなたは節分に豆まきをする理由や、「鬼は外! 福は内!」の意味についてご存知ですか?
知っているようで意外と知らない、大人も子ども気になる節分のあれこれ。


節分とは、「季節を分ける」という意味があります。言いかえると、季節の変わり目ということです。
日本には四季(春、夏、秋、冬)がありますので、季節の変わり目というのは年に4回あります。
各季節の始まりは、立春、立夏、立秋、立冬が季節の始まりです。それぞれの前日が節分と呼ばれています。
ということは、節分も年に4回あることになりますが、現在の節分は2月3日の1回ですよね。
その理由は、旧暦では、立春が一年の始まりとされており、その前日の節分が一番メジャーになったと
考えられています。現在で言うところの、節分=大晦日、立春=元日だった訳ですね。
これから始まる新しい1年の前に鬼を払い、不幸や災いのない一年になるようにの願いを込めてこの時期に
節分が行われるのです。節分は大晦日にあたることから、節分の日に邪気を祓い、新年を幸多き年として
迎えられるようにという意味を込めて「追儺(ついな)」の行事が行われます。
追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う儀式のことで、新年を迎える行事として中国で行われていたものが、
文武天皇の頃に日本に伝わり、宮中行事として行われるようになったそうです。
それが次第に庶民にも伝わり、節分行事が行われるようになりました。


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【節分の日の慣わし】


■ 豆まき
豆を撒く風習は、鬼の目を打ち、「魔を滅する」に通じるからという説があります。炒った豆を、年男や一家の主人、
厄年の人が「鬼は外、福は内」と大声で叫びながら豆を撒き、邪気や災厄を祓います。
炒った豆を使うのは、生豆を使って拾い忘れたものから芽が出ると再び悪鬼が芽を出してやってくるので良くないと
いわれているからです。豆撒き後は、自分の年の数、または自分の年の数+1の豆を食べ、一年の無病息災を願い
ます。


■ 鰯の頭と柊木(ひいらぎ)
鰯を焼いた時の煙と臭いが厄を祓うといわれ、節分の日には家の入口に鰯の頭を柊の枝にさしておく風習があります。
鬼の嫌がる鰯の臭いと、柊の葉の棘に痛がって、鬼が近寄らないので鬼門封じや厄除けになると昔から言い伝えられています。地域によっては、にんにくやとべらなどの臭いのあるものをそえるところもあるようです。


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■ くじら料理を食べる風習もあります。

これは主に山口県での風習の様で、大きいものを食べるということが縁起が良いと
されていることからと言われています。古く鯨は大きいものの代表であり、

・志を大きく
・心を大きく(広く)

などと大きな幸福を願う意味で食べられています。

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■ 巻き寿司のまるかじり

関西を中心に、その年の恵方(年神様のいらっしゃる吉の方角)に向かって無言で太巻き寿司を丸かぶりし、
新しい年が良い年でありますようにと願いながら食べるという風習があります。
巻き寿司を使うのは「福を巻き込む」からで、切らないのは「縁を切らないために」といわれています。

# by kfujiken2 | 2018-02-02 11:00 | 未分類 | Comments(0)

ものもう‐す

 平成30年(2018年)に明治改元から150年を迎えるに当たり、明治維新胎動の地である
郷土山口県への県民の誇りと愛着を一層深め、今後の地域活性化に向けた機運の醸成を図る
とともに、これを我が国全体の発展を目指す機運の高まりにもつなげていくため、全県的な取組の
推進を目的として明治150年記念事業山口県推進協議会設立された。
 県及び県内全市町の関係課等により構成される、イベント一覧に「萩・長門エリア」「山口・防府エリア」「下関・美祢・宇部エリア」「岩国・柳井・周南エリア」とあります。エリアに入ってない光市には
「伊藤博文生家・伊藤公資料館」があり、室積には第二奇兵隊創設の地・「専光寺や普賢寺」が
あり、北前船に関する資料などを展示している「光ふるさと郷土館」があり、長州藩撫育方室積会所跡と言って長州藩の金蔵・撫育方(ぶいくがた)と呼ばれる裏金作りの機関等が存在した。
山陽小野田市は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ・厚狭毛利家が存在し、居館跡や厚狭毛利家歴代墓所・洞玄寺などがあり歴史を巡るには事欠きません。


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 しかし、山口県の13市の一つであります下松市はどうでしょう!!!
下松市だけ蚊帳の外、下松市は明治150年記念事業に参画していないのでしょうか?下松市は門前宿場町として栄えた花岡・旧山陽道の散策ですか? 歩いてみて下さい・・・整備されていません。下松市の近隣の市町村には歴史博物館・歴史資料館・美術館等がありますが、無いのは下松市だけです。歴史上の史跡がない著名人が少ないということは言い訳にはなりません。私が考えるに行政の歴史観といいますか、郷土史に関心が低いのか?他の自治体と比べ、郷土史に対する学識が低いのではないでしょうか。

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下松市には徳山毛利藩が財政改革の一環として、推奨した三白政策の一つの塩田事業に関わりを持った磯部家を調べ顕彰しないと風化します。始祖は南北朝の時代ですが、磯部屋・五代目磯部好助が東豊井村の地の開作に着手し宮洲開作を築立した。磯部家の長者ぶりは、周防においてだけでなく広く西日本一帯に知れ渡っていたようで、徳山藩の財政再建に貢献し幕末には藩札発行や、その他の資金繰りに援助した。つまり、下松は磯部家の塩田事業の成功から維新後の歴史が始まったと言っても過言はないでしょう!又、明治維新よりさかのぼりますが、徳山毛利藩の前身の
下松藩(下松藩陣屋敷)に付いて詳しく調べるのは如何ですか?
又、大阪大学の文学部教授が調査に来られたという、大阪の適塾に於いて大村益次郎の先輩で適塾の塾頭を務めたという下松出身の天才医者“飯田柔平”についての調査は如何でしょう・・・

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郷土史は掘り起こしたぐれば、色んなことが明らかになり、勉強にもなり面白いものです。
興味があるかヤル気があるか否かの問題だけでしょう!!!下松市(教育委員会)はもっと郷土史の調査・顕彰に力を入れて欲しいものです。私は単に歴史好きで、特に郷土史に興味をもっております。しかし、一人で幾らもがいても資料を捜すことが出来なく、市より御触書・委嘱状を貰っている訳でもないので、個人保護法という法律が立ちふさがり、中々立ち行きません。市が起ち上がらないのならばメディア様に協力して頂き、探索・調査・研究すればと考えており、又、仲間を捜しています。

# by kfujiken2 | 2018-01-22 12:03 | 未分類 | Comments(0)

光市に素晴らしい南画家がいた

84年にわたり所在が不明だった雪舟の水墨画「倣夏珪(ほうかけい)山水図」が、
発見され山口県立美術館にて特別展が開催され盛り上がりましたが・・・
光市に立野出身の難波覃庵(なんばたんあん)という異色の南画家がいた。


萩藩の寄組清水家に譜代の家臣として40数年仕え、幕末、明治維新には国事にも奔走する。
61才で隠居し、青年のような気宇をもって本格的に南画に取り組み、実に多くの秀作を残す。
京都その他の文人墨客との交友も多く、余技とはいえその画は格調高く、2度の天覧の栄に浴した。
七溪、楽如、更狂などと号す。光市三大日本画家と言われる画家の一人。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする
名家です。難波覃庵は地元に私塾養義場や慕義会などを設立し、郷土子弟の教育に努めた事で
知られている。


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光市文化センター・難波覃庵の作品
クリックすると光市文化センター・難波覃庵の作品ページに飛びます

【向山文庫跡は明治の私立図書館跡】
光市立野宮河内にある難波家屋敷の土蔵は、かつて向山文庫と呼ばれていました。
難波家は秀吉による高松城水攻めの際、清水宗治について殉職した難波伝兵衛を遠祖とする名家です。
向山文庫は難波覃庵が1883年に開設した文庫で、その後1906年からは一般に開放して私立図書館と
なりました。山口県初の図書館として1976年に光市の史跡に指定されています。現在も残る土蔵の姿に、
当時の様子を見ることができます。文庫跡の近くには、難波覃庵の顕彰碑も建てられています。

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# by kfujiken2 | 2018-01-10 13:27 | 歴史 | Comments(0)

初詣と蝋梅

遅ればせながら3日に降松神社(くだまつじんじゃ)に初詣に行き、
暖かかったので冠梅園に蝋梅の開花状況を観に行って来ました。


拝殿の横にある駐車場に車を止め、先ずは拝殿に行き手を合わせました。
山門は確か昨年には改修をしていたが、綺麗に改修が終わっていました。


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※ 降松神社は若宮(旧 下宮)、中宮、上宮の3つの施設からなり、鷲頭山(わしずやま)全域に広大な神域をもっています。普段、市民が参拝することが多いのは若宮です。

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神事の際、特殊な断ち方をして折った紙を縄に挟み込んだものを、
下松辺りでは御幣(ごへい)と言うけれど、正式には紙垂(しで)と呼ぶそうです!!!
神社も寄進された方を白いちょうちんに名前を書き、紙垂の変わりにコードつけて垂らすとは、
参拝者の目を引き演出が上手いなぁ~ 感心しました。

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「北辰妙見社」から鷲頭山に上宮・中宮を、更に赤阪の地(現在の地)に若宮を遷移せた流れを
少し説明しましょう・・・


飛鳥時代の推古天皇3年(595)、都濃郡鷲頭庄青柳浦の一松樹に大星が降り、七日七夜輝き、
「吾は天之御中主尊なり。今より三年ならずして、百済国の王子来朝すべし。其の擁護のために天降りし」と
託宣があった。同5年(597)、大内氏の祖先、百済国璋明王の第三王子琳聖太子が来朝し、桂木山に大星の
御神霊を祀り、北辰妙見社と称へ、鷲頭の庄の氏神とした。以来、青柳浦は降松と改められる。推古天皇11年(603)、
高鹿垣(茶臼山)に社殿を遷し、同17年(609)、鷲頭山に上宮・中宮を建立する。大内広世公は、鷲頭山の麓赤阪の
地に若宮を建立した。大内義弘公は防長などの七国の守護となり、南北朝時代の明徳3年(1392)、中宮に五重の塔や仁王門を新たに建立する。また、七国の各地に北辰妙見社が勧請され、鷲頭山は、妙見本宮として広い信仰を集めた。江戸時代の慶長13年(1608)、火災にあい、中宮本殿のみ焼失を免れ、現今の本殿は戦国時代の大永3年(1523)、大内義興公の再建による。中宮楼門は、江戸時代の文化4年(1807)、氏子中の再建による。大内氏滅亡後、毛利氏の厚い信仰を受け、江戸時代の元和年中(1615〜)には、赤阪の若宮を今の地に遷し、現今の若宮は明和4年(1767)、毛利就馴公の再建による。明治3年(1870)、「降松神社」と改称し、昭和3年(1928)県社に列する。




ロウバイはまるでロウ細工のような黄色い花を咲かせる、中国原産の落葉低木です。
中国では、ウメ、スイセン、ツバキとともに、「雪中の四花」として尊ばれています。
江戸時代初期に日本へ渡来し、ほかの花木に先駆けて咲く香りのよい花が愛され、
生け花や茶花、庭木として利用されてきました。

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ロウバイの香りは甘くフルーティで、微かに石鹸のような清潔感がある香りが特徴的です。

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# by kfujiken2 | 2018-01-04 14:33 | 未分類 | Comments(0)

あけましておめでとうございます

謹んで新春のお慶びを申し上げます
ブロッガーの皆さん 昨年はお世話になりありがとうございました
拙いブログでありますが、今後とも変わらぬお付き合いをお願い申し上げます


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# by kfujiken2 | 2017-12-31 18:56 | 未分類 | Comments(0)

ザ・モール周南がイズミに売却

住み良い街に陰りが出る・・・遂に時期が来たかという気がします。

昔元首長さんと席を共にする機会があり、下松を住み良い街という根拠は何ですか? 
と訪ねると彼曰く大型店が多く出来ると、市民の皆さんは買い物がし易いのではないかと自慢されていました。
つまり、「利便度」が高いというカテゴリーのみ指摘されるが、私の見解は違っています!
大型店が増えるということは、既存の小売店は淘汰され、明日の生活を如何しようかと泣いています。
これが「住み良い街」といえるのでしょうか?
因みに、東洋経済が発表する「住みよさランキング」では、総合評価とともに、「安心度」「利便度」「快適度」
「富裕度」「住居水準充実度」の5つのカテゴリーにおいてランキングを行っている。


仲間内では、下松で中核店舗の西友ザ・モール周南店が傾くと下松の景気は悪く
なるだろうと話していましたが、イズミ・ゆめタウンが後を引き継ぐとのことなので
一安心していいのか???


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話が逸れましたが、本題に戻しましょう・・・

下松市のザ・モール周南がイズミ・ゆめタウン(山西泰明社長、本社・広島市東区)に売却され、
来年8月1日から“ゆめタウン”の店舗に衣替えすることが決まった。2月1日に西友とイズミが
売買契約に調印し、5月15日から改装のため全館休業する予定で、ザ・モール周南は1993年の
開店以来、25年で姿を消すことになる。

鉄筋コンクリート5階建てで、1~3階の売り場面積は28,620平方メートル。中核店舗の西友
ザ・モール周南店、ザ・モール周南専門店街、食遊館、市出資の第3セクターの下松商業開発が
運営する地元の商業者ゾーンの星プラザで構成。隣接の周南市に流出していた買い物客を
回帰させてきた。

市文化施設のスターピアくだまつや市保健センターとは建物が一体化しており、99年に映画館の
MOVIX周南、2000年にヤマダ電機テックランドザ・モール周南店も開店した。
店舗前の中央広場はくだまつ総踊りや花と緑の祭典など市や民間の多くのイベントが開かれ、
周南地域全域から集客してきた。

ザ・モール周南の商業施設部分はもともと下松タウンセンター開発の所有だったが、現在は西友が
所有。売却の方針は25日にスターピア会議室で開かれた下松商業開発の取締役会で説明された。
売却額は不明。専門店街や星プラザのテナントには今後、説明していくという。
星プラザゾーンは廃止されて全店舗一体の形になる可能性が大きく、下松商業開発の存続も注目
される。同社を基盤に活動してきたくだまつ観光・産業交流センターや下松フィルムコミッションの
今後も未知数だ。一方、同じ建物のスターピアくだまつも3月1日から8月31日まで大規模改修工事の
ため休館する。


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# by kfujiken2 | 2017-12-29 11:31 | 未分類 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪 ②

大正・昭和の俳人。季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を
重んじる「自由律俳句」を詠んだ種田山頭火。


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◆ 種田山頭火の生涯

本名は正一。山口県防府の大地主の家に生まれる。父は村の助役を務めたが、妾を持ち芸者遊びに夢中になり、
これに苦しんだ母は山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げた。
現・防府高校を首席で卒業した後、早稲田に入学。しかし22歳で神経症の為に中退して帰郷する。
この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、
彼は父と酒造業を開始する(24歳)。27歳で結婚子を持つ。
1906年(明治39年、24歳)12月 父竹治郎が吉敷郡大道村(現・防府市大道)にあった古くからの酒造場を買収。
一家で移り住む。そして、その翌年頃から種田酒造場を開業したとみられる。
1908年(明治41年、26歳) 酒造に失敗し、防府に残っていた家屋敷を全て売却している。
山頭火は熊本市で額縁店を開くが、家業に身が入らず妻子と別れ上京。しかし、定職を得ず、熊本に帰る。
酒におぼれ生活が乱れた。1924年(大正13)市内の報恩寺で出家。法名耕畝(こうほ)。
熊本市北部の植木町味取(うえきまちみとり)の味取観音の堂守となった。1926年、行乞(ぎょうこつ)の旅を始め、
山口県小郡(現山口市)の其中庵(ごちゅうあん)に住したが、行乞漂泊すること多く、諸国を巡り、
1940年(昭和15)松山市の一草庵(いっそうあん)で没した。


◆ 其中庵(ごちゅうあん)


其中庵の場所

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其中庵は、山頭火が昭和7年9月から昭和13年10月まで暮らした庵である。
作句と行乞(ぎょうこつ)の旅に生きながらも安住の地を探していた山頭火は、小郡に住む俳友、国森樹明、
伊東敬治らのすすめによってこの地に庵を結んで、多くの俳友と交流を深めた。
山頭火は、近郊を行乞しながら、この其中庵で、『三八九』(さんぱく)第四、五、六集、句集『草木塔』、『山行水行』、
『雑草風景』、『柿の葉』などを発行し、最も充実した文学生活を過ごしたが、庵の老朽化に耐えず、
山口市に居を移した。現在の其中庵は、平成四年三月に当時の建物を復元したものである。


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◆ 防府市 山頭火ふるさと館

山頭火ふるさと館の場所
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防府天満宮の石段下にある、観光交流・観光回遊を目的とした拠点施設まちの駅「うめてらす」から
歩いて西側へ約100mの所にあります。

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防府市出身の種田山頭火を顕彰する「山頭火ふるさと館」が、平成29年10月7日(土曜日)に開館しました。

★ 館内の撮影は禁止なので、残念ですが紹介することが出来ません!!!

唯一撮影許可をされました、和紙人形作家・長沼隆代さんの作品展示があります。
2~3展紹介させて頂きます。

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※ 「山頭火ふるさと館」ホームページ


※ 種田山頭火を紹介している私のホームページ 【けんじの館】をご覧下さい。

アンダーラインが引いてある所をクリックして頂ければ、そのページに飛べます・・・

# by kfujiken2 | 2017-12-25 11:17 | 歴史 | Comments(0)

話題の雪舟と山頭火を探訪  ①

室町時代の水墨画家・雪舟が描き、所在不明になっていた水墨画が84年ぶりに見つかったと、
山口県立美術館が東京都内で発表した。同館は10月31日から開かれた「雪舟発見!展」で公開した。
専門家は雪舟の代表作への道筋を示す、重要な作品と位置付けている。


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見つかったのは、軸装された約30センチ四方の団扇(だんせん)形の作品で、藍や緑などで
彩色を施した「倣夏珪山水図」。水辺に岩や木々が、奥には、なだらかな山脈が描かれている。
同美術館によると、雪舟が中国の名画家に倣って描いた「倣古図(ほうこず)シリーズ」の
うちの1点で、南宋(12~13世紀)の著名な画家夏珪の様式を模した。


◆ 雪舟の生涯

応永27年(1420年)、備中国赤浜(現在の岡山県総社市)に生まれる。生家は小田氏という武家とされている。
幼い頃近くの宝福寺に入り当時文芸で身を立てるには、寺に入るのが唯一の道であり、室町時代は禅僧が学問・
文芸の分野を担っていた。10歳頃京都の相国寺に移り、春林周藤に師事して禅の修行を積むとともに、天章周文に
絵を学んだ。

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享徳3年(1454年)頃、周防国に移り、守護大名大内氏の庇護を受け、画室雲谷庵(山口県山口市天花【てんげ】)を構える。寛正6年(1465年)頃、楚石梵琦(そせきぼんき)による雪舟二大字を入手し、竜崗真圭に字説を請。この頃より雪舟を名乗ったと考えられている。

応仁元年(1467)遣明船で中国に渡り、四明天童山(しめいてんどうざん)で前堂首座(ぜんどうしゅそ)に列せられ、また彩色や破墨(はぼく)の画法を学び帰国しました。

※ 楚石梵琦  : 中国,元末・明初の禅者
   四明天童山: 雪舟の称号
   前堂首座  : 江戸期の大僧堂では前堂首座と後堂首座の二人制を取るところもあった。
          首座(しゅそ)は禅宗の修行僧のリーダーをさす役職名

帰国後も、雪舟は雲谷庵に定住し作画活動と弟子の養成に努めましたが、永正3年(1506)87歳のとき山口で没したといわれています。  明治の廃藩後、雲谷庵は無くなりその跡も忘れられるようになったので有志等が図り、明治17年(1884)に古い社寺等の古材により庵を復興しました。


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◆ 雪舟庭


雪舟は作庭家しても有名です。
日本水墨画の頂点を極めたは雪舟、彼の美の原点は中国だった。修行のために、当時の明へと渡った雪舟は、
そこで墨の黒を描くことで広がる白の世界と出会う。空白とのバランスで引き立つ美しさ、それは黒味を帯び石と
白砂だけで表現された石庭の美と相通じるものだった。実は、当時雪舟は、庭師としても名を知られていた。
枯山水の庭の心は、水墨画とも共通しており、それと同時に庭造りにも心を傾けていたのだという。
築いたものと伝えられる庭園は各地にあり、医光寺(島根県益田市)、萬福寺(島根県益田市)、
常栄寺(山口県山口市宮野下)、旧亀石坊庭園(福岡県田川郡添田町)の雪舟庭は雪舟四大庭園と呼ばれる。


常栄寺雪舟庭
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◆ 雲谷庵跡(うんこくあん)

雲谷庵の場所


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雪舟が明(中国)から帰国した後、永正3年(1506)に没するまで創作活動を行ったと言われる山口県山口市天花(てんげ)にあるアトリエです。

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雪舟は大内氏の招きにより、40歳頃に山口に来て、48歳の応仁元年(1467)に遣明船に乗り中国に渡りました。帰国後も雲谷庵に住み作画活動を行い、87歳のときにここ雲谷庵で没したといわれています。代表作「山水長巻」もここで描かれたと言われています。 現在の建物は明治17年に建てられたものですが、建物の部材は、一部室町時代のものだそうです。

雲谷庵の勝手口として造られたのか? 大内時代の古材を集めたから一宇を再建したのか?

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雲谷庵の内部に囲炉裏のある部屋と和室の二部屋がありますが、荒廃してスリッパを履かなければ
上がることが出来ません!!!


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# by kfujiken2 | 2017-12-20 15:45 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その④

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その④

3.内藤氏系図

山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が奉行三家老家に列せられた。
内藤氏は系図によると、平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の五代目の
後裔盛遠を始祖とする。旧内藤家庭園の概要説明に、天正10年(1582)に帰農して瀬戸後山に居住したとありますので、毛利元就の防長経略の時、追っ手から逃走中に立ち寄り帰農したのではないでしょうか?時代背景から想像すれば22代当主・内藤元珍か23代当主・内藤元宣の世代ではないでしょうかと推察いたします。

※ 防長経略: 天文24年10月12日(1555年)から弘治3年4月3日(1557年)まで行われた、
安芸の戦国大名毛利元就の大内氏領周防・長門侵攻作戦のことである。


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【内藤氏の歴史】


公卿・藤原道長から数えて五代目の後裔を始祖とした内藤盛遠から、23代当主・内藤元宣までの系譜を簡単に順次紹介致します。

初代当主・内藤盛遠(ないとう もりとお)は内供奉(注1)祐寛と末武の豪族福井検校大中臣光忠の女の間に生まれた第二子で、鳥羽天皇のとき内藤氏を賜わったとされるが、一説には盛遠の兄内舎人(注2)盛重が内藤氏を賜わったとも伝える。盛遠は筑前守に補せられ(注3)、従五位下を叙せられた。

内藤盛遠の子2代当主・内藤盛定(ないとう もりさだ)、孫の3代当主・内藤盛家(ないとう もりいえ)の時代は源平争乱期に当たる。内藤盛定の子内藤盛家は保延4年(1138)生まれで、寿永4年(1185)源氏に味方し、御家人となる。建久元年ごろから地頭をつとめる周防遠石)荘内の東大寺領,石清水八幡宮領を押領したため、停止命令をうけた。
盛家のあとは第七子4代当主・内藤盛時(ないとう もりとき)がついだ。母は摂津守師茂の女で、源実朝の乳母因幡局と伝えられる。建久元年(1190)生まれで内藤盛家の次男で幕府御家人。若年より幕府につかえ,京都への使者をつとめた。肥後守に補せられ、後五位上に叙された。1254年(建長6)1月19日、65歳で死没した。

つぎの5代当主内藤有盛は盛時の第二子で、童名を徳正丸、のち岩国小次郎ともいい、法名を覚阿と称した。有盛は父盛時から尾張国の牧野・浅井両郷と相模国の北畑之庄を伝領したが、このうち浅井郷を長男時信に、牧野庄と北畑之庄を二男時澄に譲渡した。有盛の妻は法名を仏心といい、前夫は弘中権正兼綱(法名白蓮)である。

有盛と仏心との間にできた第一子が6代当主・内藤時信で、法名を生西といい、肥後に補せられた。妻は母仏心の先夫弘中兼綱の女である。母仏心は小周防(周防本郡)の地頭職を前夫兼綱から相伝していたが、のちこの遺領をめぐって、仏心の子宗像孫次郎宗氏(法名宗通)と内藤時信の子7代当主・内藤盛兼との間で紛争が生じた。

盛兼の子8代当主・内藤盛秀は夭死(ようし)して嗣子がなかったので、時信の二男で盛兼の弟9代当主・内藤盛信が宗家を継いだ。盛信は初め勝間田備前守忠保の婿養子に入り、忠盛と称していた。この盛信の第一子が10代当主・内藤盛世で、童名を徳益丸、のち肥後太郎、法名を智陽と称した。1391年(明徳2)2月8日に死没しているから、盛世の活動時期はまさに南北朝の動乱期にあたる。
同年12月直冬は南朝方に帰順したが、大内弘世もまた翌年南朝方に帰順して周防守護職(注4)に任ぜられたから、周防には南北両朝に分かれて二人の守護が対立し、都濃郡を舞台に激戦が展開されることになった。内藤氏は宗家の盛世・盛貞親子は大内宗家に、庶家の藤時・盛清兄弟は鷲頭氏に属して相争った。藤時は有盛の第二子時澄の孫にあたる。父は時清で、肥後次郎と称し、尾張国の牧野庄、相模国の北畑庄および美濃国船木庄の地頭職を領していた。

鷲頭庄をめぐる攻防戦が大内弘世の勝利で終わると、内藤氏は宗家11代当主内藤盛貞のとき初めて大内盛見に仕え、長門国守護代(注5)に任ぜられ、盛貞の弟勝間田盛実はこれを補佐する小守護代を勤めた。以来、内藤氏は宗家が長門守護代、庶家の勝間田氏が小守護代に任ぜられることが多かった。内藤氏の所領は盛貞のとき周防国の本郷・小周防・勝間村および伊予国成吉別府村であったが、のちには長門・筑前・豊前の各地にも散在した。盛貞が長門守護に補せられて以後、拠点は長門部に移り、都濃郡との関係は希薄になった。長門守護代は盛貞のあと、12代当主・内藤有貞、13代当主・内藤盛世、14代当主・内藤武盛らに伝えられた。大内義興没後、興盛は義隆に仕えて軍評定衆となり、大内氏の被官の中でも陶・杉両氏と並んでその重責をになった。

※ (注1) 内供奉(ないくぶ): 宮中の内道場で供奉し読師の役などをつとめる僧
※ (注2) 内舎人(うどねり): 宮内庁職員のうち、天皇のそばに控え、身支度を整え  
                  るなど私的な世話や雑用を担当し、日常生活を支える
※ (注3) 補せられ     : 役人として役職に任じられる
※ (注4) 守護職      : 国単位で設置された軍事指揮官・行政官である
※ (注5) 守護代      : 鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職



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5代当主・内藤弘矩(ないとう ひろのり)は大内氏重臣として権勢をふるったが、讒言に
より謀反の疑いがかけられ、その子弘和と共に大内氏の第30代当主・大内義興に誅殺された。冤罪と分かり、義興の意向で内藤弘矩の弟で内藤興盛の父16代当主・内藤弘春(ないとう ひろはる)が家督を継承することになり、その後17代当主・内藤興盛(ないとう おきもり)は弘矩の娘を娶り(めとり)、内藤氏の当主となる。
19代当主・内藤隆世(ないとう たかよ)は父18代当主・内藤隆時(ないとう たかとき)が早世していたため、天文20年(1551年)陶晴賢が大内義隆に謀反(大寧寺の変)した直後に隠居した祖父興盛の跡を継ぎ家督を相続した。変の後に大友氏から迎えられた大内義長の元で、実権を握る義兄の陶晴賢と共に大内家重臣となった。

20代当主・内藤隆春(ないとう たかはる)は大内家臣・陶晴賢の主君・大内義隆に対する謀叛(大寧寺の変)が起こると、父・内藤興盛と共に静観の態度を取るが、甥の内藤隆世の積極姿勢に反発して家内が紛争となる。天文23年(1554年)に父が死去し、弘治元年(1555年)の厳島の戦い後に毛利氏に内通し、弘治3年(1557年)の元就の防長経略の時には、内藤氏当主となっていた隆世と袂を分かち毛利氏に降り、元就らに従って転戦する。

21代当主・内藤元盛(ないとう もともり)は永禄9年(1566年)、毛利氏の家臣・宍戸元秀(毛利元就外孫)の次男として誕生。母は内藤興盛の娘。母方の伯父・内藤隆春の婿養子となり家督を継ぐ。毛利輝元の密命を受け、大坂の陣で豊臣方として参戦し豊臣方は敗北し滅亡。内藤元盛も毛利氏一門であることが露見してしまう。江戸幕府の厳命を受けた毛利氏の厳しい捜索により逃亡中に京都で捕縛され切腹させられた。

22代当主・内藤元珍(ないとう もとよし)は毛利氏の家臣である内藤元盛(佐野道可)の長男として生まれた。大坂夏の陣後、内藤元珍は帰国して早々、吉川広家や福原広俊らの進言を受けた毛利輝元に切腹を命じられ、元和元年(1615年)富海の龍谷寺で自害した。

23代当主・内藤元宣(ないとう もともり)は元珍の長男で母方の志道姓を称し、毛利家に帰参するものの隠忍の日々を過ごすが、孫の内藤隆昌の代に内藤姓に復し、船木村・末益村8370石を与えられた。以後、子孫は 厚狭毛利家に仕えて明治維新に至った。

# by kfujiken2 | 2017-12-11 12:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その③

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その③

2.旧内藤家屋敷跡と庭園の場所

 米泉湖沿いに県道41号下松鹿野線を北に進み、下松市下谷より県道139号三瀬川下松線を直進。
米川部落を過ぎ「滝の口親水公園」バス停を過ぎると、次に「大将軍山登山口」バス停がある。右手に
末武川の上流に架かっている後山橋を渡たると、旧内藤家屋敷跡と大将軍山登山口案内板がある。
車で900mの案内が書いてある。瀬戸後山に登る途中に三叉路に分かれた所に看板があります。
そこを右折すると右側に大将軍山登山口と左側に旧内藤家屋敷跡があります。


【下松市米川周辺の地図】
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【末武川の上流に架かっている後山橋】
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【後山橋を渡った三叉路】
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【後山の林道に行く道案内】

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【瀬戸後山に登る途中の三叉路を右折】
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【旧内藤家屋敷跡と大将軍登山口】
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の看板を南に20m坂道を登ると、旧内藤家屋敷跡に着きます。
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次回は内藤氏の歴史と題して、内藤家系図をご覧頂きながら調べることが
出来た範囲でございますが、始祖内藤盛遠から23代当主・内藤元宣まで
簡単に系譜を紹介致します。

# by kfujiken2 | 2017-12-05 16:49 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その②

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~ その②

下松市に雪舟の弟子によって造られた、名庭・池泉観賞式庭園があるということを、その①で
ご紹介しましたが、その名庭が存在する旧内藤家屋敷跡が下松市にあるということです!!!
この旧内藤家とは、後にご紹介しますが山口大内氏家臣団で陶氏・内藤氏・杉氏が
奉行三家老家に列せられており、始祖が平安中期に左大臣として政権を掌握した公卿・藤原道長の
五代目にあたる名家なのです。
何故下松市がもっと深く、調査・研究しないのか私には分かりません・・・


【旧内藤家屋敷跡の全体風景】 
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下方に写っている石切が入門の痕跡ではないかと推測しますが、池泉観賞式庭園は写真の
左側、方向的に言えば西側になりきす。

【屋敷跡に設置されている案内板】

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案内板の絵図に示されている【旧内藤家庭園説明図】の拡大です

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それでは旧内藤家屋敷跡にある、名庭・池泉観賞式庭園をご紹介しましょう。

「雪舟の弟子による作庭」と伝えられる本庭は、中央に奥行のある池泉(現在は涸れ)を大きく
穿ち(うがち)奥部に枯滝を構え、向かって右側奥に鶴・亀両島を配置した、池泉観賞式庭園である。
北に位置する座敷からの座視を旨とするものであるが、母屋から池辺拝石までは定石通りに飛石が
打たれ、泉池中央及び東部泉池に舟石を配し、池の周囲にわずかな盛土と石組をする等、随所に
優れた造庭技術を認めることができる。
現在庭にはやや雑草が茂り、中嶋や護岸一部に損傷の憾みもあるが、地方に於ける庄屋庭としては
県内最古に属し、地方に於ける造園史の上で重要な様相を有するものである。


※ 池泉観賞式庭園とは、どんなお庭なのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。

池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、   
川があり、池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。

観賞式とは  :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。


【北側から見た池泉観賞式庭園】

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【西側から見た池泉観賞式庭園】

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勿体ぶる訳ではありませんが、長くなるのと詳しく載せ見てもらいたくて、旧内藤家屋敷跡と庭園の場所や内藤氏の歴史は、後日に致します。
# by kfujiken2 | 2017-11-27 17:01 | 歴史 | Comments(0)

下松に雪舟の弟子によって造られた名庭・池泉観賞式庭園がある   その①

~ 江戸時代前期の名庭・旧内藤家庭園~

旧内藤家屋敷跡にある池泉観賞式庭園とは、どんなお庭をなのか説明致します。
『ちせんていえん』と読み、日本に古くからある「庭のつくり方または形式」のことです。


池泉庭園とは :自然の山水の景色を写してつくられる庭園の様式で、そこには山があり、川があり、
           池がある庭をいいます。この様式の庭には「水」という要素が取り入れられています。
観賞式とは   :庭には下りずに、座敷に座って眺めて観賞する方法。



1.旧内藤家屋敷跡と庭園の概要

内藤家は古くから大内氏に仕えていた武家の一族と伝え、毛利氏の中国地方統一の際し、
帰農して(天正10年・1582)現在の米川瀬戸を深く入り込んだ僻地(現在の下松市大字瀬戸
1088番地)に居住している。山村の多くがそうであるように、狭隘(きょうあい)な山裾の一部を
利用して屋敷としたものである。口伝では、この屋敷が瀬戸村に移住後、昭和初期に至るまで
一貫して居住した地であるという。404坪(明治20年土地台帳)の屋敷は、前方を石垣とし
山寄りにはモミの巨樹がそびえ、あたかも寺跡のような景観を呈している。石段を登ると門跡を
示す6基の簡素な礎石があり、池泉はこれを経て左側山裾まで約100坪の間に構成されている。
茅葺の母屋は、昭和初期解体し戦中に耕して畑地としていた。門は昭和37年に子供の火遊びの為、
焼失して建物は存在しないが、庭園は樹草の中に健在である。


【 ① 入 口 の 石 垣 】
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【 ② 旧 内 藤 家 屋 敷 跡 の 入門前の石段 】
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【③ 旧内藤家屋敷跡の全体風景】

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【④ 屋敷跡に設置されている案内板】
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※ ③は②の石段を登った所から見た旧内藤家屋敷の全体風景ですが、③で下方に写っている石切が入門の痕跡ではないでしょうか。


池泉観賞式庭園の説明・場所・内藤氏の歴史は、後日に致します。

# by kfujiken2 | 2017-11-22 10:24 | 歴史 | Comments(0)

幻の下松藩邸

先ずお断りしておきますが、この場所に下松藩邸が存在していたのは間違いない
のですが、何分資料が無くあくまでも想像の域を出ません!!!
虎口(入口)がここだったのでないか?下に記載しました画像がそうなんです。
他の部分は民家が立ち並び、写真を撮ることをはばかられます。


徳山藩と聞けば、大体の方が”周南市(旧徳山市)動物園周辺”に存在したことはご存知でしょう。
この徳山藩が立藩当初は、徳山に藩庁をおかず、下松に藩庁をおいていた。
このことをご存知の方は多いかと存じますが、この初期徳山藩庁であった下松城に関しては、
詳細な事柄は不明な点が多く、所在地もあまり知られていない。下松藩の創設の経緯を知る人は
多いが、下松城の所在地を明確に知る人は多くなく、史学的・考古学研究も検証も、調査も行われ
ておらず知名度は低い。下松に毛利就隆の居館が法蓮寺に建設されたのは、分地から14年後の
寛永8年(1631)のことである。現在、館邸の跡形もないのは、石垣を再度に亘って崩し去り、
慶安元年(1648)で徳山野上に居館建設中であったことから、これらの石垣はことごとく野上へ
移転せしめたのであろう。
下松に居館建設後17年たらずのことであるから石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。


【正保国絵図による下松付近概念】 (図1)

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【所 在 地】

広 域 地 図  (図2)
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拡 大 地 図  (図3)
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【下 松 藩 邸 付 近 の 想 定 図】  (図4)

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下松藩邸の想定の詳細


【縄張り】(注1)
下松藩邸(下松陣屋)については、「防長地下上申」・「旧記抜書」・「主圖合結記(主図合結記)」の三つの資料があるようです。
下松藩邸について『旧記抜書』に下記の様に記されている。
寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、小松山高サ十間余(注2)、切岸(注3)東西二壇(注4)へ竹を植、御門三ツ有之、御厩(注5)惣構(注6)之外ニ有之、或茅葺板葺被二仰付一候、初ハ外構石壁ニ被二仰付一候処、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衛門相勤候事


この古文書読み解きますと・・・
寛永八年に就隆公は下松御屋敷をここに建設した、小松山の高さが十間余(約20m)あり、お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも抗議へのご遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている。二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、門を入ると石段や踊場を登りながら右の三筆の地(約800坪)、即ち陣屋に向かったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたことが明らかである。つまり、門が三ヶ所あったということから外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。就隆公の乗られる馬の馬屋は陣屋の外にある。
又、『防長地下上申』によると、豊井村地下図に「古御屋敷台」と記されて所が、旧居館所在地である。
東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変わっていないであろう。その屋敷台中央部には、明治20年の分間図・土地台帳によると、一枚(注7)で畑地一反七畝九歩(法蓮寺1725番地)の平坦地があり、その南側に接する二筆(法蓮寺1728番・1729番)も右と同じ高さの平坦地であったことが明らかである。右の登記簿は、明治20年にこの地に女学校創建(櫨蔭高等学校)にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約800坪に主要建造物が在ったと考えられる。さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘(きょうあい)な為か惣構(そうがまえ)の外にあり、この馬屋は『地下上申』によると、豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が法蓮寺1673番地・同1677番地付近とあり、現在の末光幼稚園の西側周辺である。

(注1) ※縄張り(なわばり)とは: 曲輪や堀、門、虎口等の配置をいう。つまり、城を造るためには設計が必要であり、この設計のことをいいます。
(注2) ※小松山高サ十間余とは: 河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅と国道188号線に変貌している。現在の地図上の表示は、「光陽台」を指している。
(注3) ※切岸とは: 斜面を削って人工的に断崖とした構造。
(注4) ※壇とは: 他より一段高くこしらえた場所。
(注5) ※御厩(みやま)とは: 貴人が乗る馬の馬屋。
(注6) ※惣構とは:城や砦の外郭、またはその囲まれた内部のことで総曲輪(そうぐるわ)とも言う。
(注7) ※畑一枚とは: 畑一区画の意味です。
 

【図3の拡大地図で緑色で塗った切岸二壇の下部】 (図5) 

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【図5の道路に面した切岸】 

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【図5のコーナーから上部】

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◆ ここで枡形虎口(ますがたこぐち)について少し説明をしましょう。
戦国末期には西日本を中心に枡形(ますがた)と呼ばれる虎口が現れた。これは虎口の前面に桝形(方形)の空間を設け、そこに門や口を2重に構えることで、攻撃側は桝形内部に侵入しても2番目の門に城内への侵入を阻まれ、桝形内部で守備側からの攻撃を全面に浴びることとなる。
枡形には内枡形(うちますがた)と外枡形(そとますがた)がある。内枡形は、曲輪の虎口の内側に小さな方形空間を造り第二の門を築く。
ここに入り込むと寄せ手は3方向から囲まれる。外枡形は、主な曲輪の虎口の外に地続きの小さな方形空間を張り出させ、最前にもう1つの門を開いたものである。枡形の門は、最前の門とその後方の門の2つが開かれる。最前の門を高麗門、その後方の門を櫓門としたものが基本的な形状であると見られているが、後方の門のみで最前の門がないものや、最前の門のみのものもある。 近世城郭はその多くが枡形、あるいはそれに類する虎口を備え、侵入した攻撃側が容易に直進できないようにするため右折または左折構造を採る場合が多い。
下松藩邸の場合、切岸の南側(中央)と東南・西南計三ヶ所に門が構えられていたそうだから、外・内枡形を組合せた虎口であったと推察します。


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【外・内枡形を組合せた虎口】

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# by kfujiken2 | 2017-11-08 13:07 | 歴史 | Comments(0)

陽気につられて紅葉狩り

今朝は放射冷却の為10度を下る気温だったが、昼前から温度がグングン上がり、
陽気につられてふらりドライブとシャレ込みました。
米泉湖に立ち寄り下松市末武川ダム(米泉湖)の上流に位置します、
せせらぎと紅葉の景観が素晴らしい滝ノ口河川公園に行って見ました。


市内より北に車を走らせ、トンネルを抜けるとそこはイチョウ並木のトンネルです
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モミジとイチョウが鮮やかな赤と黄色のコントラストをつけています
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滝ノ口河川公園のせせらぎです

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逆行をまともに受けて・・・
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# by kfujiken2 | 2017-11-01 16:18 | 風景 | Comments(0)

深睡眠(しんすいみん)とは

楽しみにしていた加来耕三先生の維新150周年によせて「乃木希典と児玉源太郎」の講演会を慢性化したギックリ腰が起こり、残念ですが拝聴することが出来ません
 ((“o(>ω<)o”))クヤシイー!!


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睡眠には、レム睡眠・ノンレム睡眠があります。
レム睡眠・ノンレム睡眠は睡眠中に交互に現れます。
レム睡眠・ノンレム睡眠を合計で4回ずつくらい繰り返すのが、通常の睡眠です。

深睡眠は、これとは別の分類方法です。
深睡眠は睡眠の最初の3~4時間くらいに多く見られる深い睡眠で、ノンレム睡眠中に見られます。特に1回目のノンレム睡眠中に現れます。つまり、深睡眠とノンレム睡眠は別物という訳ではなく、ノンレム睡眠の一部が深睡眠という位置づけです。
このため、レム睡眠が深い睡眠という訳ではなく、最初の方に現れるノンレム睡眠で深い睡眠が訪れるという方が適切です。


深睡眠は、具体的にはいくつか特徴があります。

・成長ホルモンの分泌が最大になる
・脳が最も休んでいる睡眠


成長ホルモンとは、タンパク質の合成を促すホルモンです。
筋肉を付けたい、お肌を元気にしたいなどの場合はとても重要なホルモンです。
そのため、この深睡眠の時間を「お肌のゴールデンタイム」と呼ぶこともあります。
また、深睡眠は脳が最も休んでいる状態です。
睡眠の役割として、脳の疲労回復があります。
脳内の疲労物質やストレス物質の除去が最も効率的に行われるのが、
この深睡眠です。
だからと言って、深睡眠だけとれば脳の回復が十分ではありません。
最適な睡眠時間は、深睡眠後にもしっかり眠る必要性を示しています。


若年者と高齢者における睡眠の一般的な状態

横軸が睡眠時間、縦軸がノンレム睡眠の深さを示している。濃い青がレム睡眠、薄い青がノンレム睡眠。高齢者のグレーは目が覚めている時間だ。なお、ノンレム睡眠のステージ1と2が浅い睡眠で、ステージ3と4が「深睡眠」と呼ばれる。深睡眠を2時間以上取るのは10歳頃までで、それ以降はどんどん減る。一方レム睡眠の量は一生を通じてそれほど変わらない。

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高齢者や老人は若者と違い、睡眠リズムが乱れやすくなります。その理由は、高齢になると中途覚醒が増えるため、睡眠中に何度も目覚めてしまうようになるからです。中途覚醒が増える理由は、年をとると過活動膀胱になることが多く、寝ている時でもトイレに行きたくなるためです。
人間には体内時計が備わっていますが、年をとると体内時計の周期がズレてしまい、24時間周期ではなくなってしまいます。そのため、早朝覚醒をすることが増えてしまい、朝までぐっすりと眠れなくなります。

# by kfujiken2 | 2017-10-29 10:02 | 未分類 | Comments(0)

乃木希典と児玉源太郎

10月29日(日)ホテルサンルート徳山にて、加来耕三先生の維新150周年によせて
「乃木希典と児玉源太郎」をテーマの文化講演会があります。

応募したら招待券が送って来ました。どんな話をされるのか楽しみです。


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因みに乃木希典と児玉源太郎の紹介を簡単に・・・
乃木希典は、嘉永2(1849)年11月11日に、長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)の三男として、江戸の長府藩上屋敷に生まれた。

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児玉源太郎は、嘉永5(1852)年2月25日に、周防国都濃郡徳山村(現・山口県周南市)に、
長州藩の支藩徳山藩の中級武士(百石)児玉半九郎の長男として生まれる。


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二人は長州藩の支藩である長府藩と徳山藩士の子供で、3歳違いの長州人の先輩・
後輩の関係です。



二人の逸話を簡単に!!!

児玉源太郎は満州軍総司令官大山巌の承認を得て、第3軍司令官・乃木希典大将の指揮権に介入し、作戦を成功に導いたとされる。源太郎は、歩兵のみでは二〇三高地を落とせないことを理解しており、
砲兵兵の柔軟で集中した運用を図ります。
一般に知られている説によれば、明治37年(1904年)12月5日、源太郎は乃木が攻めあぐねていた203高地に対し、火力の集中という要塞攻撃の常道を行うため、もともと海岸防衛用の恒久据え付け
砲で移動が困難な28センチ榴弾砲を、敵陣に接近した場所まで1日で配置転換を行うという、
奇抜な作戦を取ったとされる。
そして重砲の援護射撃の下、歩兵による突撃を同時に行い半日で陥落させた。
さらに203高地に弾着観測所を設置し、砲兵の専門家の助言を無視して203高地越えに、
旅順湾内のロシア旅順艦隊に28センチ砲で砲撃を加え、敵艦隊は壊滅した。

# by kfujiken2 | 2017-10-24 12:12 | 未分類 | Comments(0)

ドローン女子

昨日NHKの “シブ5時” で 「増えるドローン女子」という面白い番組を放映して
いました。


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『ドローン女子』とは何でしょうか?

『ドローンに興味がある女子』を総称して、そう呼んでいます。

女性の方だけでなく、男性の方にもかなりドローンの魅力、興味がそそられたのではないでしょうか?

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■見たこともない景色を見たい!

私達よりも何メートルも何十メートルも高い空を飛ぶ鳥たち。
鳥はどんな景色を楽しみ、そして何を思って空を飛ぶのでしょうか。
「ドローンを思い通りに動かし、飛ばしてみたい」
「自分がまだ体験したことのない世界を見たい」
と思う方は多いと思います。
ドローンの魅力を考えると、まず頭の中に浮かぶのはそういった
非日常的な体験です。

■何事も慣れが必要
もちろん自由自在に飛ばせるようになるにはある程度の慣れが必要となります。
はじめはうまく操縦できずにもどかしい気持ちにもなるかもしれません。
それを乗り越えて、うまく操縦できた時や空撮した映像を見た時の感動は特別なものであることは
言うまでもありません。
実際に空を飛んだような、鳥にTなったかのような素晴らしさがあるのです。
機体によっては、初心者向けで飛ばしやすいものもあります。
あなたもドローンにチャレンジしてみませんか?

◎資格や免許は不要です。誰でも扱えます!
航空法という名称や、複雑そうなルールなどから誤解を与えやすいのですが
ドローンを飛ばすこと、それ自体に資格や免許が必要というわけではありません。

ただし、以下の点は注意しましょう。
・日中の飛行(夜間はNG)
・目視できる範囲で飛ばす
・人や物から30m以上の距離を保つ
・人が集まる上を飛ばさない
・物を輸送、あるいは落下させない

# by kfujiken2 | 2017-10-18 11:53 | 未分類 | Comments(0)

下松高等学校の歴史

【はしがき】

1617年(元和3)下松藩(後の徳山藩)が創設され、1631年(寛永8)藩邸(下松陣屋)が
建設されました。下松藩(後の徳山藩)の初代藩主・毛利就隆の居館はどんな構図だったか、
建物の配置はどんなになっていたか? 等を色々調べていたが資料がない!!! 遺跡がない! 
でお手上げ状態の時、そうだ・・・1650年(慶安3年)下松藩が徳山に移転して
その跡地に約300年後の昭和4年に下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が建設され、
昭和28年3月に、下松高等女子学校・櫨蔭(ろいん)学園が閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の
経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。
そこに昼間の下松高等学校定時制寺町分校が開設されたことを思い出しました。
つまり下松高等学校の前身が女学校だったとは聞かされていましたが、その経緯を詳しく知っている
OBは少ないのではないか? 又、自分の母校の歴史って意外と知らないのではないか? 
そんな些細なことで下松高等学校の歴史をたどってみようと思いました。


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端的に沿革を説明しますと、下図の校章でもお分かり頂けると思いますが、
山口県立下松女子商業学校 → 山口県立下松高等女子校 → 山口県立下松高校へと変革していったのです。


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それでは古い校舎の画像を見ながら沿革を説明致します。
下松高等学校(元 山口県立下松高等女子校)が創設されるまでの足跡を説明しましょう。


昭和18年10月に発せられた政府の戦時非常措置によって、軍需産業に対処するため工業学校に
転換された男子商業学校が、戦後、再びもとに復帰することになった。したがって商業学校の
不足を補う立場で昭和19年に設立された下松女子商業学校も、その存立意義が薄らいだのを機会に、
市の強い要請もあって、昭和21年4月に、県立下松高等女学校として再出発した。
取りあえず下松尋常高等小学校舎の隣りにある下松青年学校(現在の下松市立中学校)の三教室を
借用して、二学級編成で発足した。場所は現在の下松市立小学校の西側である。


山口県立下松高等女子校仮校舎 (昭和21年)
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さらに、下松高等女学校は昭和23年4月から、新制高等学校(山口県立下松高校)に移行されることに
備えて、新校舎の建設を急ぐことになり、新校地の選定・買収・造成などが、市の負担で積極的に進められた。当時は、農地解放・食糧不足の時期であって、耕作者の農地に対する執着心が強く、平野部での
用地取得が困難なため、新たに、大河内台地が候補地として取りあげられた。ここは、市のほぼ中央に
あたり、眺望絶佳にして閑静、山林・畑地で所有者の反対もとくにないことから、整地・用水などに困難な
問題点もあったが、昭和22年11月に適地として決定をみた。市民から山の高等学校と愛称された
ゆえんである。昭和24年2月に待望の新校舎が竣工し全校生徒が移転した。


新制高等学校・山口県立下松高校の旧校舎(昭和23年)
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昭和29年4月に全日制家庭科が増設されたが、その後志望者の逓減によって、昭和39年4月
廃止された。 他方、昭和23年7月に昼間の下松高等学校定時制久保分校が開設された。
農業科・家庭科編成で、久保小学校校舎の一部と岡市にあった県設指導農場の一部を借用した仮校舎で授業を開始した。昭和4年に開校し昭和28年3月に、櫨蔭(ろいん)学園が下松市内の櫨蔭高等学校を閉鎖し、光市の聖光学園聖光高等学校の経営に専念することになったので、市はその校舎を買収して定時制校舎に提供した。これによって定時制久保分校はここに移り、定時制寺町分校と改称した。
その後、家庭経済や交通事情などの好転に伴い、定時制の生徒も激減する傾向を示したので、
県教育委員会はその見直しを行い、統廃合・整理の方針を定めた。これに基づいて、農業科は
昭和32年3月に、家庭科は昭和36年3月にそれぞれ募集を停止し、昭和38年3月寺町分校は
廃止された。

下松高等学校定時制寺町分校(元 櫨蔭高等学校)(昭和29年)

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現校舎(昭和55年)
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# by kfujiken2 | 2017-10-10 12:26 | 歴史 | Comments(0)

下松市に徳山初代藩主・毛利就隆ゆかりのお寺が三ヶ寺ある

来週の日曜日(10月8日) 毛利博物館長・山口大学名誉教授の田中誠二先生の講演「下松藩の成立と展開 ~そして幕末・明治維新へ~ 」を拝聴するにあたり、中々資料が無い中度々調べに行きましたが、再度私なりに何か探してみようと下松藩の居城跡に出掛けました!!!
しかし、目新しいものに出くわさずどうしょうかと思案していたが、すぐ近くに徳山藩初代藩主・毛利就隆が側室のために創建した松心寺というお寺があることに気が付き飛んで行きました。


松心寺(元 永心寺)は、1640年側室永心院のために就隆が創建しました。
徳山に毛利家菩提寺の大成寺が建立されると、位牌等はそちらに移動されたそうです。


山門と本堂です
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本堂の屋根に 「舟形一文字三つ星」 の徳山毛利藩の家紋が分かります 
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本堂西側の墓地に並んで永心院と伊勢姫の墓立っている。石造りの柵が時代を感じらせ、毛利就隆の大事に思う気持が推察できます。
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左側に高さ220cmの下松市内で二番目に大きい五輪塔があります。
これは徳山藩初代藩主・毛利就隆の最初の姫で、特に毛利就隆が竈愛していた
伊勢姫のために立てられたのである。法名は 「祥光院殿瑞中以松大姉」
姫は病弱のため一生結婚せず、46歳で寛文10年(1670)正月11日になくなられた。

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右側が就隆の側室で伊勢姫の母、永心院の墓。高さ145cm
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他の二つのお寺を簡単に紹介しましょう・・・


◆妙法寺  下松市東豊井1152
徳山藩初代藩主・毛利就隆の乳母が開基のお寺・妙法寺
妙法寺の本堂の軒にある毛利家家紋が、関係があったことを証明しております。
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http://kfujiken2.exblog.jp/22477410/
リンクページに飛んでいきます。


◆周慶寺  下松市中市1丁目9−1
徳山藩初代藩主・毛利就隆の生母「清泰院・二の丸様」の菩提寺で、法名は清泰院殿栄誉周慶大姉。

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http://kfujiken2.exblog.jp/13088390/
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# by kfujiken2 | 2017-10-01 12:37 | 歴史 | Comments(0)

秋日和に誘われて・・・彼岸花を撮影に

"彼岸花”をテーマに調べてみました。

◆ 彼岸時に咲き乱れる”彼岸花”とは
ヒガンバナ科の多年草。土手や田の畦に生える。秋の彼岸のころ、高さ約30センチの花茎を伸ばし、
長い雄しべ・雌しべをもつ赤い6弁花を数個輪状につける。花の後、線形の葉が出て越冬する。
有毒植物であるが、鱗茎を外用薬とする。別名、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)・死人花(しびとばな)・
捨て子花・石蒜(せきさん)・天蓋花(てんがいばな)・天涯花・幽霊花・かみそりばななどがある。
彼岸花ほど異称の多い花も少ないのではないでしょうか。




◆ 彼岸花の花言葉は!?
悲しい思い出・想うはあなた一人・また会う日を楽しみに・「再会」「情熱」「独立」「あきらめ」
・・・と諸説あるようです。情熱とは真逆の印象を与える「悲しい思い出(お彼岸)」を連想させる
イメージも同居していて、なんだかミステリアスで意味深いですね。


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◆ 彼岸花が”不吉な花”というイメージを持つ理由は・・・
開花期にふつう備わっているべき葉がひとつもなく、茎の頂上にいきなり花が咲いて、
しかもその花が毒々しいほどに真っ赤であるからです。日本人の感覚では彼岸花の
赤はけばけばしく、そうしたけばけばしさを好ましからざるものと見なすのです。



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◆ 突然現れる”彼岸花”は幽霊に例えられる事も!
1日目に芽が出て、2日目でなんと20cmも伸び、5日目にはつぼみが赤く色づき、
なんと7日目で開花したのです。確かに、ヒガンバナはちゃんと1週間で発芽から開花まで
してしまうのです。



◆ 不吉なイメージが先行する彼岸花だが、不吉な事ばかりではない!?

>「曼珠沙華(まんじゅしゃげ)」は、サンスクリット語で天界に咲く花という意味。
おめでたい事が起こる兆しに赤い花が天から降ってくる、という仏教の経典から来ています。


※ サンスクリット語とは: 古代インド・アーリア語に属する言語。ヒンドゥー教、仏教、
シーク教、ジャイナ教の礼拝用言語でもあり、現在もその権威は大きく、母語話者は少ない。




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◆ 韓国では”相思華”と呼ばれる

韓国では彼岸花のことを「相思華」ともいう。これは彼岸花が花と葉が同時に出ることはないから
「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味である。
お互いを見ることの出来ない花と葉がお互いを想い合うだけ。
なんだか悲恋を連想させます。そう考えるとあの強烈な花の色も、毒々しいものではなく、
思いの強さを伝えるものに思えてきます。


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# by kfujiken2 | 2017-09-24 16:48 | | Comments(0)

徳山藩の諸隊・山崎隊に下松在住の人がいた

今回の投稿は、徳山藩の諸隊・山崎隊の説明がメインではなく、山崎隊の中に下松在住の人が55名いたという説明です。発足した当時ではなく150人前後に増員された時期ではないかと想像します。


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周南市新南陽にある富田護国神社は、明治2年(1869)、徳山藩山崎隊の戦没者23名を祀る招魂場を富田永源山頂に創建したことに始まります。
富田護国神社の社殿の後ろに説明版には23柱と記してありますが、実際は32柱の招魂墓碑が並んでいます。これらは山崎隊士だけでなく献功隊士のものだと想像します。
がしかし、この中に下松在住の人が祀られているかは分かりかねます。


山崎隊は下記で説明致しますが、簡単に献功隊について説明しましょう・・・
献功隊は、明治元年に朝気隊、斥候銃隊、武揚隊、順祥隊を合併し、
結成された部隊で、17~40歳迄の士族で構成されています。
後の満州軍総参謀長児玉源太郎もこの隊に在籍していました。



さて、下松在住の人の説明に入る前に、山崎隊について簡単に説明しましょう・・・

山崎隊は、1866年(慶応元年)4月、富田村の庄屋・政所である岩崎庄左衛門を賄方として、
「富田隊」という仮称で創設された部隊で、創設地の地名の山崎八幡宮にちなんで「山崎隊」と
改称されました。陣営は、富田新町の浄真寺があてられた。
第二奇兵隊の結成より3カ月後のことであり、諸隊の中では遅く組織された隊である。このように、
徳山藩での諸隊の組織化が遅れた原因は、徳山藩府内に保守派の力が強かったためといわれている。
山崎隊は、隊長・宮本小十郎他およそ50人で発足したが、やがて150人前後となり、慶応四年三月には
80人増員され、230人となった。山崎隊の特徴は、士庶を問わない有志の者で結成された点にあります。
1866年(慶応2)6月の四境戦争開始までは、徳山周辺の防衛に従事する。四境戦争が勃発すると、
一中隊が芸州口の戦いに参加した。翌67年には、一隊が占領地である小倉城の防衛に従事する。
同年、本隊は京都に進駐し、翌68年(明治元)正月、鳥羽伏見の戦いが始まると、本隊はこの戦いに
参加して戦功をあげた。さらに、同年9月戊辰戦争が始まると秋田攻撃に参加、別の一隊は青森へ転戦し、翌69年の函館戦争で大変な苦戦をなめている。


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社殿の前の広場です。創建が明治2年という事ですが、鳥居は何時造られたかは確認しませんでしたが、至ってまだ新しいものです。台風一過のため落ち葉が散乱していますが、よく整備されています。


それでは本日の本文に入ります。
山崎隊へ下松市域内徳山領諸村から多くの農町民が参加していた。「同隊人名録」(徳山市立図書館叢書16)によると、市域内出身隊員は55名である。

「出身村別表」

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出身村別表」をみると、各村ともまんべんなく数名が入隊している。しかし、大藤谷村~河内村は山村であり、戸数・人口ともに少ない村である。これに比して、東西豊井村や下松町上松浦は戸数・人口ともに多い。この両者を比較すると、山村の30人に対して、海岸市街地は20人である。山村の農民が、尊王攘夷の思想に共鳴し、郷土防衛の意識が高かったため、このように多くの者が応募したのであろうか。どうも、そのようには考えられない。

「長男と次三男別表」

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山村と市街地出身兵の「長男と次三男別表」をみると、山村出身兵35名中、長男は11名で、次三男は19名と倍近く多い。それに比して、下松町を中心とする市街地では、次三男より長男の方が5名も多い。このことは、山村の農家の次三男は、山村で暮していても将来への展望がないため、新しい軍隊に応募することにより、自分の将来を切り開こうとしたのではないだろうか。

「出身階層表」

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ここにみるように、農民と商人が計五二人で九五パーセントに達し、圧倒的に多いことが分かる。神職の二人は山田村と生野屋村で、下士は河内村出身である。

「年齢別表」

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最年少は一三歳の少年から、最高年齢は三〇歳であり、平均年齢は一九歳であった。


以上が市域内出身兵の分析であるが、このことは山崎隊全員の傾向と合致するものと考えられる。又、この表を見ると発足半ばの隊員150人前後の内、下松市在住の人が三分の一を占めていたことが分かる。

※ 下松市史 通史編 明治維新時の下松1 諸隊の動向 山崎隊の結成を参考にさせて頂きました。

# by kfujiken2 | 2017-09-21 08:10 | 歴史 | Comments(0)

取引価格が路線価より大幅に高く!? 新バブル到来?

金融緩和であふれたお金が不動産市場に流入しています。投資家からお金を集めて不動産を買い、
賃料収益などを分配する上場不動産投資信託(J―REIT〈リート〉)で、最近取得された物件の
価格水準が、相続税などの基準となる路線価の平均2・6倍となっていることがわかった。
目安とされる1・5倍程度より高く、一部では10倍超の物件もあった。日本銀行の金融緩和で
あふれたお金が不動産市場に流入し、東京の2017年分の最高路線価はバブル期を超えている。
取引価格も高めになっており、「新バブル」の懸念も出ている。


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今度のバブルでも、もちろん東京、大阪、名古屋の地価上昇が、全国の地価上昇を引っ張っていることには違いがないのですが、地方都市では、九州の福岡市や中国地方の広島市など、ごくわずかの地方中核都市しか上がっていないことが平成バブルのときとの大きな違いなのです。


80 年代のバブルを振り返って見ると、日本全国至る所で地価の上昇が見られた。
一方、現在の地価の上昇は地域による差が大きく、バブルと言うには物足りない。
外国人観光客の増加に伴うインバウンド需要や東京オリンピックに向けたホテル需要が
見込まれる地域、ファンド等による投資が見込まれる地域に限定される局地的な上昇で
ある。政府は地方創生を掲げ、地域活性化に向けた様々な取り組みが行われている。
そうした取り組みは、地方都市の地価にどのような影響を与えるか、東京との地価水準の
格差は縮まるのか。現在の地価の上昇はいつまで続くか、今後1、2 年の動きに注目したい。


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※ 景気の動向

「いざなぎ景気」は、1965年(昭和40年)11月から1970年(昭和45年)7月までの57か月間
「バブル景気」は、1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)2月までの51か月間
「いざなみ景気」(戦後最長の景気回復)は、2002年2月~2008月2月までの73か月間
「アベノミクス景気」は、2012年12月(平成24年)から2017年(平成29年)3月までの52か月間


 「いざなぎ景気」: 1965年の証券不況で、金融緩和による金融政策だけでは改善せず、
政府は補正予算で第二次世界大戦後初の建設国債の発行を閣議決定した事で建設需要が増し、
いざなぎ景気がはじまりました。
1970年の八幡製鐵と富士製鐵の合併による新日本製鐵(新日鉄)の誕生など、貿易や資本の
自由化への対応のために、国際競争力の強化をめざして規模拡大のための企業の大型合併が
多数実現した。トヨタ・カローラや日産・サニーといった低価格の大衆車の発売によって
マイカーブームが起こり、東京オリンピック(1964年)を機にカラー放送が本格化したことから
カラーテレビの普及率が急速に高まった。
所得水準の向上によって、エアコンの購入も増加し、車 、カラーテレビ が新・三種の神器と呼ばれ、
消費の大幅な伸びも見られた。いざなぎ景気の間に日本経済は大きく拡大し、世界第二の経済大国と
なった。

◆ 「バブル景気」: 1980年代後半には、テレビ等のマスメディアの必要以上の毎日繰り返された
不動産価値の宣伝により、地価は異常な伸びを見せる。日経平均株価は1989年(平成元年)12月29日の
大納会には、史上最高値38,957円44銭を付けるなどし、資産価格のバブル化が起こっていた。
バブル景気による過剰な経済拡大期があり、その後にはその反動としてバブル崩壊による大幅な
資産価格下落や金融収縮などが起こり経済問題が多数噴出することとなる。

◆ 「いざなみ景気」: 2001年からのゼロ金利政策に代表される金融緩和政策が主因で、
2004年の大幅な為替介入で、実質実効為替レートが下がったことによる円安、北米の好調な需要により、
輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高売上高・利益を記録しました。
いざなみ景気は日本の戦後最長の好景気だったにも関わらず、 意外にも誰もそれを実感していませんし
知りません。新聞などでは「かげろう景気」などと呼ばれことからも想像がつくように、好況が
長く続いたとはいえ、たとえばGDP成長率、賃金上昇率などをみれば明らかなように、高度成長期の
好況とは比べものにならない低水準である。実感なきまま進んだ好景気は、2007年アメリカで
起こったサブプライムローン問題によって、アメリカ国内の投資と消費が急激に縮小したことで、
後退していきました。そこに追い討ちを掛けたのが、2008年9月のリーマンショックです。

◆ 「アベノミクス景気」: 2012年12月に始まった「アベノミクス景気」が、1990年前後の
バブル経済期を抜いて戦後3番目の長さになった。世界経済の金融危機からの回復に歩調を合わせ、
円安による企業の収益増や公共事業が景気を支えている。ただ、過去の回復局面と比べると内外需の
伸びは弱い。雇用環境は良くても賃金の伸びは限られ、「低温」の回復は実感が乏しい。


# by kfujiken2 | 2017-09-13 14:21 | コラム | Comments(0)

種田山頭火と層雲の句友・兼崎地橙孫(かねざき ぢとうそん)

兼崎地橙孫は自由律俳句の先駆者・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)の
高弟として活躍するとともに、『清明の俳人』として気品ある清明句を多く遺している。
また書家としても名高く、中村不折直伝の六朝体最後の書家でもあった。


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兼﨑地橙孫肖像(提供:吉田紗美子)


徳山藩士・兼﨑昌司(号・橙堂(とうどう))を祖父にもち、父・茂樹(号・地外(ちがい))、
母・トメ(小川官介長女)の長男(本名・理蔵)として、明治23年に生れました。
中学時代から句作を始め、明治43年全国巡遊の途にあった河東碧梧桐と下関で出会い、以来師と仰いでいます。層雲の句友、種田山頭火の放浪や生活の面倒などを生涯に渡り手助けすることとなる。
熊本五高を経て京都帝国大学法学部を卒業し、大正13年下関にて弁護士を開業、のちに山口県弁護士会会長に就任しました。
下関空襲により被災し、徳山市舞車に疎開する。弁護士として活躍する傍ら、県俳句界の指導者として後進の指導にあたりました。人にやさしい真摯な生き方は、多くの人たちの
心を惹きつけ、その精神は気品ある「清明句」として開花しました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

※ 六朝体(りくちょうたい): 中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体だそうです。

※ 自由律俳句: 五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。
          季題にとらわれず、感情の自由な律動を表現することに重きが置かれる。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


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兼﨑地橙孫句碑
この辺りを上御弓丁(かみおゆみちょう)というそうですが、正に武家屋敷らしい地名ですね!


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兼﨑地橙孫第二句碑
昭和24年に詠んだ句です。東川に架かる 舞車橋を渡った側にあります。
# by kfujiken2 | 2017-09-08 11:15 | 歴史 | Comments(0)

関ヶ原の戦いの真実

評判の映画・岡田准一主演『関ヶ原』を観にいきました。

この映画は観客に関ヶ原の戦いの予備知識があることを、前提にしているというのも感じました。
戦国時代を終焉させ、その後の日本の支配者を決定付けた天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」。
しかし日本最大の合戦であったにも関わらず、その詳細はあまり知られていません。
関ヶ原の戦いに至る過程は政治的な理由が多く、過去の有名な戦である「川中島の戦い」「桶狭間の戦い」「賤ヶ岳の戦い」等は一対一の個人戦でしたが、「関ヶ原の戦い」は東西に分かれた戦国大名の寄せ集めの団体戦だった違いがあり、戦国大名に関する基礎知識が豊富でなければ理解できないものが多いです。
おまけに、戦闘自体が6時間で終わってしまったため、あまり映画やドラマでも取り上げられていません。


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◆ 戦国時代とは何ぞやを少し説明しましょう・・・
日本の歴史ににおいて、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分です。乱世により
室町幕府の権力は完全に失墜、守護大名に代わって全国各地に戦国大名と呼ばれる勢力が出現した。
戦国時代の期間は、室町時代に起きた応仁の乱に始まり、安土桃山時代に起きた関ヶ原の戦いが
最後と言われています。
この戦国時代の戦いは、権力闘争には違いありませんが、いずれも背景や経緯が非常に複雑である。
つまり、群雄割拠の時代ですからゴチャゴチャしすぎてて、当時の上下関係・人間関係・時代背景
が難しいですよね!


◆ 関ヶ原の戦いの経緯について説明します。
五大老の長の徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を名目上の総大将とし五奉行の長である
石田三成を中心とする西軍が起した戦いである。
引き起こした直接の導引は、朝鮮出兵をめぐる現地武将(武断派と呼ばれるグループ)と内政・経済・
宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた(文治派)の対立であり、現地武将たちの戦線縮小や
撤兵路線をめぐる軋轢と政権の内部分裂であった。


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◆ 名目上の総大将としての毛利輝元はどうであったか???
毛利輝元は名目上の西軍総大将として大坂城に入城しますが、毛利家中では、東西いずれの陣営に
付くべきかで意見が分かれ、混沌とした状況となった。これを裁断すべき立場にあったのが輝元
だったのだが、長年彼をサポートしていた有力な血族の多くは既に亡く、輝元に的確な助言を
できる者は家中にいなかった。
関ヶ原の戦いでは一門を率いたのは長府藩主毛利秀元で、毛利軍本隊は西軍の一部として関ヶ原
南宮山に布陣した。だが、吉川広家の背信行為によりそれ以上の進軍を押し留められて本戦には
参加できず、合戦を傍観する羽目になった。


◆ 関ヶ原の戦いおける両軍の戦法は・・・
西軍は石田三成が戦を指揮した経験が少なく各将を統率出来なかった。
宇喜多秀家、小西行長、大谷刑部等とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に
戦っているだけで部隊間の連携が取れていなかった。
一方東軍の戦上手の徳川家康は西軍一部隊に対し、複数の軍勢が連携して、同時多方面から
包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てた。
つまり、西軍の単独プレーに対し、東軍はチームプレーだったということです。


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◆ 最後に関ヶ原の戦いの武器についてウソらしいホントの話を!!!
西軍8万2千、東軍7万4千だそうですが、関ヶ原の合戦当時の主力武器は何と言っても槍と鉄砲です。
と言っても兵の約1割が鉄砲を装備していた言われていますので、飛び道具では戦争になりません!
鉄砲で銃撃した後、大将による「進め」の号令と共に、槍部隊がズンズン歩いていき、近くまでくると
「ワー」と入り乱れての戦闘になるのです。
槍は、手放すことのできない武器でした。鉄砲は弾込して射撃するまでにおよそ15秒もかかるため、
一撃で相手を倒さないと逆に相手にやられてしまうかもしれません。接近戦には不向きで、
ひとたび乱戦になってしまえば、ほとんど使えなかったそうです。
接近戦は、ほとんど槍の突き合いです。リーチの短い刀で戦うのは不利ですからね。
というか、刀を持っている兵士はほとんどいなかったそうです。鉄砲は遠距離攻撃に使っていましたが、
接近戦でも飛び道具はあります。古来よりおなじみの弓矢です。関ヶ原でも、もちろん弓矢は
使われています。鉄砲の普及により、飛距離の短い弓矢は、飛び道具としての価値が薄まったような
イメージを持ちますが、距離はともかく、速射も可能という点で、戦闘には欠かせない武器だったようです。
関ヶ原の合戦には、九州で「国崩し」と呼ばれた大筒も用いられています。発砲するのは攻城砲といい
ただのでかい鉄玉なので、別に着弾と共に爆発するわけでもありません。
それ故に、野戦では威嚇程度にしかなりませんでした。

# by kfujiken2 | 2017-09-02 12:18 | 未分類 | Comments(0)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part3

長門市を後にし萩市に向かう・・・
昔、通った本州西端を周回している国道191号は、JR山陰本線と並行し部分的に峠越えの区間もあったかも知れないが、海岸沿いのルートだった様に記憶している・・・
萩・三隅道路が2008年 - 2011年に開通し、山口県長門市三隅中から山口県萩市椿に至る延長15.2kmの高規格幹線道路で、山陰自動車道に並行する国道191号線の自動車専用道路だがトンネルばかりです。
国道262号線を北に進み、国道191号線(北浦街道)の弘法寺前の交差点を左折し萩博物館前の駐車場に
到着しました。萩博物館と北の総門は時間が無いのと、昨年萩を訪れた時見学したので今回パス!


萩城跡の外堀(南側より)
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萩城跡外堀は、萩城三の丸(堀内)と城下町を分ける堀で、堀幅は、江戸時代の初めには20間
(約40m)でしたが、堀端に町屋が造られて、14間(約28m)、8間(約16m)と狭まりました。今回の整備は、堀幅が8間の時代を基本に行ったそうです。


次の観光ポイントは、萩城跡の外堀から5分足らずで行ける全長250m、幅員3mの道 の 「菊屋横町」
旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、町筋は碁盤目状に区画され、中・下級の武家屋敷が軒を連ねていた。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめている。御成道に面して藩の豪商、江戸屋、伊勢屋、菊屋の商家が並んでいたため、横町には、それぞれの名が残されている。藩の豪商・菊屋家をはじめ、幕末の風雲児・高杉晋作の誕生地、第26代総理大臣・田中義一の誕生地がある。晴れた日には、太陽の光が反射してまぶしいほどの白いなまこ壁の美しいこの横町は「日本の道百選」の一つに選ばれている。

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※ 御成道(おなりみち)とは:藩主が参勤の際に通ったことから「御成道」とも呼ばれる
萩往還 をいう。



「萩・明倫学舎」を見学したかったのだが、津和野のお稲荷さんに寄ってお札を貰って帰ろうと思っていたので時間的に無理でした。次回の楽しみに残しておきました・・・


「郡司鋳造所遺構広場」~大砲を製造した鋳造所跡~


郡司家は萩藩の鋳造師(ちゅうぞう=金属を加熱・溶解し、これに形を持たせた鋳造に流し込み凝固させ、
所定の形状の製品を作る金属の加工技術です)で、江戸時代を通じて鍋・犂先(すきさき)などの生活用具
だけでなく、大きな様式大砲など兵器に至るまで、多様な銅・鉄製品を鋳造しました。

郡司家が鋳造した大砲は、下関戦争が原因でほぼ行方不明になっています。文久3年(1863年)に
長州藩は下関海峡を通過する外国船を3度にわたり攻撃したのですが、イギリス・フランス・オランダ・
アメリカ、そして四国の連合艦隊は、翌年の元治元年(1864年)に下関沿岸砲台に報復攻撃。これに
より各砲台は壊滅状態に。それぞれの砲台は破壊もしくは戦利品として持ち帰ったため、国内はもちろん
欧米にもわずかな数しか残っていません。ちなみに下関戦争では24ポンド砲や32ポンド砲が使用されて
います。


大砲のレプリカが展示してあります。

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郡司鋳造所跡の説明板
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左からブロックごとに拡大します。
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下の写真(上の説明版の真中)のように3つの窯で銅や鉄を溶かし、真ん中の鋳型に流して固めていたとされています。実は今までどのような方法で大砲を作っていたのか分かっていなかったのですが、平成12年(2000年)に山口県埋蔵文化財センターが行った発掘調査により、石組や大砲鋳造遺構をはじめ、実際に使用された鋳型も多数発見。これらの情報を合わせると、写真のように鋳造していたと考えられるそうです。実際に発掘された郡司鋳造所関連のものは、萩博物館に展示されており、山口県の有形文化財に指定されています。

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郡司鋳造所については世間的に知られていないのか、萩においては他の観光地の方が魅力なのか、休日にあったにもかかわらず人はほとんどいませんでした。やはり実際に使用された現物でないと観光客の方は魅力を感じないのだろうか。松陰神社のすぐ側にあるので(徒歩2~3分)足を運ぶのもいいのではないかと思います。
# by kfujiken2 | 2017-08-30 10:09 | 未分類 | Comments(0)

書道と着物は和文化の象徴的存在である。


昨日スターピアくだまつの2F展示ホールで開催されている「第27回 墨泉会書展」を
見学に訪れ、小柄で和装がよくお似合いな素敵な女性の春葉さんに迎えて頂きました。

記録や伝達の手段として生活に欠くことのできない文字、古代中国で生まれた漢字も
その一つです。中国と日本で発展を遂げた「書」は、墨と筆によって紙に書かれた文字を
意味だけでなく色や造形、構成といった要素を含めて鑑賞する芸術です。


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さて、春葉さんの作品をご紹介しましょう。
昨年の出品は「豊穣(ほうじょう)」と「藝(げい)」、今年が「情熱」と「譽(ほまれ)」です。
古式豊かな異体字「藝」、「譽」は日本文化を感じらす漢字ですよね・・・
私が春葉さんに、何故2字とか1字の大きな文字を選ぶのですかと訪ねると、
彼女曰く、多い作品の中で目立たすにはゴチァゴチァ書かず端的な方がいいと!!!
なるほど そりゃそうだと納得しました。


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春葉さんが説明して下さるには、この「情熱」という文字は3本の筆を同時に持ち、
先に金粉を散らして置き、書かれたそうです。
勢いのある文字ですが、女性らしい優しさを表現する曲線がいいですよね~
正に墨アートです・・・ 素人が勝手な批評してごめんなさい m(__)m



マットに着物の布を使用するのは、
春葉さんの得意なパターンで一目見たら、春葉さんの作品と分かります。

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※ 【ちょっと一言】 書道と習字の違いは・・・
習字はその名の通り、「字を習う」という意味であり、教わった通りお手本を真似字をきれいに
書くことに主眼を置いてます。
書道では、「美しく書く」ことに加えて、どれだけ自分の個性を「字」を通して表現できるかに
着目した芸術の1つだという決定的な違いがあります。

# by kfujiken2 | 2017-08-27 15:24 | 未分類 | Comments(0)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part2

おっとと~ 寄り道したのを忘れていた!!

国道316号線を北上し湯本温泉街に入り大谷山荘が見えて来た。
昨年プーチン大統領が宿泊され、安倍総理と日露首脳会談が行われた大谷山荘を
見学する訳にも行かず、ならば大内義隆父子が自刃された大寧寺にお参りして行こう
と立ち寄りました。


大寧寺は皆さんよくご承知とは思いますが、1551年(天文20)、陶晴賢の反逆により山口を追われた
大内義隆は、仙崎から海路九州へと逃れようしたが叶わず大寧寺に籠もったが、陶軍の攻撃を受けて
9月1日寺内において自刃した。


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※ 【ちょっと一言】 大寧寺開基は長門守護代・鷲頭弘忠(わしず ひろただ)とありますが、
鷲頭家の始祖は、周防国鷲頭庄(現在の下松市近辺)を所領とした大内氏の一族で、
鷲頭弘忠は6代目にあたる、つまり下松市に居を構え下松市にゆかりのある一族ということです。



「姿見の池」と「かぶと掛けの岩」
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盤石橋 (ばんじゃくきょう)

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本堂に通じる第一の橋を盤石橋と言います。 全長14.2メートル、幅2.4メートル。橋下に大寧寺川の渓流が
美しい。 自然石を巧みに組み合わせた橋の工法が見事です。
かってこの橋は、岩国の錦帯橋、山口にあった虹橋と並ぶ「防長三奇橋」のひとつに数えられました。
橋の巨石に漢詩と建設の記録が刻まれています。


仏法を守る石彫 釈迦三尊と十六羅漢

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# by kfujiken2 | 2017-08-24 09:10 | 未分類 | Comments(2)

北浦(長門・萩・津和野)をピンポイントで散策 Part1

とりあえず西から東へと山陽自動車道の美祢ICで降り、国道316号線を北上し長門市へ!!!目的地童謡詩人・金子みすゞ記念館へひとっ飛び・・・

みすゞが幼少期を過ごした書店・金子文英堂の店の前と店内
当時の復刻版が並んでいる

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一階部分 すぐ左側に二階に上がる階段がある。
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二階にあるみすゞの部屋 窓から通りを眺めていたとか。

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※ 【金子みすゞ記念館】 は撮影禁止 クリックすると金子みすゞ記念館のホームページに
ジャンプします。



みすゞモザイクアートM2012

木片ピース20,000個を使って作られた立体モザイクアートです。女学校時代と20歳のみすゞの
肖像画と王子山から見た仙崎の風景、青海島の変装行列をモチーフに作られたもので、左右、正面からと
3方向で違ったモザイクアートを見ることできます。

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プロジェクトM20000


長門市仙崎のみすゞ通り中ほどにある、旧JA倉庫に展示されている「プロジェクトM20000」は、
蒲鉾板20,000枚を組み合わせて、金子みすゞの詩「大漁」の世界を表現しています。
この「プロジェクトM20000」には仕掛けがあり、部屋の中にあるスイッチを押すとブラックライトに
照らされた大羽鰮の大群が浮かび上がります。


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入口正面の壁面には、イラストレーター尾崎眞吾氏が描いた金子みすゞの肖像画が、
プリントされています。

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駐車場側の壁面には、12万枚の写真による巨大モザイクアートの縮小版が、
プリントされています。

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# by kfujiken2 | 2017-08-21 16:01 | 未分類 | Comments(0)

「弾除け神社(三坂神社)」

戦時中、山口県徳地に「弾除け神社(三坂神社)」と呼ばれた神社があります。
戦地での無事を願って家族が、本人に内緒で写真を奉納し送り出したそうです。


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明治8年(1875年)、郷社に列し日清・日露戦争の際、三坂神社に武運長久を祈願した人が
全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。
大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、
最高で1日に880人が祈願したそうです。
終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、
その数一万数千枚に達したらしい・・・

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三坂神社は大きな神社ではないが、『周防徳地誌』に万葉集に「千早振る神の三坂に
幣奉り祝ふいのちはおも父がため」と詠まれており、、正一位を授かり、豊臣秀吉公が
三坂神社に参り五色の吹貫等を献納し、参道の石畳は足利尊氏が敷いたと記述が
あるそうです。
由緒ある神社ですよ~~~
現在は石が風化して刻まれた文字は読むことが出来ませんが、
二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。


足利尊氏が敷いたという参道の石畳
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長州藩4代藩主毛利吉広の寄進したという二ノ鳥居
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幕末の文久元年(1861年)に現在の拝殿が建てられたが、本殿・幣殿は昔のまま様です。
それに左上に本殿が見えますが、拝殿からの続きになっているようで中を見ることは出来ません!


社殿の全景と拝殿
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神徳顕彰碑
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# by kfujiken2 | 2017-08-14 15:53 | 歴史 | Comments(0)


山口県の歴史・風景・花や世相のトピックをお届けします


by fujiken

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