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一夜で「右側通行」が左に、沖縄 "730(1978年7月30日早朝)"の大事業 1972年復帰後六年たった1978(昭和53)年7月30日午前6時、米軍施政下から続いていた「車両右側通行」が、左側通行に 変更されました。 実施の日付なんで、「ナナサンマル」と呼ばれるこの事業は、海洋博と並ぶ復帰後の一大事業として、多くの県民に記憶されている出来事です。 沖縄県で右側通行から左側通行への変更が行われたのは、復帰6年後の1978年7月30日早朝のことだ。 なぜ変更の必要があったのか。道路交通についてのルールを定めた「ジュネーブ道路交通条約」では、「一国一交通制度」を遵守する旨が記されている。沖縄が本土復帰した以上、速やかな「右側から左側への変更」が求められたわけだが、復帰直後の変更はコストや手間が膨大なことから先送りされ、「沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律」に準拠し、暫定的に1975年以降に変更すると定められた。 アメリカに行ってレンタカーを借りたらつい左側車線に入ってしまい、もう少しで正面衝突を喰らうところだった――など、「左側通行の世界」で暮らしている人が左ハンドル車に乗って右側通行で走ると、いろいろと戸惑うことになる。730に向けた準備や訓練、そして事故なはなかったのか。 路線バスの運転手に対する事前の練習らしい練習はなく「空き地のようなところで右ハンドルの新しいバスをちょこっと走らせた程度」だったのだという。事前にバス事業者から沖縄県警に対して訓練の申し出があったが「運転手の感覚を混乱させそうだ」という理由で却下された経緯があったからだ。 大きな資金が必要と懸念されたのは、進行方向変更に伴う新たな路線バス車両の準備だった。乗降口をバスの右側から左側に、ハンドルを左から右へと変更しなければならず、この財源は国庫補助金などが充てられた。その結果、730の施行前に県内にあった左ハンドル車1295台は、施行に合わせて右ハンドルの新車1019台、中古車3台を導入して置き換えた。 #
by kfujiken2
| 2023-03-22 07:43
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「ありがとう」は魔法の言葉 「ありがとう」は、伝える人も伝えられた人なもお互いが幸せになれる素敵な言葉。また感謝の気持ちを持つことで、物事が良い方向へ進み出すとも言われています。 ◆ 「ありがとう」がもたらす効果とは・・・ 脳内から幸せホルモンと呼ばれるセロトニン、集中力・意欲アップや幸福物質とも呼ばれるドーパミン、絆ホルモンと呼ばれるオキシトシン、免疫アップなど脳内麻薬とも言われるエンドロフィンが分泌されると言われています。 【1】ポジティブになれる 感謝の気持ちを表現することで、ストレスに強くなりモチベーションがアップすると言われています。 【2】人間関係が良好に 人間関係が良好であれば、たとえ予想もしなかった困難な事が起こったとしても、周りと協力し合って挑むことができます。 【3】健やかな体づくりができる 「笑顔が健康に良い」という話はよく見聞きしますが、「ありがとう」といった感謝の言葉も、同様の効果が期待できると言われています。 【4】笑顔が輝く 「ありがとう」という感謝の言葉を伝えるとき、表情は自然と柔らかく優しい笑顔になっている人が多いでしょう。 【5】自信を持てるようになる 先に挙げてきた4つの事がどんどん積み重なることで自信へとつながり、例え落ち込むことがあっても、前へ進むためのひとつのステップと思えようになっていくでしょう。 ◆ 感謝の気持ちを育てるヒント 感謝の言葉は、当然ながらそこに心がこもっていなければ、その効果は発揮できまん。心のこもった「ありがとう」の気持ちを、ごく自然に相手に伝えるためには「感謝の気持ちを育てること」が大切になってきます。 ⚫ 笑顔を心がける ⚫ その日にあった「嬉しかったこと」を書き記す ⚫ 言葉で伝えよう ⚫ 褒め言葉を受け入れよう #
by kfujiken2
| 2023-03-16 14:05
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by kfujiken2
| 2023-03-12 08:23
| 未分類
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江戸城無血開城の主演は「勝海舟と西郷隆盛」でなく 嫁姑バトルを演じていた「篤君と和宮」 江戸城無血開城とは、王政復古を経て新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本の近代史最大の内戦で、1868年から1869年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件で、徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたこと ◆ 篤姫について 当時、斉彬には妙齢の娘がおらず、親戚を探して篤姫に白羽の矢が立ったのですが、前述のように将軍との結婚となると格式の問題があり、島津家の分家では釣り合いが取れないために本家の斉彬の養女になり、さらに京都の五摂家の近衛家の養女としてお輿入れに。篤姫は、嘉永6年(1853年)8月21日に鹿児島を陸路出立して熊本を経由し、まず江戸の薩摩藩邸に入りました。すぐに大奥入りするわけではなく、篤姫は年寄りの幾島(篤姫の叔母の嫁ぎ先である京都近衛家に仕えた経験があり篤姫の教育係、後、大奥の重鎮に)に薩摩弁の訛りを直されたり、行儀作法とかもみっちり教え込まれ、斉彬に大奥の事情から次期将軍に慶喜擁立の重要性などを叩き込まれ、お妃教育ならぬ将軍の御台所教育を受けた。 そのして篤姫は、 安政3年(1856年)に右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女となり、いよいよその年の11月に13代将軍徳川家定の正室として大奥入りしました。ところが、安政5年7月6日(1858年8月14日)に家定が35歳で急死し、仏門に入り院号で呼ばれることになるので、篤姫は以後、天璋院(てんしょういん)と呼ばれ、引き続き江戸城大奥に前将軍御台所、大御台様として君臨することに。大老井伊直弼も、紀州藩主で父が御三卿清水家の出身の徳川慶福(よしとみ)を後継者にと大老の地位を利用して強権を発動して反対派を弾圧、安政の大獄に。その結果、13歳の慶福が14代将軍に就任、家茂(いえもち)と改名。 尚、島津家は家定死後、篤姫に薩摩帰国を申し出たけれど、篤姫は江戸で暮らすことを選んで、その後も鹿児島に帰ることはありませんでした。 ◆ 和宮について 公武合一環として、孝明天皇の妹である和宮親子内親王と、14代将軍家茂の婚儀が行われました。 二人は同い年の17歳。周囲の喧騒をよそに、家茂と和宮の仲はいたって睦まじかったといいます。家茂は真面目で物堅い性格で、若年ながら自分の立場をわきまえて、難しい政局に対処していました。そんな家茂の姿は、やはり政治に翻弄されて将軍に嫁いだ和宮には、共感するところがあったようです。家茂もまた、か弱い身で関東に来なければならなかった御台所に、いたわりの情を示しました。結婚して4年で将軍家茂を失った和宮は、21歳で落飾し、静寛院宮(せいかんいんのみや)と呼ばれることになりました。家茂の急死により、早急に決めなければならなくなったのが、徳川将軍家の継承者です。家茂は、田安家の亀之助に継がせたいという意向でした。しかし幕府老中らは、亀之助はまだ4歳で、困難な政局にあたる将軍職には適さないとし、一橋慶喜を推します。 かつて慶喜と対面し、よい印象を抱いていない篤君は、亡き家茂の意向を守るよう強く主張しますが、和宮の見解は異なりました。「確かに幼年の亀之助では、国事多難な政局の舵取りをすることは難しい」と、篤君に再考を促したのです。篤君はそれでもなお家茂の意向を重んじ、大奥の大半も篤君を支持しますが、結局は和宮や篤君の手の届かないところで、慶喜の継承が決まりました。 慶喜は2年前の元治元年3月より、禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)として京都にあり、在京幕府勢力の指導的立場です。将軍就任後も引き続き畿内に滞在し、篤君や和宮にすれば、顔も見ぬうちに慶喜が徳川宗家と将軍職を継ぐかたちとなりました。慶喜の正室で一橋屋敷にいる美賀君(みかぎみ)も、従来のように御台所として大奥に入ることは見合わされます。このため江戸城大奥は、篤君と和宮という2人の大(おお)御台所が中心となって運営されることになりました。 ◆ 篤君と和宮の嘆願 京都の新政府に対し、先帝の皇女・和宮の言葉は少なからぬ影響力がありました。和宮が東海道鎮撫総督橋本実梁(はしもとさねなや)に宛てた書状では「私への哀れみと思って、汚名を綺麗にし徳川の家名の立つよう、私の身命に代えてお願いいたします」「徳川家の滅亡を見ながら生きながらえるのは残念ですので、その場合は私にも覚悟があります」と、我が身に代えても徳川家の存続を認めるよう切々と訴えています。和宮の嘆願は新政府の公家たちの心を揺さぶり、寛大な処置をほのめかす者も現れました。 しかし、薩摩藩の者たちは強硬でした。たとえば西郷隆盛は、和宮の嘆願に対してこう言っています。「慶喜退隠の嘆願など、不届き千万である。静寛院宮(和宮)も、やはり賊の一味となって、退隠ぐらいで済まそうと思っておられるようだ。ここは断固として、徳川を追討すべきと存ずる」。 そんな西郷に嘆願書を送ったのが、篤君でした。「(徳川家存続について)私がこの一命にかけて、ぜひにもお頼みするところでございます」「私が徳川家に嫁したのも、御父上様(島津斉彬)の深い御思慮があってのことです」「(徳川家存続を)取り扱っていただければ、私の一命をお救いくださるよりはるかに重く、ありがたく」「この困難をお救いくださりましたら、島津家ご先祖やお父上様(斉彬)への孝行の道が立つだけでなく、徳川家への義理も立ち、あなた様の武人としての徳と、人間としての仁心もこの上ないものと思います」と、西郷が尊敬してやまない斉彬の名を出した上で、西郷が重んじる道徳心に訴えました。和宮の嘆願は聞く耳持たない西郷でしたが、島津斉彬が見込んだ旧知の篤君の手紙は、さすがに無下には扱えなかったでしょう。一説に落涙した、ともいいます。 嘆願書で和宮は「私の身命に代えて」、篤君は「私がこの一命にかけて」と、それぞれ徳川家の存続に命をかけることを伝えています。その覚悟が本物であることは、彼女たちが江戸城を動こうとしなかったところにも表れていました。 東征大総督の有栖川宮熾仁親王率いる軍勢が京都を出発し江戸へ向かいます。その3日前、慶喜は江戸城を退去し、寛永寺で謹慎生活を開始。幕臣たちも櫛の歯が欠けるように、日に日に城内から姿を消していきました。しかし、篤君と和宮はまったく動揺せず、あらゆるつてを用いて嘆願書を送り続けます。思えば有栖川宮熾仁親王は、和宮のかつての婚約者であり、新政府軍の中心は、篤君の実家の薩摩藩でした。篤君も和宮も実家の軍勢から攻められる立場となりましたが、ひるみません。そして危険を冒して嘆願書を運ぶのは、大奥の女性たちでした。かつての武家風、御所風の対立など関係なく、大奥が一丸となって徳川家を守ろうとしたのです。江戸城総攻撃を目前に控えた勝海舟と西郷隆盛による有名な会談が行われ、会談は短時間で終わります。よく知られる通り、勝と西郷の会談の結果、江戸城総攻撃は中止となります。篤君と和宮の命がけの闘いが、江戸城無血開城、徳川家存続の切り札の一つになった可能性はあるといえるでしょう。 ✿ 討幕軍による江戸城総攻撃が決定され江戸は未曾有の事態に見舞われます。そのとき、篤姫と和宮は確執を捨て、命をかけて江戸城を守ることに行動を起こします。朝廷や薩摩に懇願し江戸城無血開城へ導いていくのです。 「女は婚家が終の栖処(ついのすみか)」と思い篤姫と和宮の嘆願はお涙下さいではない、真の訴えだったのです。 #
by kfujiken2
| 2023-03-08 09:13
| 歴史
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#
by kfujiken2
| 2023-03-01 07:10
| 歴史
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